太田述正コラム#10882006.2.21

<赤軍と先の大戦(その1)>

1 始めに

 アングロサクソン、就中米国人にとって、先の大戦において彼らの父や祖父達が発揮した勇気と自己犠牲はこの上もない自慢の種なのですが、その彼らの想像を絶するのが先の大戦におけるソ連軍(赤軍)の犠牲の巨大さと奮戦ぶりです。

 赤軍は、飢えと闘いながら、ボルガ河以西の領土の大部分、つまりはソ連全人口の半分近くがナチスドイツ軍に占領された状況から反転攻勢に転じやがて最終的勝利を勝ち取るのですが、その間に、約850万人の兵士が戦病死し(注1)、ソ連で1921年に生まれた世代に至っては1945年までに戦死等で90%が亡くなったのですから。

(以上、http://www.nysun.com/article/25654(2月20日アクセス)による。)

 

(注1)先の大戦における米軍の戦病死者数は30万人に過ぎない。

ところが、戦後のソ連の公定赤軍史においては、都合の悪い話はことごとく隠蔽されたため、どうしてドイツ軍にこれだけ席巻され、どうしてその後の反転攻勢、そして勝利が可能であったのか、そもそもこれだけの損害を出しながら戦い続けた赤軍とはどんな軍隊だったのか、等が全く分からないままでした。

ソ連の崩壊によって、それまで閲覧が禁じられていた旧ソ連軍やKGBの文献・資料が閲覧できるようになり、また、かつての兵士達から話を直接聞けるようになったおかげで、遅ればせながら、これらの疑問に対する解答を歴史学者等が追求することができるようになりました。この追求の最高の成果の一つが、ロンドン大学の現代史教授のメリデール(Catherine Merridale)の手になるIvan’s War: Life and Death in the Red Army, 1939-1945, Henry Holt and Co., October 2005です(注2)。

(注2)メリデールの関心領域は、ロシア現代史における大量死全般・・第一次世界大戦時・1918?23年の内戦時・1930年代初めの農業集団化時・大粛清・先の大戦・・にわたっている。彼女のNight of Stone: Death and Memory in Russia, 2000は、ロシア人がいかにこれらの大量死と向き合ってきたかを描き、好評を博した。

それでは、この本の概要・をご紹介することにしましょう。

(以下、http://www.csmonitor.com/2006/0214/p16s02-bogn.html(2月14日アクセス)、http://www.nytimes.com/2006/02/15/books/15grim.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print(2月15日アクセス)、http://www.history.qmul.ac.uk/staff/merridale.htmlhttp://64.233.179.104/search?q=cache:jLFmpqkvvocJ:www.tecom.usmc.mil/caocl/Russia_FormerUSSR/Suggested_Readings/Review%2520of%2520Ivan%27s%2520War%2520%2520The%2520Red%2520Army%25201941-45.pdf+IVAN%27S+WAR:+Catherine+Merridale&hl=ja&ct=clnk&cd=7http://www.holtzbrinckpublishers.com/academic/book/BookDisplay.asp?BookKey=1536066http://www.timesonline.co.uk/article/0,,23112-1832109,00.htmlhttp://www.nzherald.co.nz/category/story.cfm?c_id=18&ObjectID=10360209、及びhttp://www.newhumanist.org.uk/volume120issue6_more.php?id=1809_0_39_0_C(いずれも2月20日アクセス)による。)

2 本の概要

 (1)赤軍等の損害

 1939年から1945年の間に3,000万人以上の男女が赤軍に動員され、そのうち約850万人が戦病死(餓死・行方不明者を含む)した(注3)が、その倍の民間人が死亡し、2,500万人が家を失ったと考えられている。

 (注3)これは、第一次世界大戦の時の帝政ロシア軍の戦病死者率の14倍にのぼる。

 (2)開戦直後の大打撃とその理由

 赤軍は、独ソ戦開戦初期に大打撃を蒙った。

 1941年6月のドイツ軍の奇襲から始まって1942年の2月までの間に、赤軍は270万人の戦病死者を出し、300万人近くがドイツ軍の捕虜になった。この間の赤軍とドイツ軍の戦病死者の比率は、何と201だった。

 こんなことになったのは、赤軍兵士の練度が低く、糧食も装備も不十分だったからだ。病院も地図も作戦計画もリーダーシップも存在しなかった。ドイツ軍についてもほとんど分かっていなかった。

 ソ連当局が兵士を信用しなかったため、兵士達に本物の銃は支給されず、訓練は木銃と段ボール製の戦車を使って行われていた。(本物の銃は、鍵のかかった倉庫に保管されていた。ただし、憲兵にだけは新式の本物の銃が支給されていた。)

 歩兵の四分の三近くは農民出身であり、彼らは多かれ少なかれスターリンが強制的に実施した農業集団化に憤っていた。

だから、兵士達は故郷に残してきた家族のことが心配であったこともあって、戦争初期には脱走兵が大量に出た(注4)(注5)し、ドイツ軍の戦車の姿を見ただけで、彼らは恐慌を来し総崩れになった。

 (注4)しかも、中央アジア出身の兵士の多くは、ロシア語がしゃべれず、列車に乗ったこともなく、飛行機を見たこともなく、どうして戦争が起こっているのかも分からなかった。だから彼らの脱走率は特に高かった。

 (注5)反転攻勢以降も脱走者は続いた。結局戦争の全期間を通じ、脱走罪で158,000人が処刑され、422,700人が懲罰大隊に配属され、最前線に投入されてその大部分が戦死させられた。

 そもそも普通の軍隊であれば、中隊を単位として戦友意識の網の目が構築されるものだが、赤軍の場合、そんなものは存在しなかった。戦病死率が余りに高かったために、同僚はひっきりなしに変わった上、政治将校があらゆる所に配置されて兵士間の会話にまで目を光らせていたからだ。兵士達による創意工夫も厳しく禁じられていた。

 また、将校の数は不足し、志気も低かった。

 これは、スターリンによる将校の大粛清があった上に、1939年のフィンランドとの戦争で将校が多数戦死していたためだ。

(続く)