太田述正コラム#11133(2020.2.27)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その69)>(2020.5.19公開)
「「脱亜入欧」というコトバとイメージには、二つの論点がふくまれている。
一つは近代日本が維新以後今日まで歩んだ現実の歴史的道程を一言に要約してこう呼ぶ風潮である。
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[脱亜入欧]
〇脱亜論(福澤諭吉?)
「『脱亜論』は、福澤諭吉が執筆したと考えられている評論。初出掲載された1885年(明治18年)3月16日の新聞『時事新報』紙上では無署名の社説である。1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、それ以来、福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。・・・
[<いずれにせよ、>『脱亜論』は、アジア諸国に対しては、欧米列強に対抗する上で支那・朝鮮などのアジア諸国が明治維新を成し遂げた日本と共同歩調を取れるよう自ら進化し連携してくれる事が望ましいとはしているものの、「近隣の支那・朝鮮でさえ余りにも前近代の体制に固執し続けているため、彼らの進化を待っていては日本が不当に立ち遅れてしまう。もはや待っている訳には行かぬ」という趣旨でのみ「脱亜」を主張しているに過ぎない。・・・]
歴史学者の平山洋によれば、1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に言及した文献は発見されておらず、発見されている最初の文献は翌1951年(昭和26年)11月に歴史家の遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代後半である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E5%85%A5%E6%AC%A7 ([]内)
〇脱亜入欧論(鈴木券太郎)
「丸山眞男の調査によれば、「脱亜入欧」という成句が使用された最も古い史料は1887年(明治20年)4月14日に『山陽新報』に掲載された社説「欧化主義ヲ貫カサル可ラス」である。・・・
これは『時事新報』に「脱亜論」が発表されてから2年後の社説である。・・・
執筆したのは山陽新報の主筆であった鈴木券太郎<(注89)>である。この社説の中で「脱亜入欧」という成句が4回使用されている。・・・
(注89)1863~1939年。「明治から大正・昭和にかけて非常に著名だった国権主義的なジャーナリスト、教育者。・・・備中国生まれ。・・・慶應義塾に入学・・・。卒業後は「大阪日報」に入り、1882年(明治15年)に自由民権運動に参加し、・・・1885年(明治18年)、1892年(明治25年)と二度にわたって「山陽新報」主筆を務める。『欧化主義ヲ貫カザル可ラズ』は第一回目主筆時代の論説である。・・・
徳島県立徳島中学校校長、・・・佐賀県立佐賀中学校校長・・・大阪府立天王寺中学校長も務めた。・・・慶應義塾特選塾員<も。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%88%B8%E5%A4%AA%E9%83%8E
「劈頭からして「脱亜入欧ハ我国開国以来ノ大主義ニシテ、今後益々此主義ヲ拡充セザルベカラズ。偶々たまたま腐儒アリテ亜細亜連衡ノ利ヲ説キ、又興亜ノ要領ヲ主張スト雖いえどモ、斯ノ如キハ即チ固ヨリ取ルニ足ラザルノ迂う論ニシテ……云々」とある。「脱亜」というのは、髪を切ったり、洋服を着たり、文を横に書いたり、肉食をしたりという、そんなことではないんだ。「苟いやしくモ文明ノ器文明ノ道トアレバ、政経文物、之ヲ容赦ナク中ニ入レ、文明ノ風潮ニ従ヒ、文明ノ浮沈ヲ購あがなヒ得ル丈ノ入欧策ニ汲々タル事、是レ正ニ物ノ順序ニテ」という。そうじゃないと日本の独立が「文明東漸ノ勢」に面して危険である。「脱亜入欧ノ鋭意ヲ鈍にぶラスコソ」非常に危ないと。学問芸術から軍備にわたり、みんなヨーロッパ式にしなけりゃいけない。そして文章の末尾にも、「夫ノ興亜策ナドト称シテ隣国ノ開明ヲ俟まツガ如キハ、不利此レヨリ大ナルナシ。我ハ只自カラ進ミテ西洋文明ト伍ヲ為シ、従来ノ輿地図〔世界地図〕中ヨリ亜細亜ノ彩色ヲ塗抹セシムベキノミ。此以上日本ノ志願アルベカラズ」。— 丸山眞男、『山陽新報』社説の「脱亜入欧」論<(「福沢諭吉の「脱亜論」とその周辺 1990年9月」『丸山眞男話文集』4、丸山眞男手帖の会 編、みすず書房、2009年 より)」>・・・
『奪亜論』<と、>・・・昭和前半に日本人の多くが帝国主義・覇権主義・侵略主義・全体主義を信奉し正当化する契機となった思想であ<る>・・・『興亜論』・・・を単純化し分りやすく表現した鈴木券太郎らの「脱亜入欧」論<とは>・・・は性格が異なる。」(上掲)
⇒「福澤の『脱亜論』(1885年(明治18年))によって反駁された格好の『興亜論』は、興亜会(1880年(明治13年)-)を中心に展開されていた汎アジア主義であるが、その興亜会に勝海舟や福澤諭吉自身が顧問として参加している。」(上掲)点だけからも、丸山が乗り移ったかのようなこのウィキペディアンの筆致には違和感を覚える。
すなわち、双方共島津斉彬コンセンサス信奉者にして慶應義塾員たるところの、諭吉≒鈴木、ではないか、というのが私の第一勘だ。
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これは福沢論をはるかにこえた近代日本論の問題となるので、この小稿で論ずるにはあまりにも巨大すぎる。
私としては次のように反問するほかはない。
–もし「脱亜入欧」が、日本の近代の支配的な動向を象徴する言葉であったならば、明治になって、全国的な組織化がはじまり、第二次大戦の敗北にともなって連合国の命令によって解体を余儀なくされるまで、「大日本帝国」の精神的支柱をなして来た「国家神道」(もっとポピュラーな当時の名称で呼ぶならば、日本の「国体」)は、果して「脱亜入欧」という言葉によって表現し尽くされるのか。
濃厚な儒教的色彩を帯びた徳目をちりばめた「教育勅語」(1890年発布)が、一体どういう意味で「脱亜」であり、「入欧」であるのか。」(280~281)
(続く)