太田述正コラム#11205(2020.4.3)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その3)>(2020.6.24公開)
世間は世俗の人、出世間は俗界から抜け出た、つまり出家し仏道に入った人である。
「世間の聖霊」の部は、国家支配層の範囲や、親族・主従などの関係にある人びとを列挙したもの。
一方「世間の芸能」の部には、遊女・白拍子(男装で歌いながら舞う遊女)・鼓打(つづみうち)・猿楽(滑稽な物まねや言葉芸の芸能者)・琵琶法師など今日的な意味での芸能人、蒔絵師・紙漉(かみすき)・鍛冶などの手工業者、文士・全経博士・紀伝博士・天文博士・算博士など各種の学者・博士、商人・町人などの社会階層から、はては仲人(ちゅうにん)(調停を業とする人)・博打(ばくうち)(博奕打(ばくちうち))にいたる多彩な人びとがあがっている。
これらに混じって、武士もその名を連ねているのが目を引く・・・。
芸能という語は、もともと芸と能が合体した熟語である。
古代中国では、芸は才技・技術・学習などの意味、能は事をよくなしうる才力・才芸の意味で、『史記』では熟語になって、学問にかかわる技術や能力の意味で使われた。
日本では、古代の律令制で、宮中の医療・医療関係の役所に登用する医学生の学問的な才能を、「芸能」と称したことに始まる。
以来、学問・武術・美術・歌舞音曲・遊戯など広い分野に渡り、修練によって体得した、人それぞれの技と能力を芸能と呼ぶようになる。・・・
<だから、>「世間・出世間の芸能二種」とは、聖俗の両界に存在した社会的な分業の数々だった。
武士とは本来、「武」という芸(技術)によって他と区別された社会的存在なのである。
そういえば・・・939<年>、東国で起こった平将門の反乱の顛末を記した『将門記(しょうもんき)』でも、将門に「この私に天が与えた資質は武芸であり、あれこれ思いめぐらしてみるに、仲間のうちでいったいだれが将門に比肩できましょうか」と語らせている。
ある芸能が芸能であり続けるためには、当事者たちが自分の技芸の能力を不断に錬磨し、新たな技術を我がものとし、それらを後継者に伝えてゆかねばならない。
芸能の修得・実践の道程、あるいはえられた方法・力量(技術)を道という。
中世の武士の「道」は「兵(つわもの)の道」<(注3)>と呼ばれる。
(注3)「戦いのやり方。戦いの方法。兵法。軍学。また、武芸。武術。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E3%81%AE%E9%81%93-573075
兵は武器を持つ人、端的には武士を意味するが、いくさとも読み、武器・武具の意味もある(以下本書で兵を武士の意味のつわものと読む時はツワモノと表記する。)
かくして、社会には「ツワモノの道」に始まり「博奕の道」(『平安遺文』376号)にいたるまで、多くの道々が存在した。」(13~15)
⇒こういう記述に接すると、世界や世界史上の明々白々な非常識であるところの戦後の教育や風潮を信じ込んだまま人となった高橋らに対しては憐憫の情を禁じ得ませんが、彼らに教わった学生達のことを思うと慄然とします。
高橋自身が書いているように、武≒兵、であり、その兵にはいくさ、つまり、戦争、安全保障、の含意もあるわけであり、そのような分野は、それに通じていることが為政者達にとっては本来必要条件なのであり、特殊技術のニュアンスのあるところの、芸能、などではありえないからです。
こんな自明の理の「証明」はかえって容易ではありませんが、思いつくままに、少々記してみましょう。
我が国の例でいきますが、まず、伝説上の人物である神武天皇です。
いわゆる東征は、彼と兄によって開始されるのですが、兄は戦死してしまい、その後、(まだ即位前ですが)神武天皇は、姦計と残虐の限りを尽くして東征を完遂します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81
次に実在したか否か定かではないものの、女性で最高為政者となった神功皇后が、「仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。翌年、誉田別尊の異母兄である香坂皇子、忍熊皇子を退けて凱旋帰国。この2皇子の母は仲哀天皇の正妻であり、神功はクーデターを起こしたことになる。 クーデターの成功により神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
と、自ら戦いの指揮を執り続けた生涯を送ったとされていることも思い出して欲しいですね。
今度は実在が間違いない人物ですが、中大兄皇子(後の天智天皇)が、645年の乙巳の変の際、豪勇で知られた蘇我入鹿を殺害すべく、「中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、・・・<最初に>おどり出た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
ところです。
平素から武器の訓練をしていなければ、こんな武勇伝をやってのけることなどできなかったはずです。
更に時代を下ると、こういう感じです。↓
「『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは、『続日本紀』・・・760年・・・の条である。当時、反藤原仲麻呂勢力に属していたため大宰府に左遷されていた吉備真備<(コラム#11164)>のもとへ、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたことを記録している。・・・数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では<兵学を>実戦に活用してもいる。
律令制の時代、『孫子』は学問・教養の書として貴族たちに受け入れられた。大江匡房(注4)は兵学も修めていたが、『孫子』もその一つであり、源義家に教え授けている。
(注4)1041~1111年。「公卿、儒学者、歌人。」正二位、大蔵卿まで立身出世。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E6%88%BF
積極的に実戦において試された例としては、源義家が前九年・後三年の役の折、孫子の「鳥の飛び立つところに伏兵がいる」という教えを活用して伏兵を察知し、敵を破った話(古今著聞集)が名高い。ただし古今著聞集が発行されたのは後三年の役の約170年後のことであ<るが・・>・・・。
平安貴族に代わって歴史の主役に躍り出た武士たちも、当初は前述の源義家のような例外を除き『孫子』を活用することは少なかったと考えられている。中世における戦争とは、個人の技量が幅をきかせる一対一の戦闘の集積であったためである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
つまり、非軍事貴族だって、兵に通じていたものは決して少なくなかったことが分かろうというものです。
(なお、「平安貴族に代わって・・・ためである。」のくだりは、浅野裕一(1946年~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E8%A3%95%E4%B8%80
の『孫子』からの引用ですが、浅野は中国哲学が専門(上掲)であり、思い込みでそう書いたに過ぎない、と私は見ています。)
(続く)