太田述正コラム#11159(2020.3.11)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その10)>(2020.6.1公開)
「家康は幕府創業の以前から儒敎に対して關心を示し、羅山の惺窩先生行狀によると、文祿二年に●<←既の偏の白の下をヒに変える(太田)>に藤原惺窩を江戸に引見して貞觀政要<(コラム#10336)>を講讀せしめ、關ヶ原役後も京師に於て屢々惺窩より聖學を聽いてゐる。
惺窩は生涯仕ゆることなかつたが羅山は惺窩の推薦によつて家康の知遇をえて、慶長十二年幕府の政治顧問となり、「羅山、國家創業の時に際し、大いに寵任せられ、朝儀を起して律令を定む。大府須ふる所の文書、其の手を經ざる者なし」といはれた程重用され、林家の官學の宗家たるの基を開いた。・・・
⇒「家康自身は、羅山よりも崇伝や天台宗の僧侶天海を政治的助言者としてはむしろ重用し<た>」(前出)以上、丸山は、秀忠以下、どの将軍によって儒者が最も重用されるに至ったのかを明らかにすべきでした。
(崇伝(崇傳)と天海については、コラム#9725参照。)
朱子學派・陽明學派の成立、さらに宋學を排して直接原始儒教へ復歸せんとする古學派の興●<←走に巳(太田)>といふ近世儒敎の發展過<←之繞を二点之繞に変える(以下同じ)(太田)>程は、宋における朱子學、明における陽明學、清における考證學<(注26)>の成立過程と現象的には類似してゐる。
(注26)「考証学<は、>・・・清代に入って流行した学問であり、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度のことを、こう呼んでいる。 宋明の性理学に抗し、漢儒に基づいて憶測の説を排し、典籍を精細に読破して古義を闡明せんとするもので、漢唐の訓詁學を継ぐところから漢学とも呼ばれる。 また、実事求是を主とし、実証的方法を取ることから考拠の學とも言われている。・・・
明末清初の時期の黄宗羲や顧炎武が、考証学の先駆的存在である。・・・また、康熙・雍正・乾隆三代の学問奨励策とあい符合して、考証学は乾隆・嘉慶年間(1736年~1820年)に全盛となった。このため乾嘉の学(けんかのがく)・乾嘉学派の名がある。・・・
学風としては博識に養われた鑑識眼をもって個別事象の確定を追求する学風と、明確な学的プログラムをもって個別事象の背後にある論理を解明せんとする学風との二つに見分けられ、前者を代表するのが呉派の銭大昕、後者を代表するのが皖派の戴震であった。一七五四年(乾隆一九年)にこの戴震が故郷より都に上り、その学名を轟かせてからが「清朝考証学」の本格的な形成期であったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E8%A8%BC%E5%AD%A6
黄宗羲(こうそうぎ。1610~95年)は、「明の滅亡に際して反清運動に参加するが後に故郷に隠棲して学術に没頭、陽明学右派の立場から実証的な思想を説<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%AE%97%E7%BE%B2
顧炎武(こえんぶ。1613~82年)は、「明の滅亡に際して・・・郷里の子弟を組織して義勇軍を結成して清朝支配に抵抗し<た。>・・・経学や歴史学の研究の傍ら経世致用の実学を説<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6
銭大昕(せんたいきん。1728~1804年)は、進士合格者で、「若い頃に西洋の数学・天文学を学んで<支那>古代の暦算学を研究し・・・、その他に哲学・経学・史学・地理・文字音韻・金石・詩文の諸分野に精通したばかりでなく、官界生活を清廉潔白に過ごし早くに帰郷した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%A4%A7%E3%82%AD%E3%83%B3
戴震(たいしん。1724~77年)は、「<進士についに合格できなかったが、>異例の抜擢<で官僚になった。>・・・戴震は無欲(解脱)を至上とする仏教の教理を、儒学に持ちこむことや普通の人間の「欲」を否定して聖人のみが達することができる「理」を押しつけることによる弊害を除こうとした。梁啓超はこのような戴震の立脚点を、ヨーロッパのルネサンスに比較できる倫理上の一大革命と評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E9%9C%87
⇒朱子学は古典ギリシャ文明/プロト欧州文明の合理論哲学、陽明学はプロト欧州文明の宗教(キリスト教)、考証学はアングロサクソン文明の経験論哲学、を思い起こさせます。
私が、さしあたり関心があるのは、考証学がどうして経験論哲学たりえなかったかであり、下掲↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E8%A8%BC%E5%AD%A6 前掲
にその手掛かりらしい話が出て来ますが、私の今後の課題にとっておきたいと思います。
で、考証学の創始者2名に比し、考証学の泰斗2名の清政府に対する姿勢が180度違っているのは面白いですね。
創始者2名を清政府は殺さなかったのですから、泰斗2名も任官などせず在野で学究生活を送って欲しかったところですが、ある意味、この4名全員、政治/行政に関心があり過ぎて学究生活だけに甘んじることができなかったわけであり、これは漢人文明の業(ごう)という奴なのかもしれません。(太田)
しかしその思想的な意味は全く異る。
それは儒敎の内部發展を通<←之繞を二点之繞に変える(以下同じ)(太田)>じて儒教思想自體が分解して行き、まさに全く異質的な要素を自己の中から芽ぐんで行く過<←之繞を二点之繞に変える(太田)>程なのである。
たしかに日本儒教の狭義の政治思想は近<←之繞を二点之繞に変える(以下同じ)(太田)>世を通じて・・・封建的制約を終始脱<←兄の上を八に変える(太田)>出しなかつた。
かかる制約は儒教のみならず、それに對立する國學についてもいはれる。
しかし變革は表面的な政治論の奥深く思惟方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行してゐたのである。・・・」(12、14)
⇒ようやく、丸山が本題に入りつつあるようです。
諭吉論で登場した「思惟方法」が、既に、ここで登場していますね。(太田)
(続く)