太田述正コラム#11135(2020.2.28)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その70)>(2020.5.20公開)
⇒国家神道は英国教の翻案である(コラム#省略)との、また、教育勅語は「濃厚な儒教的色彩帯びた徳目をちりばめた」ものではなく人間主義(縄文性)教育を謳ったものであって「脱亜」でも「入欧」でもなく、この人間主義の普遍性を宣言したものであった(コラム#10728、10738)との、私の指摘をここで繰り返す必要はありますまい。(太田)
「日中戦争の拡大にともなって新設された国民祝日(1939年9月以後毎月1日)は「興亜奉公日」<(注89)>と名付けられ、いうまでもなく、1941年以後の、第二次大戦における「皇国」の「聖戦」の思想的根拠は「大東亜共栄圏」の確立に求められた。
(注89)「1938年後半には国民を主体的に結集しようとする国民再組織ないし新党運動がおこったが成功せず,近衛内閣に代わった平沼騏一郎内閣は39年2月に国民精神総動員運動を〈官民一体ノ挙国実践運動〉として強化する方針を打ち出した。精動委員長荒木貞夫文相のもとで9月から毎月1日を〈興亜奉公日〉とし,前線の労苦を想う耐乏生活を<唱え>たが,翌年7・7奢侈品製造販売禁止令が出ると,8月<1日>の興亜奉公日には[<、>・・東京に「ぜいたくは敵だ!」「日本人ならぜいたくは出来ない筈(はず)だ!」と書かれた看板1500本<を>並べ<、>銀座や新宿など繁華街10カ所に婦人団体の会員150人が繰り出し<て、>派手な着物姿や、パーマ髪、アイシャドー、口紅などの女性<を嗜め>]た。おりから近衛をかついだ新体制運動が始まると,精動も大政翼賛運動の一翼に加わったが,国民再組織を主張する有馬頼寧らに対抗して,〈万民翼賛〉の名のもとに政治運動を排撃して官僚中心の体制を維持しようと<し>・・・た。」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E4%BA%9C%E5%A5%89%E5%85%AC%E6%97%A5-259731
https://www.asahi.com/articles/DA3S11675956.html ([]内)
「<この>興亜奉公日<についてだが、>・・・1939年8月8日に閣議決定され、同年9月1日より実施。「全國民ハ擧ツテ戰場ノ勞苦ヲ偲ビ自肅自省之ヲ實際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亞ノ大業ヲ翼贊シテ一億一心奉公ノ誠ヲ効シ強力日本建設ニ向ツテ邁進シ以テ恆久實踐ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」という趣旨の下、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われた。また、食事は一汁一菜とし、児童生徒の弁当は日の丸弁当とすることが求められた。これに伴い、飲食・接客業は休業することとなった。
設定の閣議決定では、事変中はこれを継続すると定められていたが、1942年1月2日の閣議で大詔奉戴日(毎月8日)が設定されると、興亜奉公日はそれに発展的に統一され、廃止となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E5%A5%89%E5%85%AC%E6%97%A5
「<他方、>大詔奉戴日<の方は、>・・・大東亜戦争(対米英戦争)開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された<ものだ>。
1942年1月2日に閣議決定され、同月8日より実施<されたところ、この>・・・大詔奉戴日は大東亜戦争中は継続するものとされていた。
大詔奉戴日の趣旨は「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」とされ、興亜奉公日より一層戦時色の強いものとなった。国旗掲揚、君が代吹奏、宮城遥拝、詔勅・勅語の奉読などの他、学校では御真影の奉拝や分列行進なども行われた。新聞の一面には宣戦詔勅が掲載された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A9%94%E5%A5%89%E6%88%B4%E6%97%A5
⇒興亜奉公日の制定は、ノモンハン事件(1939年5月~9月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
の最中にして、第二次世界大戦勃発(1939年9月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
の直前、に行われたわけですが、日中戦争における節目の一つである汪兆銘政権の成立も翌1940年3月30日で、まだ汪と日本政府との間で交渉が続いていた時期であり、その交渉促進を意図したものとも言い難い・・汪は、「汪兆銘は『中央公論』1939年秋季特大号(10月1日発行)に「日本に寄す」と題する思い切った論考を発表し、「東亜協同体」や「東亜新秩序」という日本の言論界でしきりに用いられる言葉に対する疑念と不信感を表明し、「日本は中国を滅ぼす気ではないか」と訴えた」くらいだ・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9
だけに、どうしてこのタイミングで、と、いう疑問が拭えません。(太田)
そうした動向のどこに「脱亜」意識があり、どこに「入欧」意識がある、というのか。
むろん大日本帝国の高唱した「アジアの共存共栄」が嗤うべき虚偽意識にほかならぬことは、すでに歴史によって証示されている。」(281)
⇒「アジアの共存共栄」はまさに諭吉が追求したものであったこと、従ってまた、「アジアの共存共栄が嗤うべき虚偽意識」などでは全くなかったこと、だからこそ、経済力世界第三の日本と第二位の中共との間で「アジアの共存共栄」が実現しつつあることが今まさに新コロナウィルス禍を契機に顕在化するに至っていること、を、泉下の丸山に教えてあげたいものです。
どうせ、聞く耳を持たないでしょうが・・。(太田)
(続く)