太田述正コラム#11183(2020.3.23)
<丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む(その17)>(2020.6.13公開)

 「周濂渓の太極圖説は發出論<(注44)>(エマナチオンスレーレ)的にではあるがともかく存在論から人性論を導出してゐるのに對し、朱子は太極圖説の「太極動いて陽を生じ、動くこと極まつて静なり。静にして陰を生じ、静なること極まつて復動く。一動一静、互に其の根と為り、陰に分れ陽に分れて両儀立つ」といふ最初の宇宙論の項の注解において、「太極の動静有るは是れ天命の流行也。所謂一陰一陽する之を道と謂ひ、誠なる者は聖人の本、物の終始なるものにして命の道<←之繞を二点之繞に(太田)>也。其の動くは誠の通ずる也。之を繼ぐ者は善、萬物の資りて以て始まる所のもの也。其の静なるは誠の復る也。之を成す者は性、萬物各々其の性命を正すもの也」云々として早くも「誠」といゆ契機を導<(同上)>入せしめてゐる。

 (注44)Emanationslehre(独)=theory of emanation(英)=流出説。「世界 (多) を根源的一者 (一) からの流出と考える哲学的,神学的世界解釈・・・<であるところの>形而上学説。・・・
 最初は古<典>ギリシアで,エンペドクレスとデモクリトスの知覚説にこれがみられる。
 それによると,物体の知覚像はその物体の表面が剝離して感覚器官のうちに入ってきたものだという。
 ヘレニズム期のグノーシス派(とくにエジプトのグノーシス派)は,神と世界の無限の隔りにもかかわらず神認識が成立するのはいかにしてかと問い,神の顕現は水源または光源たる神からの流出(ギリシア語アポロイアaporrhoia,ラテン語エマナティオemanatio)ないし放射(ギリシア語プロボレprobolē)であると考えた。・・・
 新プラトン派<は、>・・・第一者あるいは善から,この第一者に次ぐよきもの (第一者の模像) としての理性が流出し,次いでこの自己の内にイデアすなわち思惟対象としての多を有し思惟を本質的機能とする超越的理性と感覚的世界,すなわち自然の仲介者として働く世界霊魂が流出すると考える。・・・
 <こ>のほか、・・・インド哲学 (ベーダーンタ派) などによって<も>唱えられた<。>
 <この流出説は、>イスラム哲学や・・・中世・・・キリスト教哲学などにも少なからぬ影響を及ぼした。・・・
 <流出説は、>無からは何も生じないという基本的前提をもち,無からの創造を説くキリスト教の神との間には<、本来、>本質的相違がある<のだが、>・・・<例えば、>アウグスティヌスは,知的光たる神が真理の必然性と永遠性を人間精神に開示するとの照明説を唱え,偽ディオニュシウスは,感覚的な光は神的な光の内在と超越を象徴するものとみなし,万物が〈光の父〉なる神から発出・放射し,還帰することを説き,キリスト教的象徴主義の一大源泉となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E5%87%BA%E8%AA%AC-149665#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88

 しかも彼に於いて「誠とは眞実無妄の謂にして天理の本然也」(中庸章句)といはれる以上、太極(理)はなによりもまづ「誠」といふ本来の倫理的な範疇において把へられてゐるのである。
 單に自然が道<(同上)>徳に從属するのみでない。
 歴史がまた道<(同上)>徳に從属せしめられる。」(26)

⇒丸山は、「存在論→人性論」説、を、無条件で、「人性論→存在論」説、よりも優れている、と決めつけているように読めますが、どちらの説も、形而上学、つまりは、演繹論、なのであって、優劣の判定を下すための検証可能な基準など存在しないのですから、優劣などありえないのです。
 抽象的にこう書いても納得しないむきもあろうかと思うので、丸山は、アリストテレスの哲学はソクラテス/プラトンの哲学よりも優れている、と決めつけているに等しい、と言い換えましょうか。
 下掲を参照。↓

 <ソクラテス/プラトン同様、アリストテレスも倫理(徳)を重視した。↓>
 Aristotle follows Socrates and Plato in taking the virtues to be central to a well-lived life. Like Plato, he regards the ethical virtues (justice, courage, temperance and so on) as complex rational, emotional and social skills.
 <しかし、彼は、ソクラテス/プラトンとは違って、徳を身に着けるためには理を知る(=知的訓練を行う)必要があるとは考えなかった。↓>
 But he rejects Plato’s idea that to be completely virtuous one must acquire, through a training in the sciences, mathematics, and philosophy, an understanding of what goodness is.
 <それも無駄ではないけれど、何よりも、養育、習慣形成を通じて徳の何たるかについての判断能力を身に着ける必要がある、と。↓>
 What we need, in order to live well, is a proper appreciation of the way in which such goods as friendship, pleasure, virtue, honor and wealth fit together as a whole. In order to apply that general understanding to particular cases, we must acquire, through proper upbringing and habits, the ability to see, on each occasion, which course of action is best supported by reasons. Therefore practical wisdom, as he conceives it, cannot be acquired solely by learning general rules. We must also acquire, through practice, those deliberative, emotional, and social skills that enable us to put our general understanding of well-being into practice in ways that are suitable to each occasion.
https://plato.stanford.edu/entries/aristotle-ethics/ (太田)

(続く)