太田述正コラム#11157(2020.3.10)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その9)>(2020.5.31公開)

 「かうした公開的な敎學としての程朱學の確立が儒學の傳統からの背反であつたかぎりに於て、それは從來の儒學研究のサークル、とくに朝廷を背景にもつ縉紳博士家の側からの激しい抵抗に逢着したのは見易いことである。
 この際もしこの新興儒學が公家勢力に對抗するに足る政治勢力を支柱とする事が出来なかつたら、その前途は決して平坦ではありえなかつたであらう。
 恰もかゝる支柱として立ちあらはれたのが江戸幕府の祖家康であつた。・・・
 徳川實紀は次の如きエピソードを傳へてゐる。
 一年京都にて道春(羅山の法印名–筆者)諸生をあつめ。新注の論語(新注とは朱子の注釋を指す–筆者)を講説せしかば。聽衆四方より集りて門前市をなす。清原極臈秀賢<(注25)>禁中へ奏しけるは。我朝いにしへより經を講ずるは。勅許なくしてはつかふまつらざる事なり。

 (注25)「舟橋家<は、>・・・清原氏の嫡流。船橋とも書く。初め高倉と称したが,大蔵卿清原国賢の子である式部少輔秀賢<(ひでかた)>のときに,左大臣近衛信尹の推挙によって堂上を勅許され,以来舟橋と称するようになった。家格は半家。明経道の家柄で代々儒道を家業とし,当主は明経博士となり,主水正,少納言,侍従を経て非参議に進むのを例とした。江戸時代には家禄400石を給された。秀賢は[碩学で漢文,連歌など国文学に通暁していた。また,木製による活字印刷の技術を持ち,自ら『古文孝経』などを印刷している。]徳川家康[昵懇の公家衆22人のうちのひとりであ<り、そ>]の命を受けて古書の収集に努め,また後陽成・後水尾両天皇の侍読を務めた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%B3%A2-1070995
https://kotobank.jp/word/%E8%88%9F%E6%A9%8B%E7%A7%80%E8%B3%A2-1106827#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus ([]内)
 明経道(みょうぎょうどう)は、「律令制下の大学寮における四道の一つ。《論語》《孝経(こうきょう)》などを中心に経学(けいがく)を修める学科。初めは経学のみが本科であったが,奈良中期に文章(もんじょう),明法(みょうぼう)の二道が分離独立し,平安時代に入って経学も明経道の名で呼ばれるようになり,算道を加えて四道と称された。やがて文章道の隆盛に伴い衰微,清原・中原の2氏が明経博士を世襲した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E7%B5%8C%E9%81%93-139753
 「文章道<は、>・・・漢詩文と歴史を内容とする。・・・菅原・大江両氏が文章博士家として有名。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E7%AB%A0%E9%81%93-143184#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
 「明法道<は、>・・・律・令・格・式など法律学を学ぶ<。>・・・11世紀末になると坂上(さかのうえ)、中原両氏が明法博士家として固定し世襲となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B3%95%E9%81%93-139796#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

 しかるに道春私に閭巷に講帷を下し。且漢唐の注疏に●<←遵の之繞を二点之繞に変え、酉の上を八に変える(太田)>はず。宋儒の新説を用ゆる事。その罪かろからざるよしなれば。朝議もまち〈、にして一定せず。武家の御旨をうかゞはれしに。君(家康を指す–筆者)聞こしめして。聖人の道は卽ち人の學ばずしてかなはざる道なり。古注新注は各其好に應じて。博く世上に教諭すべき事なり。これをさへぎりさゝへむとするは。全く秀賢が偏狭心より猜忌するものなり。尤拙陋といふべしとの御旨なりしかば。其訴も●<←遂の之繞を二点之繞に変え、逐のつくりの上を八に変える(太田)>に行はれずしてやみしとなり(東照宮御實紀附録二十二、增補國史大系第三十八巻・・・)。
 なほ同じ東照宮御實紀の巻七には、之とほゞ同じ挿話を載せて最後に「これより信勝(羅山の一名–筆者)はゞからず洛中に於て程朱の説を主張して經書を講讀す。これ本朝にて程朱の學を講ずる濫觴なりとぞ」と付け加へてゐる(同上・・・)。・・・」(11~12、18~19)

⇒家康が学問の自由を唱えたとは興味深いですね。
 藤原惺窩はもとよりですが、林羅山だって学問の自由派だったはずであり、だからこそ、徳川家康の子孫で徳川吉宗の孫にあたる松平定信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
が(幕府内だけを対象にしたとはいえ、)寛政異学の禁を唱えた時、林羅山の子孫の大学頭林信敬(林錦峯。1767~1793年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%8C%A6%E5%B3%AF
は、これに「必ずしも協調的とは言えなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81
のでしょうね。(太田)

(続く)