太田述正コラム#11139(2020.3.1)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その72)>(2020.5.22公開)

 「もし「脱亜論」を、このように再定義するならば、日本の徳川政府も決してその批判の例外ではなかった。
 「我が日本の徳川政府も之が為に(1800年代の西洋文明のために–という意味、丸山注)倒れたり。満清政府にして独(ひと)りよく之に抵抗するを得んや。文明を入れざれば外国の浸透を受けて国を滅ぼすべし。之を入るれば、人民に権を得て、政府の旧物を転覆すべし。二者、その一を免かる可(べか)らず、後世子孫必ず之を目撃する者あらん」(民情一新、1879年刊・・・)という驚くべく予言的な福沢の長期的見透しは、福沢の最晩年においても変わるところがなかったのである。

⇒文章としては間違っていませんが、この文章に込めた思いにおいて、丸山は間違っています。
 「西洋」諸国が、積極的にせよ消極的にせよ、「人民に権を」与えたのは、広義の軍事に人民をその質量ともに動員するための手段としてであるところ、往々にして、この手段が、自己目的化することがある、ということを諭吉は言っているのであり、福沢の「驚くべく予言」性は、日本ではそうはならないけれど、支那等においてはそうなって社会が不安定化してしまう、ということを予感していたフシが窺える点にあるのです。
 ところが、丸山には、「「西洋」諸国が「人民に権を」与えたのは、広義の軍事に人民をその質量ともに動員するための手段としてである」といった認識があったとは、到底思えないのですからね。(太田)

 日本で、「脱亜入欧」という成句が、あたかも福沢自身の造句であるかのように喧伝され、いなそれ以上に、福沢の全思想のキー・ワードとして、学界だけでなく、一般ジャーナリズムの世界にまで流通するようになったのは、きわめて最近の現象であり、たかだか1950年代以後の傾向である。・・・
 <ところが、>皮肉なことに、1933年から1935年にかけて、かの近代日本の右翼–国粋団体の元祖ともいうべき「黒竜会」が発行した浩瀚な『東亜先覚志士記伝』全三巻(その最終章は「満州国皇帝の御登極」という表題で結ばれている!)において、「東亜先覚志士列伝」という人名事典が記載されているが、その「東亜先覚志士」には、福沢諭吉も一項目として入れられている。
 「脱亜」主義者どころか、彼の名は大日本帝国における多くの著名な「大アジア主義者」の同志とされているのである。
 無論、福沢の霊は、こうした「黒竜会」系統によって与えられた「栄誉」を決して喜ばなかったであろうが…。」(285~286)

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[福沢諭吉がアジア主義者であることを示す諸文]

 四宮正貴
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/about.html
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-shinomiya/
の「福澤諭吉も強烈なる「大アジア主義者」だった」
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2016/03/post-c32c.html
からの孫引用で恐縮だが、表記をご紹介しておく。

 「今の亜米利加は元誰の國なるや。其國の主人たる『インヂヤン』は、白人のために〈逐〉はれて、主客処を異にしたるに非ずや。故に今の亜米利加の文明は白人の文明なり、亜米利加の文明と云ふべ可らず。此他東洋の國々及び大洋州諸島の有様は如何ん。欧人の触るゝ処にてよく其本國の権義と利益とを全ふして真の独立を保つものありや。『ペルシャ』は如何ん。印度は如何ん。暹邏(シャム)は如何ん、呂宋(ルソン)爪哇(ジャワ)は如何ん。欧人の触るゝ所は恰も土地の生力を絶ち、草も木も其成長を遂ること能はず。甚しきは其人種(ひとだね)を殲(つく)すに至るものあり。是等の事跡を明にして、我日本も東洋の一國たるを知らば、仮令ひ今日に至るまで外國交際に付き害を蒙たることなきも、後日の禍は恐れざる可らず」(『文明論の概略』第十章より)

 「日本とても西洋諸國とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互に相教へ互に相學び、恥ずることもなく誇ることもなく、互に便利を達し互にその幸いを祈り、天理人道に従て互の交を結び、理のためにはアフリカ黒奴にも恐入り、道のためには英吉利、亜米利加の軍艦をも恐れず、國の恥辱とありては日本國中の人民一人も残らず命を棄てゝ國の威光を落とさゞるこそ、一國の自由独立と申すべきなり」「王制一度新たなりしより以来、わが日本の政風大に改まり、外は万國の公法をもって外國に交り、内は人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民へ苗字乗馬を許せしが如きは開闢以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするの基こゝに定まりたりと云ふべきなり」(『學問のすゝめ』より)

 「武備を厳にして國権を皇張せんとする。其の武備は独り日本一國を守るのみに止らず、兼て又東洋諸國を保護して治乱共に其魁を為さんとする目的なれば…亜細亜州中協心同力以て西洋人の侵凌を防がんとして何れの國かよく其魁を為して其盟主たる可きや、我輩敢て自から自國を誇るに非ず虚心平気にこれを見るも亜細亜東方に於て、此魁盟主に任ずる者は我日本なりと言はざるを得ず」(『時事小言』より)
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⇒すぐ上の囲み記事を読むまでもなく、かねてからの太田コラム読者の皆さんは、「福沢の霊は、こうした」丸山の「学者」にあるまじき、歪んだ独りよがりな福沢認識に呆れ果てる「であろう」、と思われたことでしょう。
 丸山に感謝したいのは、福沢がアジア主義者であったことは、戦前においては常識に属することであったらしいことを「教えてくれた」点です。(注92)(太田)

 (注92)参考:「1898年、それまで別組織であった<ところの、>・・・三宅雪嶺・志賀重昂ら・・・政教社同人のほかに黒龍会の内田良平・・・<らが>会員<であった>・・・東亜会・・・及び<諭吉も会員であった(前出)>・・・興亜会・・・を始めとする既存のアジア主義諸団体が合体して・・・東亜同文会<が>・・・設立された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A

(完)