太田述正コラム#11179(2020.3.21)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その15)>(2020.6.11公開)

 「・・・まづ取り上げなければならないのは朱子哲學の根本觀念をなす「理」の性格である。
 それは事物に内在しその動静變合の「原理」をなすといふ意味では自然法則であるが本然の性として人間に内在せしめられるときはむしろ人間行為のまさに則るべき規範である。
 換言すれば朱子學の理は物理であると同時に道<←之繞を二点之繞に(太田)>理であり、自然であると同時に當然である。
 そこに於ては自然法則は道徳規範と連<(同上)>續してゐる。
 この連<(同上)>續性については項を改めて述<(同上)>べるが、こゝで注意すべきはこの連<(同上)>續は對等的な連<(同上)>續ではなく從属的なそれであることだ。
 物理は道<(同上)>理に對し、自然法則は道徳規範に對し全く從属してその對等性が承認されてゐない。
 われわれは通<(同上)>常の哲學體系の順序に從つて朱子學の人性論や實践道<(同上)>徳論を形而上學の基礎の上に叙述したが、その形而上學にアリストテレス的意味における「第一哲學」<(注41)>の榮誉を與へることは到底許されない。

 (注41)「アリストテレスの時代には「philosophia<=>哲学」といえば、知的な探究の総称であり、あらゆる知的な探究を指しており、たとえば自然学や数学などといった様々な分野も含めていた。≪第一哲学≫と言えば、哲学の中に配置されうる各学問の中のひとつであり、その中でも≪第一哲学≫は最上位の学問と位置付けられていた。
 アリストテレスはその著書のひとつ(現在『形而上学』と呼ばれる書物)において、存在一般の根本原理や原因を探求する学問と、(その原理や原因の結果によって、たまたま生じたもの(=自然)を扱う学、と位置付けられた)自然学とを比較し、存在の根本原理や原因を扱う学のほうがより重要で、最重要である、と位置づけ、それを「第一哲学」と呼んだわけである。(それと比較して、自然哲学のほうは「第二哲学」と呼んだ。)
 なお・・・アリストテレスは、存在の根本原因は神である、と考えたので、この学問を「神学」とも呼んだ。・・・
 このアリストテレスが「第一哲学」と呼んだ学についての書やその内容については、後の時代、ロードスのアンドロニコス (あるいは彼以前のペリパトス派の哲学者、ともされる) によってアリストテレスの著作や講義が編集された時に(あいにくと明確な題名がついておらず)、『自然学』の次に配置されたという理由で「”ta meta ta physika” タ・メタ・フィジカ」(意味としては『自然学の次なる書』)と(仮に)呼ばれ、それがきっかけとなって、後の時代に「metaphysica メタフィジカ」と呼ばれることになった。・・・
 5世紀ころからシリアのキリスト教徒ら(ネストリウス派のキリスト教徒たちで、<欧州>のキリスト教とは流れが異なっている集団)はアリストテレスの文献をシリア語に翻訳する、ということを行っていた。また832年にはアッバース朝第7代カリフ・マアムーンがバグダードに翻訳や諸学問の研究を行う官立研究所「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」を設立し、ギリシア語・シリア語・パフラヴィー語・(インドの)サンスクリット語などで書かれた文献の相互翻訳・研究が行われた結果、アラブ世界(イスラーム世界)ではアリストテレス哲学の研究が進み、アリストテレス哲学についての注釈書が多数書かれた。
 12世紀に<欧州>人に対して、アラビア語で書かれた様々な文献がアラビア語からラテン語に翻訳される形で紹介される、という大きな潮流が起き(12世紀ルネサンス)、翻訳された中にはアリストテレス哲学の注釈本も多数あった。・・・やがてスペインのトレドやイタリアのいくつかの都市で、直接、ギリシア語の本からラテン語へと翻訳されるようになった。そしてアリストテレスの第一哲学は中世<欧州>のスコラ学という学問的枠組み(制度、伝統)の中で扱われるようになり、中世哲学の哲学者らによって研究され、発展させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%93%B2%E5%AD%A6

 むしろ朱子學に於ける宇宙論乃至存在論は人性論の「反射」的な地位しか占めてゐないのである。」(25~26)

⇒この丸山の主張については、アリストテレスの形而上学と倫理学の関係と比較させる形で、いずれ検証することとしたいのですが、ここでアリストテレスを持ち出した丸山が、「注41」にも登場するところの、ネストリウス派が、「注41」の中の記述において、アリストテレスを継受していたにもかかわらず、アラブ世界(イスラム世界)にも欧州にも影響を与えなかったとされているようであることに関し、(それは世界的通説なのでしょうが、)本当にそうだろうか、と、疑いの念を持たなかったことが惜しまれます。
 ネストリウス派が支那まで到達していたことを、彼、ひょっとして失念していたのかもしれませんが・・。
 とはいえ、日本の儒教研究者達、就中、朱子學研究者達、についても、これまで、ネストリウス派の影響について論じた人を私は寡聞にして知らないところ、この点で丸山を論うのは、酷かもしれませんね。(太田)

(続く)