太田述正コラム#10732006.2.7

<日独伊の「民主主義」と米国(その2)>

 (本篇は、コラム#1051の続きです。)

3 オーレン論考の批判的紹介

 (1)始めに

 次に、少し、古いのですが、「民主主義国家」概念の恣意性について論じたオーレン論考(Ido Oren, "The Subjectivity of the ‘Democratic’ Peace: Changing

U.S.

Perceptions of Imperial

Germany

," International Security, Vol. 20, no. 2 (Fall 1995))の批判的紹介をさせてください。

 

 (2)論考の概要

 米国では19世紀までは、民主主義は自由主義より社会主義と結びつけて考えられていた。それは、勤労大衆による支配であると理解されていた。民主主義は、米国の知識人達によって、多数派による専制と個人の自由の侵害をもたらすものとして嫌悪されていたと言ってもよかろう。

 だから19世紀には、米国のイメージは共和主義・立憲主義・自由、そして場合によってはチュートン主義(注2)とは重なり合ったけれど、民主主義とは重なり合わなかったと言えそうだ。

 (注2Tutonism=アーリア主義(Arlianism)=ゲルマン民族の一員であるとの思潮

 当時の米国民の世界観は、米国は、英国・フランス・ドイツ等とともに世界の選ばれた国々に属し、その他の国々を睥睨している、というものだった。そして、この選ばれた国々に共通するのものが、立憲主義であると考えられていた。

 (以上は、コラム#91で説明したところと、ほぼ同じだ。)

 そもそも、19世紀の米国の知識人には、ドイツに留学した者が多かった。その典型がバーゲス(John Burgess1844?1931年)であり、自他共に許す親ドイツ主義者だった。それに対し、ウィルソン(Woodrow Wilson1856?1924年。大統領:1913?21年)は、米国で博士号をとった学者のはしりであり、親英国的傾向があった。

 しかし、そのウィルソンでさえ、1890年頃にはドイツを高く評価していた。ドイツの立憲主義はアングロサクソンの立憲主義よりは劣るものの、フランスのそれよりは優れている(注3)し、ドイツの地方制度は、高額納税者にとって有利な投票ステムという非民主主義的なものであったからこそ、見所がある、としていたのだ。

 (注3)ウィルソンは、ドイツの君主主義的立憲主義は、(それを模倣した日本の立憲主義が日本の歴史的伝統を踏まえたものであるのと同様、)ドイツの歴史的伝統を踏まえたものであり、アングロサクソンの民主主義的立憲主義の猿まねであるフランスの未熟な民主主義的立憲主義よりも優れている、とした。

 なお、ウィルソンは、アングロサクソン(米国・豪州・英国)とスイスを民主主義的立憲主義の国であるとしたが、民主主義という言葉を用いつつも、選挙を余り重視しなかった。彼は、米国は学歴が高くて良く教育訓練された健康な男性によって統治されるべきであり、統治者の選定は、選挙または公務員試験のどちらでなされてもかまわない、とした。つまり、ウィルソンにとって、民主主義とはメリトクラシーなのであって選挙プロセスではなかったのだ。

 ところが、バーゲスの方は、第一次世界大戦中を含め、その生涯を通じて親ドイツ主義者であり続けたのに対し、ウィルソンは、第一次世界大戦を契機として、180度スタンスを変えるに至る。

 すなわち、1917年にウィルソン米大統領は、ドイツを専制国家であると貶め、「世界を民主主義国家にとって平和な場所にするために」ドイツに宣戦布告した。

 米国を民主主義国家とする考え方は、この瞬間に形成されたのだ。

(続く)