太田述正コラム#10792006.2.13

<ムハンマドの漫画騒動(その3)>

(1月(11日)?2月(10日)のHPへの訪問者数は、27263人でした。先月は20953人であり、今までの最高記録は25735人(昨年8?9月)ですので、新記録を達成しました。累計訪問者数は、596,716人です。また、太田ブログへの月間アクセス数も4633と、今までの最高記録だった昨年11月?12月の3995を大幅に上回り、こちらも新記録を達成しました。この訪問者数とアクセス数の単純合計で比較すると31,896人となり、今まで最高記録だった昨年11月?12月の27,719人を上回る、新記録を達成しました。(ただし、メーリングリスト登録者数は1302名と、先月から6名減少しました。)読者の皆さんのお引き立てに心から感謝申し上げます。)

 (コラム#1078をめぐって、私のホームページの掲示板に何通か投稿がなされています。このシリーズは、騒動そのものの経緯はほとんどはしょってありますので、経緯を知りたい方はこれらの投稿の中に参考になるものがあると思います。)

(3)イスラム世界に対して

2月5日、イスラム世界と欧州との境界に位置するトルコのエルドガン首相とスペインのアスナール首相は、共同で(イスラム世界を含む)関係者全てに抑制を求めました(http://www.csmonitor.com/2006/0209/p09s01-coop.html。2月9日アクセス)。

本件に係るイスラム世界の反応に対する英米政府の姿勢も基本的にこれと同じであり、イスラム世界に自制を求める、という微温的なものです(典拠省略)。

他方、政府と違って英米のメディアは容赦がありません。

彼らは、欧州の各紙がムハンマドの漫画を掲載したことを批判しつつ、返す刀で本件に関する反応から透けて見えるイスラム世界の病理を厳しく断罪しています。

第一は、イスラム世界における反ユダヤ主義の蔓延を考えれば、イスラム世界の人々は、欧州における反イスラム主義をあげつらう資格はない、という批判です。

すなわち、カタール・サウディ・エジプト・ヨルダン・オーマン・アラブ首長国連邦の新聞は、ユダヤ人を、ナチスドイツが描いたように醜悪にステレオタイプ化(注6)した漫画をよく載せている(http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,,1702532,00.html前掲)し、パレスティナのTVはユダヤ人を豚や猿の子供であるとするイスラム「聖職者」の説教を毎日のように流しているし、シリアのTVはゴールデンアワーの連続物の中で、ユダヤ教のラビが儀式に用いるために異教徒の少年を殺害する場面を見せているし、エジプトのTVは連続物の中で、帝政ロシア時代の偽造文書たる「シオン賢者のプロトコール(Protocols of the Learned Elders of SionZion))」(コラム#471)もどきのユダヤ人陰謀説・・ユダヤ人は世界支配の陰謀を企んでいるとする説・・を垂れ流している(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/02/09/AR2006020901434_pf.html、2月10日アクセス)、というのです。

(注6)大きい鼻・黒いコートと帽子・カネの一杯入ったバッグ、で登場し、政治権力をカネで買い、死・恐怖・病気をまき散らす・・というステレオタイプ。

 第二は、イスラム世界のメディアはアルカーイダ系テロリストが人質の首をかき切っている写真を平気で掲載するのだから、イスラム世界の人々が欧州のメディアに対し、表現の自由には内在的制約があるはず(注7)だと主張するのはちゃんちゃらおかしい、という批判です(注8)(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-moller7feb07,0,6030917,print.story?coll=la-news-comment-opinions(2月7日アクセス)、及びhttp://www.csmonitor.com/2006/0210/p09s01-cods.html(2月9日アクセス)

 (注71919年の米最高裁判決でホームズ(Oliver Wendell Holmes判事は、米憲法修正第一条は、劇場の中で「火事だ」と叫ぶ男を保護はしない、としたが、これが表現の自由の内在的制約の典型的な例だ

 (注8)人質の首切り写真の方が、ムハンマドの漫画よりはるかにイスラム教に害をなすという内容の論説とともに、デンマーク紙が掲載したムハンマドの漫画のうち3枚をあえて掲載したヨルダンの新聞の編集者は、ヨルダン政府によって投獄されてしまった。

 第三は、イスラム世界には表現の自由という観念がない、という根本的な批判です。

イスラム世界の人々は、ホロコースト否定論を声高に唱えつつ、欧州諸国の人々に対しては、ムハンマドを好意的に描いたものを含め、ムハンマドに関するいかなる描写をも禁じ、それに従わなければ殺すとさえ言い放つ。

彼らは、ホロコースト否定論とムハンマドの描写のどちらも許される社会を否定するだけでなく、このどちらも禁止される社会すら否定するのだから、表現の自由など全く信じてはいないと言わざるをえない(注9)、というのです(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/02/09/AR2006020901432_pf.html前掲)。

9)「私は君の意見に反対だ。しかし私は、君がその意見を言う権利を命を賭けて守る」(伝ヴォルテール)、「自由とは・・他人に彼らが聞きたくないことを伝える権利のことだ。」(ジョージ・オーウェル)、「思想の自由とは、われわれと同意見の人々のためのものではなく、われわれが大嫌いな意見の持ち主のためのものだ」(ホームズ判事)http://en.wikipedia.org/wiki/Freedom_of_expression。2月13日アクセス)。