太田述正コラム#11203(2020.4.2)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その2)>(2020.6.23公開)
・・・その後、中世史の学界では、<このような>単線的で機械的な発展史観にたいする批判的な検討が進み、今では過去のものとなった。
が、一般にはなおこの理解が日本人の常識であり、ほとんどあらゆる歴史小説、テレビドラマなどの当然の基調になっている。・・・」(9~11)
⇒私は、かねてより、高橋の武士発生論を、彼が、唯物史観に批判的なことと併せて、高く評価してきたところであり、この彼の武士発生論に大きなヒントを得てきたことは、太田コラムを昔から読んでこられた方はよくご承知でしょう。
でも、それまでの武士発生論に異議申し立てをするに至った彼を突き動かしてきたものが、「現代日本人は当然武士ではないし、日本国憲法は70年以上にわたって「武士の国」であることを拒んできた。僭越ながら、今後の日本の進路を考えるにあたっても、この歴史の見方がとても大切だと、改めて強調しておきたい。」(あとがき中279~280)という、(私とは真逆であるところの、)日本の弥生性に対する嫌悪感であったことをこの本を読んで初めて知ったことで、どうして、彼が、私と全く同じ結論に達しなかったのかが腑に落ちました。(太田)
3 第一章 武士とはなんだろうか–発生史的に–
「まずは、武士が発生した時代、古代・中世から話を始めよう。
武士はこの時代、芸能人だった。・・・
最近の武士研究では、すでに大方の承認をえた学説である。
その証拠を挙げたい。
・・・1302<年>よりやや後に完成した『普通唱導集』<(注2)>という仏教関係の書物では、この世のなかの人びとを「世間・出世間の聖霊二種」と「世間・出世間の芸能二種」の、つごう四つにグループ分けしている。」(13)
(注2)「僧良季によって編まれた、唱導の参考書。・・・仏教史のみならず、社会史、文化史、民俗学の資料として注目されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E5%94%B1%E5%B0%8E%E9%9B%86
「京都東山観勝寺の僧・・・『玉沢不渇鈔』という作文指南書の著作<も>ある。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=8&ved=2ahUKEwjCkvmYncnoAhVFMH0KHXZuDTEQFjAHegQICRAB&url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D24343%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2XeQf8a49vDyFj-7EVC-qf
「本来的には、唱導ないし説経とは仏教の経典を講じ教義を説くことであって、それ自体は文学でも芸能でもなかったが、文字の読み書きのできない庶民への教化という契機から音韻抑揚をともなうようになったものである。それはまた、比喩・因縁など文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称する。・・・
浄土系の安居院流に対し三井寺流は天台系で、この両者は鎌倉末期には唱導の二大流派と目されていたことが知られるものの、・・・三井寺流は安居院流に吸収されるかたちで消滅したと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%B1%E5%B0%8E
「天智天皇の治世に藤原鎌足が・・・≪現在の>京都・・・東山・・・に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号した。崇徳天皇は藤寺の藤を愛でるとともに、寵愛した阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸した。崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐国に流刑になった後、阿波内侍に自筆の尊影を下賜した。崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納して、日夜ひたすら勤行した。・・・
1177年・・・、崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に・・・真言宗の・・・大円法師が参拝した際、崇徳上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275年~1277年)に光明院観勝寺が建立された・・・。
<そして、>仏堂に准胝観音を本尊として祀<り、>奥の社には崇徳天皇を・・・主祭神<として>・・・祀<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%87%91%E6%AF%94%E7%BE%85%E5%AE%AE
⇒先の方まで読んでみても、高橋が武士芸能人論の典拠としているのはほぼこの『普通唱導集』だけですが、これは典拠としては弱過ぎる、と言わざるをえません。
というのも、「保元の乱は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流された<が、こ>の公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
、という事件であり、そんな崇徳上皇(天皇)の慰霊のために建立された観勝寺・・恐らくは天台宗の寺・・の僧であった良季には、武士を芸能人視することで矮小化する動機があったと考えられるからです。
もとより、現在の芸能人よりも、当時の芸能人の方が、後で出てくるように、はるかに幅広い概念ではありますが・・。(太田)
(続く)