太田述正コラム#11173(2020.3.18)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その12)>(2020.6.8公開)

 「しかもこの二つのモメントは密接に融合してこゝに、小にしては日常起居の修養法より大にしては世界實體論に及ぶ尨大な思想體系が完成された。
 それはまことに儒教といふ本來的に實用的な性格を擔つた思想が持ちえた空前にして恐らく絶後の(陽明學と雖も體系の廣汎性に於ては到底及びえない)大規模な理論體系であつた。
 そこには一を衝けば忽ち全構成を破壊するほどの整序性があつた。
 この整序性そのものが朱子學的思惟方法の特性から來る黨然の結果であることは追々明かとならう。
 徳川期の朱子學者が、古學派は勿論陽明學派に比しても理論的創造性において最も乏しかつた所以は、あながちその無能の故のみでなく、一つには朱子學のもつかうしたGeschlossenheit<(注33)>によるものである。・・・

 (注33)Google 翻訳では、Geschlossenheit=unity/団結、と出て来るが、一体性、といったところか。

⇒丸山の衒学者ぶりにも困ったものです。
 日本語で表現すればいい、というか、長くなってもいいので日本語で表現してくれないと、ここで丸山が一体何を言いたいのか、誰にもはっきりとは分からないのではないでしょうか。(太田)

 朱子學の形而上學の基礎となつたのは周濂渓<(コラム#11161)>の太極圖説である。
 これは・・・宇宙の理法と人間道徳が同じ原理で貫かれてゐる<というものだ。>
 これが所謂天人合一<(注34)(コラム#11017、11115)>の思想であつて多かれ少かれシナ思想を貫通し<てきたと言える。>・・・

 (注34)「天・人を対立するものとせず,本来それは一体のものであるとする思想,あるいはその一体性の回復を目ざす修養,または一体となった境地を〈天人合一〉と呼んでいる。すでに《荘子》において表明されている・・・。・・・
 <支那>では、超越的存在としての天の概念がきわめて有力で、人の天に対する独自性は発想されることが少なかったから、人の天への合一が、人間の不完全性の克服として考えられた。儒家の天命説も、道家の、人は作為を捨て天と一致せよとする説も、広義では天人合一の思想といえる。とくに漢代の儒教では、自然現象と人間世界の現象との間に、相互の照応や因果関係があるとされ、そこに、自然現象の根源としての天と、人間との相関が考えられた。これは、陰陽説などを吸収しつつ、天人の合一性を自然観・人間観のなかで理論化したものである。この漢代の天人合一・天人相関の思想では、君主の行為の適否に応じて自然現象に祥端(しょうずい)・災異が生じ、ひいては人間の生活に決定的な影響が及ぶとされたが、これは、天と人間一般とを媒介する中軸の位置に君主を置くことにより、君主に超人間的権威を付与するものであった。・・・
 <天人合一>を盛んに唱道したのは宋代の道学者であった。
 朱子学でいう〈天理を存し人欲を去る〉という命題もひとつの天人合一論ということができる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E5%90%88%E4%B8%80-1188200

 朱子學は・・・Entwe-der-oder<(注35)> 的な範疇を持たないので・・・朱子學をあまりに近<←之繞を二点之繞に(太田)>代的に、例へば井上哲次郎<(注36)(コラム#10185、10866)>博士のやうに獨逸理想主義哲學と類比させて考へることは多分に問題であつて、むしろ超越性と内在性、實體性と原理性が卽自的(アンジヒ)に(無媒介に)結合されてゐるところに朱子哲學の特徴が見出されるのではなからうか。」(20~21)

 (注35)どちらか。
https://translate.google.co.jp/?hl=ja#view=home&op=translate&sl=de&tl=ja&text=Entwe-der-oder
 (注36)1856~1944年。筑前国生まれ。東大卒、文部省勤務を経て東大助教授、ドイツ留学、東大文哲学科教授(日本人として初めて就任)、大東文化学院総長などを歴任した。
 「宗教に対する国家の優越を強力に主張し、第一高等中学校教員であった内村鑑三が教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼はおこなわなかった不敬事件に際してはキリスト教を激しく非難し、植村正久と論争する。・・・
 しかしながら、・・・『教育勅語』には限界を覚え、世界道徳を説くに至り、現実即実在論を援用して、国民道徳と世界道徳との矛盾を解消しようとした。仏教からヒント得て現象即実在論を提唱。哲学用語である「形而上」(Metaphysical) の訳者。1927年、『我が国体と国民道徳』で、「三種の神器のうち剣と鏡は失われており、残っているのは模造である」とした部分が、頭山満ら国家主義者から不敬だと批判され、発禁処分となって公職を辞職。
 井上が、西南戦争の済んで間もない1880年から1881年頃、ドイツ留学をはばまれ憤懣やるかたなく、空想のおもむくままに書きまくった漢詩で完全なフィクションである。1884年(明治17年)発行の「巽軒詩抄(金編)」に採録されている。内容は狩りにいって行方不明になった父を慕う孝女の話である。これに刺激を受け、落合直文が孝女白菊の歌を作り、全国的に感涙の涙を絞った。独訳英訳もされた。現地の阿蘇には碑や墓などが、関係ない処に作られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%93%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒ドイツ語でも、Entwe-der-oder であれば、日本でも結構よく知られている言葉ではないかと思いますが、それこそ、日本語で簡潔に言い表せるのですから、やはり、丸山には、日本語を用いて欲しかったところです。
 なお、井上哲次郎についてですが、日本が人間主義文明である、ということが分かっていなかったように思われ、だから、教育勅語についても仏教についても見当違いのことを言ってしまったのでしょうね。
 それにしても、彼、面白い人物ではあります。(太田)

(続く)