太田述正コラム#11119(2020.2.20)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その62)>(2020.5.12公開)

 「ともかくここで「国権論」を非常に強調したことと、この時に「惑溺」という同じ言葉を中国に向けて頻発して、清国批判をしたこととの関係が重要であります。
 明治10年代の国権論で果して福沢が変ったかということは大問題で、本日論じることではありませんから、詳しく申しませんけれど、『通俗国権論』が出ましたのは先程申しましたように明治11年であります。
 ところが明治11年という同じ時に塾でもって、福沢は『文明論之概略』の講義をしているわけです。
 もし福沢がどうも『文明論之概略』はまずいというように思ったとしたならば、テキストには使わないでしょう。
 したがってそう簡単にここで『文明論之概略』の論旨から変って、「国権論」の方に傾斜したというふうには言えないのではないか、曾(かつ)て日本文明を批判した同じ論旨を同じ惑溺の言葉をつかって、今度は清国に向けているということに当面注意したいと思います。
 さて今度は第三期、最晩年であります。
 こうなるといよいよ「惑溺」という言葉は使わなくなります。
 一つ、さきほど言うのを忘れましたけど、ちょうど『通俗国権論』や『時事小言』が出た頃、まだ比較的に「惑溺」の語を使いつづけた理由の一つは、その当時政府が復古主義の教育をやってまた儒教を振興しはじめたわけです。
 福沢は口を極めてこれを批判した。
 それでどうしても、清国批判というものと、こういう政府の儒教主義復活批判<(注81)>というものがダブって、「惑溺」という言葉が登場してきたということであります。

 (注81)「時事新報創刊以後、福沢の著作は、まず社説として掲載され、のち単行本化されることを例とした・・・。
 もともと社説の体裁であるため、内容は時事論が多い。とりわけ、維新以来基本的に開明政策を進めてきた明治政府が、この時期になると、かなり保守的な傾向を露呈し始めたことへの批判が中心となっている。政府の傾向を憂慮した最初の総論的批判が『時事大勢論』<(明治15年4月刊)>であった。以後、教育における儒教主義復活を批判した『徳育如何』<(明治15年11月刊)>、『学問之独立』<(明治16年2月刊)>、私立学校に対する徴兵猶予特権剥奪をきっかけとして徴兵のあり方を論じた『全国徴兵論』<(明治17年1月刊)>がある。また、来たるべき国会開設へ向けた主権論争や帝政党批判の中から、皇室を政治に巻き込むことの危険性を指摘したのが『帝室論』<(明治15年5月刊)>であり、世間一般に醸成されてきた官尊民卑の風潮を批判したのが『士人処世論』<(明治18年12月刊)>であった。」
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/20.html

⇒諭吉は、慶應義塾に拠って、民間における島津斉彬コンセンサス信奉者、実践者の養成を追求することを自分の使命であると考え、時事新報は、隠れたタテマエは島津斉彬コンセンサスの情宣、隠れたホンネは慶應義塾のマーケティング、のために創刊された、というのが私の見方であるところ、(以下、各論考の原文には一部しか目を通していませんが、)官僚ならぬ実業家養成を掲げる私立の慶應義塾に有為の青年達を惹き付けるべく、『時事大勢論』では官界批判を行い、『徳育如何』と『学問之独立』で徳育批判を通じて諭吉流実学のススメを行い、『全国徴兵論』で慶應義塾「差別」回避を狙い、『帝室論』で皇室は官界のものだけではなく民間のものでもあることに注意を喚起し、『士人処世論』で官民平等を唱えた、のであろう、と、私は解しています。
 この際、丸山と諭吉とのご縁について、簡単に振り返っておきたいと思います。↓
 「丸山の福沢論は、朱子学に対する革命的な反対命題を提示した荻生徂徠以降の日本の儒学の自己否定的な発展の上に、福沢を位置づけたところにその独自性がある。つまり徂徠学の成立および展開過程を通して、その中から自生的な(indigenous)日本近代化の萌芽を探ろうとした丸山が、最も破壊的な儒教批判者であり、また最も前衛的な近代化論者であった福沢に行き着いたことは必然であった。
 福沢についての丸山の最初の論文は、「福沢諭吉の儒教批判」(『東京帝国大学学術大観 法学部・経済学部』1942年4月)である。
 それに先立って、近世日本における儒教思想史に関する丸山の二つの論文が完結し、相次いで発表された。1940年2月~5月に発表された「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」およびそれに続いて1941年7月~9月、12月、1942年8月に発表された「近世日本思想史における『自然』と『作為』─制度観の対立としての」の二つの論文である。両論文は時間的にも内容的にも1942年4月に発表された福沢論と接続するものであった。両論文は共に、幕藩体制の支配的イデオロギーの源泉であった儒教(朱子学)の学説それ自体の発展の追究を通して、その基本的な思考様式の解体過程を明らかにし、その中から自生的な(indigenous)日本の近代化の萌芽を探ろうとした。これらの論文が逢着したのが、丸山の日本政治思想史研究の一大主柱を成した福沢論であった。
 徂徠学を主題とする以上の二つの論文には、既にそれぞれ福沢への言及、ないし福沢からの引用が見られる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja/72/Special_Issue/72_209/_pdf/-char/ja
 丸山は、彼の事実上の「学問」的出発時点における、思い付き的な自分の日本の「近代主義」濫觴論、の偏光色眼鏡でもって、諭吉を最初から見ていた、ということがお分かりいただけると思います。(太田)

 有名な「脱亜論」のなかにも「支那朝鮮の士人が惑溺深くして」云々といっております。
 それにしても第一期に比べると頻度はずっと減っています。
 これが晩年になりますとほとんど出てこなくなるわけです。
 実質的にこの「惑溺」という言葉と意味と共通し、また表現も類似しながら、最早(もはや)「惑溺」という言葉では出てまいりません。
 一例を挙げます。
 『福翁百話』、ご承知のように明治30年に出ましたが、「序言」は29年であります。
 その中に「士流学者亦(また)淫惑を免かれず」という項がありますが、ここで淫惑と書いてることは惑溺といっても同じことであります。(248~250)

(続く)