太田述正コラム#11105(2020.2.13)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その55)>(2020.5.5公開)
「『大日本史賛藪』というのは、安積澹泊が書いた論賛を別に集めて本にしたものであります。
その・・・論賛の中の推古天皇・・・<や>蘇我馬子及び子孫<について書いた部分<・・推古天皇に関しては、>女の天皇などというものはそういうものだ、まあしょうがない、ということ<言っている・・は、>要するに仏教信仰が一種のフェチシズムにまで堕落して、惑溺にいったのだということでありま<す。>・・・
⇒「「儒教の普及と受容」こそは日本思想史の近世を中世と分かつ顕著な指標であるといえよう。それまで京都の博士家や五山寺院を中心とする閉鎖的世界の中で伝授されてきた儒教が、近世に至ると俄然、清新な学術として広く受けとめられるのである。・・・儒教を尊崇した「官」側の代表的大名としては何といっても水戸藩の徳川光圀および岡山藩の池田光政が重要であり、彼らの儒教儀礼に関する関心にも当然ながら際だったものがあった。・・・安積澹泊の葬儀の記録<を読むと、>・・・七光圀の首唱した儒教儀礼が水戸藩の家臣の間にも行なわれていたことをよく示している」
https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/48/kiyo4802.pdf
という背景の下で、澹泊はそう書いたわけです。
この安積は、(恐らくは女性差別的筆致(注67)からもうかがわれるように、)師の朱舜水、君主の光圀、の唱えるタテマエ論(注68)を拳拳服膺したところの、律儀だけれど頭の固い人物であったと言ってよさそうです。(太田)
(注67)「女子と小人とは養い難し」とは、「《「論語」陽貨から》女性と徳のない人間とは、近づけると図に乗るし、遠ざければ怨むので、扱いにくいものである。」との趣旨。
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%81%A8%E5%B0%8F%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AF%E9%A4%8A%E3%81%84%E9%9B%A3%E3%81%97-534570
(注68)光圀(1628~1701年)は、「正室泰姫には結婚5年ほどで先立たれており、また終生正式には側室を持たなかった・・・<。そして、>元禄9年(1696年)12月23日、亡妻・・・の命日に落飾<してい>る。<また、>・・・久昌寺に招いた<日蓮宗の>僧・日乗らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。・・・浄土真宗願入寺15世如高の娘を養女とし・・・城内に入れて鶴子姫と称し、東本願寺第14代門主・琢如の次男・如晴(瑛兼)を婿に迎え、寺領300石を与えて願入寺を再興させ<てもいる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
江戸の学者によって<、>・・・「脆溺」「陥惑」というのも「溺惑」というのも、ほとんどこれらは「惑溺」と同じ意味に用いられて<きました。>・・・
維新の直後<においても、>この言葉を使ったのは、必ずしも福沢だけではないのであります。・・・
とくに啓蒙思想家の例を・・・申し上げます<と、>その一人は西周<(コラム#1593、10042、10568、10728、10732、10736、10820、10838、10866)>であります。・・・
明治3年<に>・・・西周が・・・講義したものを筆記したのが『百学連環総論』で<すが、その中>・・・で・・・prejudiceという字に臆断をあて・・・superstiionに惑溺という字があててあります・・・
さらに一つ例を挙げますと・・・大島貞益<(注69)>です。
(注69)1845~1914年。「但馬国養父郡大藪村(現兵庫県養父市大藪)で、大藪領主旗本小出英道の家臣、西洋兵学者・大島貞薫・・・の三男に生まれる。・・・箕作麟祥の英学塾に学んだ後、慶応4年(1868年)7月に新政府の海軍省翻訳方に出仕し、以降文部省・統計寮・外務省などを転々とし明治11年(1878年)1月に外務省御用掛を免職となるまで翻訳業務に従事した。・・・官職から離れた大島は、・・・熱烈な保護貿易論者に転向し、欧化主義の退潮と国粋主義の勃興という時代思潮のもとで新進のエコノミストとして注目されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E8%B2%9E%E7%9B%8A
⇒大島本人は幕臣の子ですし、先生の箕作麟祥も「結城秀康を祖とする越前松平家分家の松平」家を当主とする津山藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E8%97%A9
の藩士の子で、「家と江戸幕府の蕃書調所・・・で蘭学を学んだ後、ジョン万次郎・・・について英学を学んだ。1861年(文久元年)に15歳の若さで蕃書調所の英学教授手伝並出役、1864年(元治元年)には外国奉行支配翻訳御用頭取となり、福澤諭吉・福地源一郎らとともに、英文外交文書の翻訳に従事し・・・帰国後の1868年(明治元年)、明治新政府の下で、開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。・・・翌1869年(明治2年)には東京に戻り、外国官(現・外務省)翻訳御用掛となるが、外交官を好まず、同年大学南校(現・東京大学)大学中博士に転じ・・・日本における「法律の元祖」と評される<に至る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E4%BD%9C%E9%BA%9F%E7%A5%A5
という、典型的な、幕府系の学者であり、箕作同様、大島も、まさに、横のものを縦にすることを学問だと思い込んでいたところの、丸山流学者的人物である、と推察されます。(太田)
彼は、>・・・太政官の翻訳局<勤務していた時の>・・・バックルの『英国開化史』<の>・・・翻訳<の中で、>・・・superstition<を>「惑溺」と訳<し>てい<ます。>・・・
<また、>惑溺が「知識ノ進歩」の反対概念として用いられているところが、・・・福沢のケースを考える場合に重要と思われます。・・・」(228~229、231、234~235)
(続く)