太田述正コラム#11123(2020.2.22)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その64)>(2020.5.14公開)
「また同じく『福翁百話』には、世間の学者がよく宗教の「霊怪説」を攻撃して「虚誕の甚だしきもの」というが、それほど咎めるには当らない、という論旨がありますが、この「虚誕」も福沢が早期から非常によく使っている言葉ですが、そのまま晩年まで用いています。
それとならんで例えば、『女大学評論』(明治32年)で、ご承知の通り、男を天に譬え女を地に象(かた)どって陰陽などというのはまったく不当だ、ということを論じる場合にも、「無稽に非ずして何ぞや。古言古法を妄信して万世不易の天道と認め」云々と言っております。」(251)
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[女大學評論・新女大學]
「徳川時代の女道論で最も勢力のあった貝原益軒の「女大学」に対しては、幕末、[彼が二十五歳で大阪から江戸に出て来た]頃から、福沢は甚だ批判的で、常にその所説を駁撃してやまなかったが、[彼が六十八歳で没する僅か二年前<に>・・・時事新報にのせた]この[明治三十二年<の>・・・二]書において福沢は「女大学」の各条項を徹底的に批判し、併せて自己の立場からの「新女大学」を書いたものである。・・・
定価は弐拾銭であるが、別に定価四拾銭の上製本もあり、これは鶯茶の絹を表紙に貼り、紫の絹絲でニケ所を結び綴にしたもので、「女大学評論新女大学全」の文字を印刷した白絹を題箋として中央に貼り、本文用紙も竝製のものより良質のものが用ひてある。蓋し結婚などの贈答用に製られたものであろう。福沢は上製竝製ともに盛んにこれを人に贈ったものの如く、中扉の裏に「男子も亦この書を読むべし明治三十四年福翁記」と肉筆で記した贈呈本が沢山ある。・・・
「福翁自伝」「福翁百話」・・・「福沢先生浮世談」やこの書などは、福沢晩年の傑作として世に迎へられ、しばしば版を重ねた。
この書は大正の末頃までに五十版ぐらいまで行われたもののようである。」
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a53/117
「男女を区別したるは女性の為に謀りて千載の憾(うらみ)と云うも可なり・・・学問の教育に至りては女子も男子も相違あることなし。・・・文明普通の常識<の程度として、>・・・殊に我輩が日本女子に限りて是非とも其知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此二者にあり・・・形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」
https://books.google.co.jp/books?id=LPHAS3FTjcIC&pg=PP6&lpg=PP6&dq=%E5%A5%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%A9%95%E8%AB%96&source=bl&ots=Kl0REoTzXX&sig=ACfU3U1JXPIrfjeUVsXVB5rLikoBADrz3g&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi_kY3ot-TnAhWSUN4KHUSsAdM4KBDoATAAegQICBAB#v=onepage&q=%E5%A5%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%A9%95%E8%AB%96&f=false ([]内も)
(↑これは、作家の宮本百合子の昭和十五年三月のエッセイ中の『女大學評論・新女大學』からの引用であるところ、このエッセイの中に登場する菊池寛の『新女大学』(昭和十三年)の内容が、その四十年前の諭吉とは違って女性差別的なものに戻ってしまっていることは興味深い。想像するに、当時、既に、日本全体が男性差別社会になってしまっていたことの反映ではないか。この話は、機会あらば、改めて取り上げたい。(太田))
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⇒すぐ上の囲み記事に目を通していただいたことを前提に、これも余談に近いですが、一言。
まず第一に、諭吉は、男性優位の武士/士族の男女関係だけを見て、男女平等の庶民のそれを見ていなかったのではないでしょうか。
そして、第二に、さすがに、諭吉にもそれが分かっていたからこそ、晩年まで、この類の趣旨のものなど書かなかったと考えられるところ、日本で、明治31年(1898年)に、男性優位の(武士/士族的ないし欧州文明的)立場に立ったところの、民法の第四編、第五編(親族、相続)(注84)が制定、施行された時節柄、逆張りモノを書けば売れるとの予感があって、初めて書いた、と私は見ています。
(注84)「家父長制(かふちょうせい、ドイツ語: Patriarchat、英語: patriarchy)は、家長権(家族と家族員に対する統率権)が男性たる家父長に集中している家族の形態。「父権制」と訳されることもある。古代ローマに、その典型を見ることができる。日本の明治民法において、家長権は戸主権として法的に保証されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%88%B6%E9%95%B7%E5%88%B6
いずれにせよ、諭吉が、『女大學評論・新女大學』で自らが縷々訴えたことなど、本心ではないとまでは言わないとしても、およそ重視していなかったであろうことは、慶應義塾が、諭吉が亡くなるまで女性に門戸を開かなかったどころか、女子聴講生受け入れがようやく1938年で、実に戦後になってから、女子学生受け入れが1946年、 女子高等学校開設が1950年、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%87%89%E7%BE%A9%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6
という体たらくであったことが如実に物語っています。
一事が万事であり、耳タコでしょうが、維新以降の、諭吉の「学者・教育者」として言動それ自体を、夢、真面目に受け取ってはならないのです。(太田)
(続く)