太田述正コラム#11161(2020.3.12)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その11)>(2020.6.2公開)
「朱子學は周濂渓<(注27)>によつて開拓され二程子(程明道<(程顥(ていこう))(コラム#9687、9763、9918、10233、10235、10237、10282、10313、10320、10321、10336、10712、10919、10982、11153)>・程伊川<(程頤(ていい))(注28)(コラム#9918)>)によつて發展せしめられた宋學の方向を受繼いで之を大成したもので、その漢唐の儒學に對する最も著しい特色は、第一に經書の言語學的研究に終始する訓詁學を斥けて所謂道統の傳を高唱し、従來の五經(易・書・詩・禮楽・春秋)中心主義に對して四書(論語・孟子・大學・中庸)によつて孔・孟・曾<(注28)>・子<(注29)>の根本精神を把握する<(注30)>義理<(注31)>の學であらうとすること、第二に從來儒敎の思想的弱點であつた理論性の缺如を補ふべく、宇宙と人間を貫通する形而上學を樹立したことにある。」(20)
(注27)しゅうれんけい(周敦頤(しゅうとんい)。1017~73年)。「『易経』繋辞上伝にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず(易有太極、是生兩儀、兩儀生四象、四象生八卦)」の概念、および陰陽思想、五行思想を関係づけて解説し、創案した図象を提示した。図を説明する文章自体は短く約250字程度。図によれば、「太極」が森羅万象の根源であり、陰陽と五行の錯綜によって万物が生成されていくとされる。・・・
<また、>人の本来の性質をめぐる人性論は、孟子の性善説、荀子の性悪説にみられるように、古代より多く論じられてきた<ところ、>唐代の韓愈は性三品説(人は上知、中人、下愚に分けられるとする考え方)を支持し、この説に基づいて道徳論を展開したが、周敦頤の考え方はこれと異なる立場をとるものであった<が、>彼は・・・各人の根本に「太極」に通じる<ところの、>・・・『中庸』の中で示される・・・「誠」があること、各人の学問による研鑽が聖人の道へ通じることを示した。これは、性三品説と異なり、万人が学問を通じて聖人に近づけるということを意味した。この見解は、従来の貴族に代わって宋代より新たに勃興する士大夫の意向にかなうものであった。・・・
朱熹<(コラム#2903、4856、6831、7656、7944、8760、9268、9659、9683、9687、9763、9875、9902、10233、10235、10993)>が展開した道統論において孔子・孟子の延長上に周敦頤をおいたことから、儒学史において重要な地位を与えられた。・・・
・・・周濂渓・・・はあまりぱっとした官職にはついていない<し、>・・・また、学者・思想家としての名声という点でも、その門下から有名な程明道、程伊川の兄弟が出てはいるが、当時としてはほとんど知られていなかった人物であるらしい。彼が思想界に重んぜれ、宋学の創始者としてあがめられるようになったのは、なんといっても、死後だいぶして朱子が表彰したからである。朱子によれば、孟子以後1400年のあいだ埋もれていた道統をふただび継ぎ、聖人の学をふただび明らかにしたものが周濂渓であるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%95%A6%E9%A0%A4
(注28)BC505~?年。「十三経の一つ『孝経』は、曾子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。また、孔子の孫子思は曾子に師事し、子思を通し孟子に教えが伝わったため、孟子を重んじる朱子学が正統とされると、顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E5%AD%90
(注29)BC492?~431?年。「孔子の孫。孔鯉(伯魚)の息子。幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はほとんどないが、曾子の教えを受け儒家の道を極めた。・・・孟子は子思の学派から儒学を学んだとされる。子思とその一派の著作に『子思子』があったが現存しない。『中庸』は子思の作と伝わっていたが、現在では『中庸』の前半部など、『礼記』のうち数編が『子思子』から転載したものとされている。後世、「述聖」と称される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%80%9D
(注30)「五経<とは、>儒教において尊重される五つの経書。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。「ごけい」とも読む。前136年に前漢・・・の武帝が儒学を官学と定め,五つの経書の教授にあたる官職として五経博士を置き,前124年には五経を中心とした教育が太学で開始された。唐代には注釈書『五経正義』が編纂され,科挙の受験者などに五経の解釈の基準が示された。また,朱子が四書を儒学枢要の書としたため,宋代以降は五経以上に四書が重視されるようになった。五経に,現存しない『楽経』を加え,六経や六芸とも称する。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E7%B5%8C-63669
なお、「礼楽(禮楽)<とは、支那の>礼儀と音楽。<支那>儒教の根本的規範は,礼と楽である。礼は日常生活から公式儀典まで,正しい心の外への表現を規定するもので,『礼記』や『論語』をはじめ周代以来の多くの書に記されている。楽は,音をもって節度のある心を表わすもので,『楽記』 (『礼記』の楽記編やそれを転載した『史記』の楽書に残る) や『論語』などに記されている。礼は行いを戒め,楽は心をやわらげるというのが礼楽の思想で,知識人の教養としての六芸 (礼,楽,射,御,書,数) の初めにおかれ,<支那>人の芸術観の根本ともいえる。個人の礼楽としては琴 (七弦琴) の楽があり,天子や国家の礼楽としては,天地祖先を祀るときの雅楽がある。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BC%E6%A5%BD-151227
(注31)義について:「儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。羞悪の心とは、悪すなわちわるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を羞(は)じる心のこと。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9
理について:「朱子学とは、・・・日本で使われる用語であり、<支那>では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。陸王…学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
「陽明学・・・という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6
⇒私は、程朱学(朱子学)は儒教のキリスト教化、陸王学(陽明学)は儒教の仏教化、と、捉えるに至っています。
後者のゆえんについてはお分かりのことと思いますが、前者に関しては、キリスト教化とは言っても、ヘレニズム期の東ローマのキリスト教であるところの、ネストリウス派、が念頭にあります。
ネストリウス派は、アンティオキア学派に属し、「アリストテレスの系譜をひいていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
というのですが、支那に伝わったネストリウス派キリスト教(注32)を通じて、そのアリストテレス的神学も伝わっていた、と、私は想像している次第であり、元の後の北宋において、朱子学の形成にあたって、この神学が換骨奪胎的に用いられた、という仮説を立てているところ、この仮説の検証は他日を期したいと思っています。(太田)
(注32)「ネストリウス派<は、>・・・唐の太宗の時代にペルシア人・・・らによって伝えられ、景教と呼ばれた<が、>・・・唐代末期、王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって以降、弾圧され消滅した・・・。
モンゴル帝国を後に構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。そのため、元の時代に一時<支那>本土でも復活することになった。ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を維持するモンゴルを自称し続ける勢力とオイラトを称する勢力の二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
(続く)