太田述正コラム#11209(2020.4.5)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その5)>(2020.6.26公開)

 「・・・芸能は特定のイエによって担われる傾向を持ち、その場合芸能は家業として子々孫々受け継がれてゆく。
 技術・技能は知識の一種であるが、それが家業・家職として、特権的・運命的・因襲的に特定のイエに固着するのは、前近代の技術が基本的には、人間の身体と一体化した知識であり、経験的なものだからである。・・・

⇒高橋らが唱えるところの「武=芸能」論ないし「武の家業・家職」論のナンセンスさは、「武」が、施政者達にとって身に着けておくべき必要条件であるだけではなく、「潜在的」には全ての人々にとっても同様であることからも明らかでしょう。↓
 「日本の中世期においては、幕府の地頭、御家人、その郎党といった正規の武士以外に地侍(土豪)、野伏、農民等も武装していた。武士は律令時代の武装開拓農場主を出自とし、農場主が小作人の子弟を郎党として戦時の体制を構成していたため、兵と農は不離あるいは同義語に近い。また治安維持を担う政府が形骸化していたために流通業者も武装しなければならず、農業系武士の代表が鎌倉幕府の御家人たちであるならば、商業系武士の代表としては鉱山経営者であり運輸業者であったといわれる楠木正成等が挙げられる。
 つまり武装を必要としない江戸時代の安定を見るまでは、経済的に許される範囲において、あらゆる階層が武装していたと考えるほうがよい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E8%BE%B2%E5%88%86%E9%9B%A2
 このように、(私見では桓武天皇構想に基づいて出現したところの、)日本の封建時代・・私の言う第一次弥生モードの時代・・、においては、日本の成人男性の大部分が「武」を身に着けざるをえず、現に身に着けていた、のですからね。(太田)

 かくして武士は、武という芸(技術)によって自他を区別する社会的存在であるだけでなく、「ツワモノの家」「武芸の家」「武器の家」などと呼ばれる、武芸を家業とする特定の家柄の出身者でなければならなかった。

⇒そうではなく、武士達を束ね率いる武家は、源平藤を代表例とするところの、天皇家に連なる家でなければならなかった、ということなのです。
 (当たり前過ぎて、誰もそこまで註釈を付けた形で書き残さなかったというだけでしょう。)
 どうしてか、と、言えば、武力を行使する人々は、天皇家に連なるところの、諸家の者達によって束ね率いられていない限りは、武器を用いる単なる犯罪者達とみなされる、という認識が常識化され広く共有されていた、と、私は想像しているからです。
 他方、当然のことながら、「一般の」諸芸能に係る家であれば、それが、どんな名家であろうと、天皇家に連なる家である必要など全くなかったはずです。(太田)

 11世紀を代表する武士である河内源氏の頼義は「累葉(代々)武勇の家から出た」(『続本朝往生伝』)。
 鎌倉初期成立の『澄憲作文集(ちょうけんさくもんしゅう)』では、「武者」を「身すでに勇士たり、家また武庸(武勇)なり」と説明し、『普通唱導集』も「武士」を「武勇の家に生まれ、始めから念入りにその芸をさずかり、弓箭(きゅうせん)(弓矢)の道に携わって、心中ではもうその芸能に堪能だと思っている」人びとと説明する。・・・
 たんに個人的に武芸に堪能なだけでは、まだ武士ではない。

⇒これら諸典拠に登場する「家」は、最初のものだけは「家」の前の「天皇家に連なる」という修飾語句が省かれており、残りの「家」の全てにおいては、「家」の前の「天皇家に連なる家によって束ね率いられた」という修飾語句が省かれている、と受け止めるべきなのです。(太田)
 
 武士であるためには「ツワモノの家」の生まれであり、とくに望ましいのはその「家を継ぎたるツワモノ」であることだった(『今昔物語集』<(注6)>巻25第7など)。」(19~20)

 (注6)「平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。・・・
 天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成される。各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっている。・・・
 河合隼雄によると、『今昔物語』の内容は「昔は今」と読みかえたいほどで、ひとつひとつの物語が超近代(ポストモダン)の知恵を含んでおり、その理由としては、当時の日本人の意識が外界と内界、自と他を区別しないまま、それによって把握された現実を忠実に書き止めている点にあるとしている。ポストモダンの問題意識は、それがデカルト的(心身二元論的)切断をいかに超越するかにあり、その点で『今昔物語』は真に有効な素材を提供するとしている。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86

⇒これについては、最初の「家」については「天皇家に連なる家によって束ね率いられた」という修飾語句が省かれており、次の「家」については「天皇家に連なる」という修飾語句が省かれている、と受け止めるべきなのです。
 なお、どうして一般の武士についても「家」が問題にされたかですが、少なくとも鎌倉時代初期までは、騎馬して弓矢を操れることが武士の必要条件であったと思われるところ、そういうことができるのは、蝦夷の「家」の人間か、そういうことを蝦夷から教わり、或いは蝦夷と戦って体得した「家」の人間だけであって、なぜ「家」かと言えば、「騎馬して弓矢を操れる」ようにしてくれる学校があったとは思えず、また、馬を調達するにも馬市があったとも思えず、しかも、馬は高価であったと考えられることから、こういった諸々のこと(人と馬の教育訓練、馬の繁殖、等)を疑似血縁集団たる「家」が行い、それを「武士の家」と称したのではないか、と、私は想像しているわけです。
 但し、鎌倉時代中期以降、戦闘/戦争の頻度や規模が増えていくと共に、「歩兵」や「兵站員」の重要性が増し、次第に「武士の家」出身者以外の者達も含め、成人男性全体が武士化していった、と。(太田)

(続く)