太田述正コラム#11207(2020.4.4)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その4)>(2020.6.25公開)
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[隋の琉球侵攻]
「「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」が初出である。同書によると、「607年(大業3年・推古天皇15年)、隋の煬帝が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。翌608年(・・・推古天皇16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らがその『布甲』を見て『此夷邪久國人所用也(此れはイヤク国<(注5)>の人が用いるものなり)』と言った。
(注5)「屋久島が初めて文献に出現するのは・・・<こ>の記述が見えるのが最初である、この「夷邪久」は屋久島を指す説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指す説とがある。
『日本書紀』では推古天皇24年(616年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、舒明天皇元年(629年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載がある。日本書紀で、掖玖(ヤク)を、特定の島である屋久島をさすような言葉として初めて区別するような記載が行われたのは、天武天皇11年(682年)に、「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」という記載からである。
『続日本紀』には、・・・699年・・・に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。また同書には、種子島とともに多禰国との記述があり、・・・702年・・・8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」薩摩国と多禰国が成立する。これ以後、大和朝廷は令制国として一国に準ずる多禰国に国司を派遣する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E4%B9%85%E5%B3%B6
帝は遂に陳稜に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる崑崙人に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。同書は流求國の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しい。なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがある。
「琉球」に落ち着いたのは明代以降であり、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされ、14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の3国(三山時代)に対して明が命名したものであ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
「沖縄には、縄文時代早期から九州系の土器文化が、つぎつぎと南下し押寄せてきている。縄文晩期には、沖縄に佐賀県腰岳産の黒曜石がもたらされ、北九州では貝製腕輪が使用されるようになる。そして、最近では、沖縄の貝塚時代後期初頭の遺跡からは、移入された弥生式土器の出土が相次ぎ、同時に鉄斧や砥石・箱式石棺墓といった弥生文化を特徴づける文物が確認されるなど、弥生文化の定着を証す資料は、確実に増えつづけているという。弥生時代の北九州には、沖縄産のゴホウラ製貝輪が大量に送り込まれているが、鉄と交換したのではあるまいか。
ところが、沖縄には古墳文化は存在しないという。しかし、北九州の弥生文化の構成要素のなかでも甕棺葬の風習は、沖縄には渡ってきていないのである。古墳がないからといって、古墳時代以降、九州の文化が突然沖縄に入ってこなくなったとは、考えられない。・・・
倭国・・・と流求国は、地理的にも近く、風俗の面においても共通のものを持っているのである。それだけではなく、倭国と流求国とは、貝の道によって結ばれていたように、政治的にも、ずっと密接な関係を保っていたのではないだろうか。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin15/ryukyumo.html (増田修「『隋書』にみえる琉球国」より)
なお、増田修はこの人物である可能性が高い。↓
「昭和10年広島市に生まれる。36年東京大学文学部社会学科を卒業。日立製作所人事部勤務を経て、46年弁護士登録(第二東京弁護士会所属、現在に至る。茨城民俗学会,民俗芸能学会、芸能史研究会、東洋音楽学会所属」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784845501748
⇒この話を知らなかったので、名古屋オフ会「講演」原稿(コラム#11164)では言及しなかったが、私は、増田の主張に同感であり、それを前提にすれば、厩戸皇子は、帰国した小野妹子らから隋の琉球侵攻の事実を聞かされた時、日本の軍制弱体化に起因するところの彼の危機意識が一層掻き立てられたはずである、かつまた、中大兄皇子の白村江出兵は隋の後継王朝たる唐への強い警戒感が背景にあったに違いない、と思う。
それにつけても、高橋らの極楽とんぼ的日本古代・中世史観に対する、私の辟易感、いや、怒り、は募るばかりだ。(太田)
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(続く)