太田述正コラム#11125(2020.2.23)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その65)>(2020.5.15公開)
「この場合の「無稽」にしろ、「妄信」にしろ、今日でも使う言葉です。
そうして「惑溺」というのと実質的に意味はあまり変らないのに、「惑溺」とはいわない。
初期から用いていた「惑溺」も「妄信」も最後まで残りながら、「惑溺」という用語は『学問のすゝめ』と『文明論之概略』の二著であれほど頻繁に用いられながら、明治10年代には著しく減少し、晩年には使ってよさそうな場合にも使っていない・・・。・・・
<ところで、>福沢の愛読した外国文献は、非常に大きく申しますと三つのジャンルに分けられ<ます。>・・・
第一のジャンルは・・・教材とか会話書とか地理書とか辞書の類・・・。
第二のジャンルは福沢の時代からそれほど遠くない時期に出た本で、しかも今日でも古典的位置を占めている著作であります。
・・・<フランスの>トックヴィルの<もあるけれど、基本的には、イギリスの>J・S・ミル<や>・・・バジョット<の本です。>・・・
それから第三は、当時はベストセラーでありながら、急速に忘れられていった思想家の著作であります。
この中にバックルが入ります。
スペンサーもややこのジャンルに近い。・・・
ハーヴァードのクレイグ教授なんかに聞くと、・・・バックルの文章はヴィクトリア時代の典型的な悪文だと言うことです。
大体ヴィクトリア時代というのは思想的にも文体の上でもドイツの影響を受けた時代です。
これはJ・S・ミル・・・もそうですね。・・・
センテンスが非常に長く、関係代名詞でどんどんつないでゆ<きますし、>・・・注が多いというのもドイツ的で<す。>・・・
⇒バックルの『文明の歴史』の第1巻は1851年、第2巻は1861年、の出版です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB
が、ヴィクトリア女王(1819~1901年。英国王:1837~1901年)の母親はザクセン=コーブルク=ザールフェルト家出身で、ドイツの侯爵と結婚したが先立たれ、ジョージ4世・・当時はまだ皇太子・・の四男<の>ケント公と再婚し、長女ヴィクトリアを授かったがそのわずか8ヶ月後に公は死去してしまい、まだその時には英語もしゃべれなかった母親にヴィクトリアは育てられることとなり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%B9%EF%BC%9D%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0%EF%BC%9D%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89
しかも、この母親の甥で自分の従兄弟であるところの、ドイツのコーブルク=ゴータ家のアルバートとヴィクトリアが結婚したこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88_(%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%85%AC%E5%AD%90)
からして、ヴィクトリアはほぼドイツ人であったと言っても過言ではないこと、かつまた、そもそも、ジョージ1~4世は、英国王であると同時にハノーヴァー王でもあったところの、ハノーヴァー朝の国王達であり、4世ですら、半分はドイツ人であったことを想起すれば、この、ヴィクトリア(ザックス=コーブルク=ゴータ朝)を含めた諸国王達の王室から英国社会があらゆる面で影響を受け、その程度がヴィクトリア時代において頂点に達した、としても不思議はありません。
しかも、ヴィクトリア時代の「後期には、<英>国内の生産設備老朽化や、資本集中の遅れから重化学工業への転換が遅れた一方、<米>国やドイツなどの工業力が向上し、<英国>の経済覇権に揺らぎが見え始めた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9C%9D
という時代の変化もあったのですからね。(太田)
オックスフォード大学のスタッブス<(注85)、彼は、>『イギリス憲法史』というのを書いた人らしい<のですが、>・・・こう言っているのであります。
(注85)William Stubbs(1825~1901年)。オックスフォード大卒、修士(文学・数学)。オックスフォード大歴史学教授にして英国教会の司祭。著書の『イギリス憲法史(Constitutional History of England (3 vols., 1874–78))』で有名。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Stubbs
「私は歴史哲学というものを信じない、だから私はバックルを信じない」。・・・
誰が、いつ、どこで、何をしたかをきちんと実証的に書くのが歴史であって、歴史の「法則性」というようなことを延々と論じているバックルは歴史家といえないというわけです。
⇒下掲の引用を踏まえれば、独自の新たな歴史哲学を引っ提げて歴史を解釈・構築したバックルに対するに、当時のイギリスのナショナリスト的識者共通の先入観的な歴史哲学の命ずるままに歴史を解釈・構築したスタッブス、という図式ですね。↓
「Stubbs・・・was an historical scholar with little or no experience of public affairs, with views of the present which were romantically historicised and who was drawn to history by what was in a broad sense an antiquarian passion for the past, as well as a patriotic and populist impulse to identify the nation and its institutions as the collective subject of English history, making」(上掲)
そうであるとするならば、諭吉がバックルに惹かれたのは当然でしょう。
ところで、上掲引用の中にも出て来るように、スタッブスが公職に就いたことがないことを捉えてそれを歴史学者としてのハンデとするのがイギリスでの常識のようであるところ、このような常識はまことにもって健全だと思いますね。
維新後は学者を装いつつも学者であることを止めた諭吉が、丸山が自分を学者であり続けたと思い込んでべた褒めしつつ曲解を重ねたことを知ったならば、少なくとも自分のように(中津藩や幕府に)宮仕えをして実社会というものを知ってからお前もモノを言え、学者を自称するのであればなおさらだ、とこき下ろしたに違いありません。(太田)
そのバックルからあんまり抽象的な理屈が好きでない福沢が深甚の示唆を得たということは、文化接触の問題としても非常に面白いと思うのです。・・・
ところが実際は非常なベストセラーになり、・・・間もなく独訳が出る。
当時にあって直ぐ独訳が出るということは、よほど売れなければ出ないので、一世を風靡したということがわかります。」(251~255)
(続く)