太田述正コラム#11137(2020.2.29)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その71)>(2020.5.21/22公開)

 「・・・「儒教主義」にたいする福沢の根深い敵意と反対<における>・・・彼の攻撃目標は、儒教の個々の徳目に向けられたというよりは、体制イデオロギーとしての「儒教主義」の病理に向けられたのである。
 国内的には父子君臣の上下倫理<(注90)>の絶対化によって、対外的には華夷内外の弁<(注91)>という階層的国際秩序観によって、政治権力と儒教とが構造的に癒着するところには、体制の停滞と腐敗とがくりかえし再生産される、というのが福沢の確信であった。

 (注90)「羅山が打ち出したのが「上下定分の理」である。羅山は・・・1629年・・・に著した自著『春鑑抄』において、「天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。上下差別あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ」と記している。
 羅山によれば、天が上にあり、地が下にあることは時代の転変いかんによらない絶対不変の天理なのであり、それは君臣、父子、夫婦、兄弟などあらゆる人間社会の上下関係をも貫くものである。そして、士農工商の身分秩序もまた、天理によるものであるから不変不滅なものである、と述べる。朱子学の理気説にあっては、「理」とは本来万物のなかに存在し、万物を存在たらしめる根源・原理である。したがって、それは人間社会のなかにもあって、人間関係を秩序づける原理・法則として機能する、と羅山はとらえたのである。
 そして羅山は、上述の『春鑑抄』において、国をよく治めるためには「序」(秩序・序列)を保つため、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な現れである「礼」(礼儀・法度)が重要視されるべき、と説き、とくに身分に対して持敬(心のなかに「敬」を持ち続けること)を強調した(存心持敬)。羅山は、宇宙の原理である理をきわめれば、内に敬、外には礼として現れると説き、敬と礼が人倫の基本であり、理と心の一体化を説いたのである(居敬窮理)。・・・
 ベルギー出身の歴史学者ヘルマン・オームスは、その著書のなかで、「上下定分の理」において語られる「名分」こそが徳川幕藩体制の原理と合致した「徳川イデオロギー」と称されるべきイデオロギーなのであり、その最も重要な部分を用意したのは、むしろ朱子学者であると同時に垂加神道の創始者としても知られる山崎闇斎であったと指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%8B%E5%AE%9A%E5%88%86%E3%81%AE%E7%90%86 
 ヘルマン・オームス(Herman Ooms, 1937年~)は、「ベルギー出身の<米>国の日本学者<。>・・・<ベルギーの、>ノートルダム・ド・ラ・ペ大学(Facultes Universitaires Notre Dame de la Paix)古典学卒業<、>・・・サン・ジャン・ベルチマンス・カレッジ(St. Jan Berchmans College)で哲学修士、・・・<東大>院宗教学修士課程修了、・・・シカゴ大学で日本史の博士号取得、・・・イリノイ州立大学シカゴ校准教授、・・・カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授、名誉教授。1992年『徳川イデオロギー』で和辻哲郎文化賞受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9
 (注91)「中華と夷狄の峻別を理論的に説いた文献のうち、現在確認できる最古のものは孔子によるものとされる春秋である。春秋において、孔子は周初の礼楽を制度化し、夷狄起源の文化要素を排除すべきことを主張したとされる。漢代に春秋学が理論化される過程で、中華思想も前述の「四夷」のようなまとめがなされていき、理論化されていった。・・・
 江戸時代に入り、朱子学が江戸幕府に官学として取り入れられ政治に反映されるようになった。しかし科挙が存在しなかったこともあり、朝廷や公家、町人などの武家社会以外は思想統制を受けなかったため国全体のイデオロギーにはなり得ず、中華式に「藤」と一文字の姓を名乗り明の官服を着ていた藤原惺窩のような例外は除き主従関係や道徳面が重要視され華夷秩序は重要視されなかったが、学問の先達として中華王朝に対する尊敬の念は残った。
 明が異民族王朝の清に支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である呉の太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の<支那>・・・でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸時代の儒学者山鹿素行は著書『中朝事実』の中で「日本ではすでに神道という聖教が広まっており、もし聖人の道が行われていることが中華であることの理由ならば日本こそが中華である」という主張をした。
 また、国学者本居宣長は歴史書『馭戒慨言』『うひ山ぶみ』『玉勝間』などの著作において「まづ漢意(からごころ)をきよくのぞきさるべし」と儒教などの中華的精神の排除の必要性を強く主張している。 これらが後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の尊王攘夷論に結びつくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3

⇒「父子君臣の上下倫理」の方は、儒教の病理というよりは、身分制社会ではなかった江戸時代(コラム#省略)を身分制社会と擬制して打ち出されたところの、(オームスばりに言えば、)徳川武士イデオロギー、といったものであって、支那とは基本的に無関係なものであった・・朝鮮半島に関しては留保したい・・のに対し、「華夷内外の弁」の方は、確かに儒教の病理ではあったかもしれないけれど、それは、政府が中華と自称した支那、及び、政府が小中華と自称した李氏朝鮮、にはあてはまっても、大にせよ小にせよ、およそ政府が中華と自称したことがなく、かつまた、中華の意味の核心部分を人間主義的なもので置き換える営みが往々にして見られたところの日本にはあてはまらなかった、と言えそうですね。(太田)

 したがって、「脱亜」という表現を脱「満清政府」及び脱「儒教主義」といいかえれば、福沢の思想の意味論として、いくらかヨリ適切なものとなるであろう。」(284~285) 

⇒諭吉の原典と突き合わせていないので、直感的に言わせてもらえば、以上記したことに照らし、ここでも、丸山は、筋悪の指摘をしているような気がします。(太田)

(続く)