太田述正コラム#11129(2020.2.26)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その67)>(2020.5.17公開)

 「士君子学者は実業に無関心で、他方で旧来の町人職人輩というのは大福帳主義か、そうでなければ「賤丈夫」の成金で、新しい社会にふさわしい実業家がほとんど出ていない、ということを<福沢>は口を極めて歎くわけです。
 どうしても「士流」の学者君子が実業に従事しなければならないし、また将来必ずそうなるだろうという判断をしております。」(269)

⇒累次申し上げた理由から、こんなハナシ、丸山のように真に受けるのは禁物なのであって、例えば、「藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農」の家に生まれ、武士の子弟と同様、儒教と武道(剣道)の教育を受け、幕臣に取り立てられ、維新後は大蔵官僚となり、退官後、実業家となり、やがて、「日本資本主義の父」と称されることとなった渋沢栄一、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
や、土佐で生まれ、昌平黌で学び、岩崎家が曾祖父の代に手放した郷士株を買い戻して郷士になり、維新後、三菱財閥の創始者となった岩崎弥太郎、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E
や、薩摩藩士であって、維新後、鉱山業に携わると共に、大阪証券取引所の創立等を行った五代友厚、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A
といった、まさに、「士流」実業家群の出現を当然諭吉だって百も承知で、にもかかわらず、彼、そんなことをしゃあしゃあと書いているのですからね。
 ちなみに、五代は、大阪証券取引所の設立にあたって、明治11年(1878年)4月に、「この企ては、社会全般の人々に、なんらかの利益を与え、なんらかの幸福を招くものであります。・・・株式取引会社の設立を広く全国民に知らせるならば、国民の皆様も、その設立が社会に便益を与えることを知り、とくに膨大な額に上る金禄公債証書などが、将来広く売買されるようになれば、本社の仕事も必ず盛んになることでありましょう。しかしながら、事業が盛んになるかどうかは、お互いの信用が厚いか薄いかによるものであります。したがって、どんなことをするにしても、誠意をつくし、しっかりした規律を立てて、ちょっと見ただけでも、国民の信用が得られるようにしなければなりません。」という挨拶を行っており(上掲)、五代が、まさに、諭吉の期待する実業家像にぴったりの人物であったことが分かります。
 何度も何度も恐縮ですが、これもまた、諭吉一流の(実業家を養成する)慶應義塾のマーケティングの一環だった、ということなのです。(太田)
 
8 『福沢諭吉と日本の近代化』序–1991年

 「・・・私の・・・福沢諭吉に関する研究、および福沢とほぼ同時代の知識人をめぐる思想的雰囲気に関する研究が、・・・翻訳され、中国にはじめて紹介され<たのは、>・・・近代日本のもっとも偉大な思想家の一人である福沢諭吉の足跡–とくに彼の思考方法–を現代中国に正しく伝達しようということ<を>・・・訳者<が>狙<ったということであろう。>・・・

⇒「偉大な思想家の一人」だなんて、諭吉が聞いたら唖然とするに違いありません。
 「偉大な革命家の一人」だと言われれば、頷く可能性が大ですが・・。
 19世紀後半の日本における「偉大な思想家」は、私見では、島津斉彬であり、彼以外には存在しません。(太田)

 福沢・・・の思惟方法については、それが直接的な形で表面に表れていない–福沢自身が抽象的・一般的に自分の「哲学」や「世界観」を語ることを好まなかった–だけに、これまでそうした角度からのアプローチはきわめて少なかった。
 私の研究は日本においても、そうした特殊な観点の希少価値ゆえに、注目を浴びたのである。・・・

⇒諭吉研究に関しては、丸山だけが明後日の方向を向いてしまっていた、というわけです。
 どうして、自分以外の誰も、「思想家」諭吉の「思惟(思考)方法」的なものを研究しようとしなかったのか、を、丸山は不思議に思わなかったのでしょうか。(太田)

 <このような、>具体的=個別的な言説の基底に横たわる思考方法というものは、相対的に比較するならば、特定の時代と特定の風土をこえて、より普遍的な意味を帯びる。・・・

⇒このくだりそれ自体は、間違いではありません。(太田)

 19世紀以来の西洋の圧力は、かつて15、16世紀にスペイン、ポルトガルが来航した時代とまったく情勢が異なるだけでなく、イギリスの東印度会社経営に代表されるような、長期にわたる「西力の東漸」のたんなる延長とも見なしえないような、まったく新しい世界史的事態の出現であった。
 なぜならば、19世紀以後に、東アジアに「開国」を迫った「西洋」の圧力は、「産業革命」(industrial revolution)という、西洋諸国にとっても未曾有の実験をくぐりぬけたか、もしくはその実験の真只中にある、「列強」の圧力であったからである。
 それは単に狭い意味での軍事的侵略というイメージではとうてい捉えることができない性質のもので、政治・経済から文化・教育に及ぶ、社会の全領域に浸透する巨大なエネルギーを内包していた。

⇒いや、そうではありません。
 この全ては、ゲルマン文化由来の一つながりの欧州/イギリスの世界進出であったと見てよい、という私見を申し上げたばかりです(コラム#10813)よね。
 なお、イギリスには産業革命などなかった、ということも、以前から申し上げてきましたところです。(コラム#省略)
 この辺りのハナシについては、丸山を強く批判するのは控えますが・・。(太田)

 そういうエネルギーの殺到に直面したところに、日本・中国・朝鮮に共通した東アジアの深刻な危機が存したのである。」(271、273~275)

⇒このくだりそれ自体は、やはり、間違いではありません。(太田)

(続く)