太田述正コラム#11375(2020.6.27)
<皆さんとディスカッション(続x4482)/改めて聖徳太子コンセンサスについて–島津斉彬の視点も加味しつつ>
<太田>(ツイッターより)
「<米>国…は…「外国人技能実習制度に絡む強制労働」<を>…指摘。3年ぶりに<日本の>…ランク<を>…引き下げ<た。>…」
https://blogos.com/article/467522/
技能実習生制度に問題はあるが、黒人問題を抱え原爆を投下した国が、臆面もなく他国の「人権」について論う赤面ものの悪習はもう止めなさいよ。
<太田>
コロナウィルス問題。↓
<やったぜ。韓国の発表が遅れてるがいかなる数字であれ、日本の勝利だな。↓>
「・・・死者970人(+0人)・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55811680Z10C20A2I00000/
それでは、その他の記事の紹介です。
柳美里の『JR上野駅公園口』の英訳の好意的書評だ。↓
Yu Miri’s ‘Tokyo Ueno Station’ focuses its attention on the shamefully overlooked・・・
https://www.washingtonpost.com/entertainment/books/yu-miris-tokyo-ueno-station-focuses-its-attention-on-the-shamefully-overlooked/2020/06/24/3232869a-b641-11ea-a510-55bf26485c93_story.html
人生イロイロ、で終わりだろ。↓
「AV女優、引退後どうしてる?夏目ミュウさんインタビュー・・・」
https://blogos.com/article/467483/
日・文カルト問題。↓
<自分とこだけの心配をしなさい!↓>
「互いに刀を構える韓日「経済鎖国」1年、結論は双方に損害・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/06/27/2020062780014_3.html
<知恵を絞らなきゃならないのはお宅だけよ。↓>
「日本による輸出規制から1年 韓日関係の行方なお霧中・・・韓日がともに知恵を絞り、最悪の事態の回避を・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/06/27/2020062780018.html
<ここでも、やっぱ、自分とこだけの心配をしなさい↓>
「コロナ不安で仕事やめる高齢者…安倍首相の「1億総活躍」打撃・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/267485
<同じく。↓>
「半導体・ディスプレーに続き…「メード・イン・ジャパン」旅客機も失敗–日本の「日の丸連合」…政府主導企業、没落の教訓・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/06/26/2020062680108.html
<オー客観報道にしたねえ。↓>
「日本財団法人、「竹島は日本の領土」動画をユーチューブで公開・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/267479
<気色わる。↓>
「K-POPノウハウで誕生した日本ガールズグループ「Nizi」、9メンバーを確定・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/267480
<大根田舎芝居大団円へ?↓>
「慰安婦被害者と批判対象の支援団体理事長が面談 7月に共同会見へ・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200626004500882?section=society-culture/index
<アイゴー。ここまで、可塑性がないとは・・。↓>
「・・・不買運動への関心は、新型コロナで社会が動揺する中でやや下火になったとの指摘もある。だが、一部の市民を中心に日本製品のボイコットは続いている。
ユニクロなど日本のファッションが好きだったという20代の会社員は「日本は韓国に対する輸出規制を解いていない。最近は(旧日本軍の)慰安婦問題に関して日本に一段と良くない感情を持つようになった。不買運動をやめようというムードもないため、やめる理由がない」と語った。」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/06/27/2020062780032.html
「ビール販売88%減、自動車も半減…ボイコットジャパン1年過ぎても「現在進行形」=韓国・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/267489
もうチョイだったけど残念でした。
米国じゃなく日本だよー。↓
China’s Military Provokes Its Neighbors, but the Message Is for the United States–From the Himalayas to the South China Sea, China is pressing its territorial claims aggressively, raising the possibility of additional deadly clashes.・・・
https://www.nytimes.com/2020/06/26/international-home/china-military-india-taiwan.html
ぽかん。↓
「右利き、左利きを決めるのは何か? その秘密は脳ではなく、脊椎にあった・・・」
http://karapaia.com/archives/52292139.html
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<定番。↓>
「「これが日本社会なのか」と感銘、誰もがルールを守り、偽物も売らない・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1690567?page=1
<今後の定番候補。↓>
「これが日本人男性の衛生概念なのか! 彼らは「座って用を足していた」・・・中国メディアの網易・・・」
http://news.searchina.net/id/1690557?page=1
<大げさな。↓>
「日本の農作物の値段が安くないのは、農業を国の「最重要基盤」と考えているからだ・・・中国のポータルサイト・百度・・・」
http://news.searchina.net/id/1690561?page=1
<あい、分かった。↓>
「夏でも涼しいマスクだと? 「斬新なアイデアが次々に出る日本を敬服」・・・」
http://news.searchina.net/id/1690563?page=1
<勤勉革命の紹介はひょっとして初めて?↓>
「・・・中国メディアの百家号・・・記事は、近代日本は明治維新で伝統的な封建制から整備された中央集権国家へと生まれ変わり、同時に工業国家へと変貌したと紹介し、「清王朝が失敗した大規模な変革に、なぜ日本は成功することができたのか」と疑問を投げかけた。
続けて、日本が明治維新という革命を成し遂げ、経済面で飛躍的な成長を遂げることができたのは、日本がある一定の条件を満たしていたためだと主張し、その条件とは「日本人が勤勉だったこと」だと指摘。日本は江戸時代には戦乱のない平和な環境を構築しており、人口も18世紀初頭には人口が3000万人まで増え、世界有数の人口大国となっていたと指摘する一方、土地資源は有限であったため、日本の農民は農具の改良や治水の改善などを通じて労働生産性を向上させ、その過程で勤勉性が向上したという歴史人口学者の速水融氏が提唱した「勤勉革命」の考え方を紹介した。
そして、江戸時代に勤勉革命を通じて日本人は勤勉になり、規律を重んじる国民性と合わせて工業国家へと変貌するうえでの基礎が整備されたと強調。また、日本は江戸時代の頃から教育が普及していて、一般庶民であっても寺子屋で教育を受けることができたと指摘、19世紀ごろには日本の識字率は世界有数の水準であったことも、その後の飛躍において重要だったと強調した。
さらに記事は、このような条件が江戸時代の時点で整備されていた日本が明治維新という革命を成功させ、国力の飛躍的な向上を実現させたのは「ある意味で必然だった」と論じた。」
http://news.searchina.net/id/1690564?page=1
<確かに。↓>
「張本智和が中国で育っていたら、おそらく試合に出るチャンスはなかった・・・中国メディア・東方網・・・」
http://news.searchina.net/id/1690565?page=1
<同じく。↓>
「ただの「狭い空間」と思うな! カプセルホテルは「利用しない選択肢はない」・・・中国メディアの百家号・・・」
http://news.searchina.net/id/1690566?page=1
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一人題名のない音楽会です。
軽クラシック曲落穂拾いです。
James Barnes(注a) アルヴァマー序曲(注b)(管弦楽版)(Alvamar Overture for Orchestra)(1981年)
https://www.youtube.com/watch?v=YZBz3yac4vQ
(注a)1949年~。「カンザス大学で作曲を学び、同校で2015年春まで40年にわたって教鞭をとっていた。現在は、同校の名誉教授である。・・・作曲家・指揮者。専攻楽器はチューバ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA_(%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6)
(注b)「タイトルのアルヴァマーは、作曲者が住むカンザス州ローレンスにあり、作曲者がよく週末にプレーすると語るゴルフ場の名前から取られたものである。このゴルフ場はアルヴァとマリーが経営していることからその名が付けられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%9E%E3%83%BC%E5%BA%8F%E6%9B%B2
Alfred Reed(注c) El Camino Real(注d)(1985年)
https://www.youtube.com/watch?v=HPYmrapNgxo
(注c)1921~2005年。「ジュリアード音楽院・・・<米国>の作曲家・指揮者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89
(注d)「タイトルは「王の道」という意味のスペイン語で、副題に「ラテン幻想曲」とあるように、作曲者によるとスペインのフラメンコなどでギター奏者が好んで用いるコード進行に基づいている。
なお、合衆国国道101号、カリフォルニア州のエル・<カミーノ>・レアル(en:El Camino Real (California)・・・)をはじめ、この名で呼ばれる街道がいくつかあり、・・・リードはこれらの街道にインスピレーションを得て、諸国の国王の行列の情景を思い浮かべたと述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AB
スタンフォード大の正門から出て、そのままユニバーシティー・アベニューを直進して行けば、このエル・カミーノ・レアル(国道101号線)
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6/@37.4274745,-122.169719,15z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x29cdf01a44fc687f!8m2!3d37.4274745!4d-122.169719
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93101%E5%8F%B7%E7%B7%9A_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD)
にぶつかる。
Arturo Márquez(注e) Danzón No. 2(注f) 指揮;Alondra de la Parra オケ:L’Orchestre de Paris
https://www.youtube.com/watch?v=pjZPHW0qVvo
(注e)1950年~。メキシコ人作曲家。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B9
(注f)ダンソン・ヌメロ・ドス。「1993年に何度かメキシコ各地を旅した際に、キューバ発祥の音楽とダンスのジャンルで、メキシコにも広まり今でも高齢者を中心に人気のあるダンソン・・・の音楽とダンスに触れたことがキッカケで、色々と研究を始め、その音楽要素を取り込んだオーケストラ曲を創造した。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9
Gerónimo Giménez(注g) Intermedio. La boda de Luís Alonso(Intermediate. Luis Alonso’s wedding) 指揮:Enrique García Asensio オケ:? カスタネット:Lucero Tena
https://www.youtube.com/watch?v=nf9ypRpbZMA
(注g)1854~1923。パリ音楽院卒のスペインの指揮者・作曲家。この曲のようなサルスエラ(スペインの叙情的オペラ音楽)の作曲に専念した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ger%C3%B3nimo_Gim%C3%A9nez
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%A8%E3%83%A9
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–改めて聖徳太子コンセンサスについて–島津斉彬の視点も加味しつつ–
(御用とお急ぎの方は、「[武士の活躍]」と「III 日蓮論」だけでもどうぞ。)
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I 改めて厩戸皇子について
II 聖徳太子コンセンサス再訪
1 軍事政策再訪
(1)聖徳太子コンセンサスにおける軍事政策総論再訪
[武士の活躍]
〇一回目の活躍(刀伊の入寇)
〇二回目の活躍(元寇)
〇三回目の活躍(朝鮮出兵)
〇四回目の活躍(幕末~大東亜戦争「敗戦」まで)
(2)補論:冠位制
[女官]
[褶(ひらみ)]
[1回目のティータイム]
2 「宗教」政策再訪
(1)始めに
[神道論]
〇トップダウン方式(失敗)
〇ボトムアップ方式(成功?)
(2)聖徳太子コンセンサス中の仏教論とその展開
(ア)聖徳太子コンセンサス中の仏教論(再訪)
あ 仏教伝来
い 関連する中臣氏/藤原氏の動静
[田中英道説]
う 厩戸皇子ゆかりの寺院群から窺われること
[2回目のティータイム]
(イ)聖徳太子コンセンサス中の仏教論のその後の展開
あ 道昭(629~700年)
[法相宗]
い 行基(668~749年)
[3回目のティータイム]
う 天武朝(672~770年)下の藤原氏
え 復活天智朝(770年~)下の藤原氏
[太子信仰]
お 最澄(766/767~822年)
か 空海(774~835年)
き 源頼朝(1147~1199年)
く 重源(1121~1206年)
け 叡尊(1201~1290年)
こ 日蓮(1222~1282年)
さ 北条得宗家
し 後宇多天皇(1267~1324年。天皇:1274~1287年)
す 後醍醐天皇(1288~1339年。天皇:1318~1339年)
せ 足利尊氏(1305~1358年)
[浄土真宗について]
一 神仏習合教の背教宗派たる浄土真宗
二 浄土真宗と太子信仰
(一)始めに
(二)太子廟崛偈
(三)聖徳太子像
そ 織田信長(1534~1582年)
た 豊臣秀吉(1537~1598年)
ち 徳川家康(1543~1616年)
[徳川幕府の対浄土真宗・不受不施派政策]
[キリスト教禁教令と寺請制度]
つ 島津重豪(1745~1833年)
III 日蓮論
[立正安国論(りっしょうあんこくろん)]
[荘園]
[後醍醐天皇と日蓮宗]
[豊臣秀吉と後陽成天皇]
[徳川幕藩体制]
[島津斉彬と日蓮正宗]
[宮沢賢治・国柱会・法華経]
[田中智学の考え]
[牧野伸顕と日蓮宗]
[釈迦牟尼仏(釈迦如来)と日蓮]
[法華一揆]
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I 改めて厩戸皇子について
今や、厩戸皇子(聖徳太子)を矮小化する説が通説化しているようだ。↓
「聖徳太子は10人の言葉を同時に聞き分けるほど聡明で、叔母の推古天皇の摂政として政治をとり、天皇への忠誠と人々の和を説いて国内をまとめ、巨大国家・隋との対等外交を成功させた、古代日本のヒーローと教えられました。ところが、近年は、政治の中心人物ではないということになっているのです。
1999年、中部大学名誉教授の大山誠一<(注1)>氏が『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)の中で、推古朝に厩戸(うまやと)という名の皇子はいたが、彼は政治の中心になるような人ではなかった。聖徳太子は、後の権力者である藤原不比等などが編纂した『日本書紀』によって、創作された聖人である、などと明快に断じたのです。
(注1)1944年~。東大文(国史)卒、同大博士。「戦前の津田左右吉や戦後の小倉豊文、田村圓澄らが聖徳太子の事蹟を検証し、それらのほとんどが後世の仮託であることを指摘していた。大山はさらに踏み込んでそれらは『日本書紀』を舞台に藤原不比等らが、法隆寺を舞台に光明皇后らが捏造したものとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E8%AA%A0%E4%B8%80
『日本書紀』は『古事記』と並んで現存する最古の歴史書であり、聖徳太子の事績を最初に詳しく描いた根本史料です。ですから、あまりに“盛りすぎ”な場面を除いては、信用せざるをえなかったのです。
ところが最近では、いろいろな研究手法が発達するなどしたことで、新たな評価がなされるようになったのです。
この時期の研究でいえば、大量の木簡の出土です。当時は紙が貴重だったので、代わりに薄い短冊状の木片に文章を書くことが一般的でした。そして不要になると捨てましたが、近年では、大量に投棄された木簡がたびたび出土し、研究が進んでいるのです。中には『日本書紀』と矛盾する記述があり、国史の誇張や間違いがわかってきたのです。
また、聖徳太子の肖像画も、聖徳太子を描いたものということでずっと伝わってきましたが、これも研究してみると、聖徳太子が亡くなった100年近く後に描かれた可能性が高いことがわかりました。実は肖像画の人物が持っている笏(しゃく)という板のようなものが、聖徳太子の時代ではまだ一般化されていませんでした。
そんなわけで現在の高校日本史の教科書では、聖徳太子は推古天皇の協力者として描かれ、脇役のような扱いを受けています。」
https://news.infoseek.co.jp/article/president_33955/
(もっとも、「駒沢大学の石井公成・仏教学部教授<は、2016>年「聖徳太子 実像と伝説の間」(春秋社)で大山説に全面的に反論した。コンピューターを使った仏典のデータベース分析で「三経義疏」は聖徳太子自身が書いた可能性もあるという。十七条憲法も漢文の誤用・奇用が多く仏教中心であるため、天皇を神とする律令体制確立以後ではなく基本は推古期のものだとした。また法隆寺の瓦は飛鳥寺、豊浦寺など巨大寺院の瓦と同じ型だという。「瓦ぶきの巨大寺院の建立は今で言えば最新の超大型原子力発電所を建設するようなもので、国家事業かそれに準じるレベルの勢力でないと建設は無理<、と。>」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO13157960R20C17A2000000 )
しかし、それはおかしい。
以下、その理由を申し述べる↓
「敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)<(注2)>の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子<(注3)>を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。
(注2)後の推古天皇。「諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。・・・豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと・・・)<は、>和風諡号・・・
第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。・・・
敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら2男5女を儲けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
(注3)あなほべのみこ(?~587年)。「欽明天皇の皇子として誕生。母は蘇我稲目の娘・小姉君。異母兄に敏達天皇と用明天皇など。同母姉に穴穂部間人皇女(用明天皇妃、聖徳太子生母)、同母弟に崇峻天皇。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E7%A9%82%E9%83%A8%E7%9A%87%E5%AD%90
厩戸皇子[や泊瀬部皇子]もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。
⇒「崇峻天皇(在位:587~592年)の時、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
「鮮卑<系の>・・・随<が送り出した>・・・51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝・・・は・・・捕らえられた。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった<支那の>分裂時代が終結した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
という大事件が起こり、その直後に、日本史上、空前絶後の、臣下により天皇が殺害されるという、大事件が勃発し、推古天皇/厩戸皇子体制が成立したことが、示唆的です。
「佐藤長門・・・は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、<蘇我>馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところですが、私は、このクーデタ説を採るに至っており、その首謀者は厩戸皇子であると見ているのです。」
と、このように私はコラム#11253で記したところだが、「591年、朝鮮半島の情勢変化に対応しようとして北九州に・・・2万人<の>・・・大軍を集結させたが、592年11月、蘇我馬子(うまこ)は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B4%87%E5%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87-83803
という経緯があったことから、私は、支那統一を果たしたばかりの隋が、朝鮮半島にいつ50万人の大軍を派遣するか分からない時期に、崇峻天皇が朝鮮半島に、日本の軍制が弱体化しているにもかかわらず出兵することの危険性を察知した厩戸皇子が、豊御食炊屋姫を説得して同意を取り付けた上で、蘇我馬子を使嗾して、実際に出兵がなされる前に崇峻天皇を殺害させた、と見ている。<(注4)>
(注4)このくだりを書き終えてから見つけたのだが、倉本一宏が似たようなことを言っている。↓
「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書)の中で7世紀の東アジア情勢から聖徳太子を解明しようとした。当時は<支那>の統一国家・隋が出現、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の3国が争っており、日本は準戦時体制を整えながら国際社会にデビューしようとしていた。遣隋使だけでなく冠位十二階や斑鳩移住なども全て対外政策が基本であり、新たな国際秩序に早く対応する狙いだった<、>と<。>」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO13157960R20C17A2000000 前掲
倉本一宏(1958年~)は、東大文(国史)卒、同大博士、国際日本文化研究センター教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E6%9C%AC%E4%B8%80%E5%AE%8F
(なお、「推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させ」ている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
けれど、それは、「598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝は、30万の大軍で陸海両面で高句麗に・・・第1次遠征<を行っ>・・・たが、・・・海軍は暴風に遭い撤退し<、>陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E9%81%A0%E5%BE%81
直後の時期であったので、唐は(、そして高句麗も、)介入する余裕はない、と見切ったからだろう。)(太田)
その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。<(注5)>・・・
(注5)「592年・・・に・・・崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、・・・先々代の大后(皇后)であった額田部皇女が、馬子に請われて・・・即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女性の大王(女帝)となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。
その背景には推古天皇が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の大后[広姫]が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と推古天皇がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去した)。
推古天皇元年4月10日(593年5月15日)、甥の厩戸皇子を皇太子として万機を摂行させたとされる。聖徳太子の父は用明天皇(推古天皇の同母兄)、母も異母妹の穴穂部間人皇女(かつ生母同士が実の姉妹関係)<、等>の間柄であり、これが竹田皇子亡き後において、天皇が聖徳太子を起用する背景になったと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A7%AB ([]内)
なお、「敏達天皇と推古天皇の皇女<である>・・・菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ<)は、>広姫の父とされているところの、皇族の息長真手王(おきながのまてのおおきみ、生没年不詳)は、そもそも不詳の人物。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%95%B7%E7%9C%9F%E6%89%8B%E7%8E%8B
⇒推古天皇と厩戸皇子は、血族姻族関係が二重三重にあり、後者は前者の実子に等しかった、いや、(ヘンな意味ではなく)実子以上に関係が深かった、と見てよかろう。(太田)
河内祥輔<(注6)>は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。
(注6)1943年~。東大文(国史)卒、同大修士、同大博士課程単位取得満期退学、同大史料編纂所、北大助手・助教授・教授、法政大教授、退任。
「武家政権と公家政権を対立する概念として捉える通説を徳川政権及び近代政府における理念上の産物として批判し、古代・中世の政治体制を公家政権・武家政権ともに「朝廷再建運動」を通じて君臣共治の神意に適う国家・朝廷の再生を目指し、その担い手としての自己の正当性確立を目指したとする理論(「朝廷の支配」から「朝廷・幕府体制」への移行)を提示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%A5%E8%BC%94
だが、竹田皇子の急な薨去後に竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が崩御するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく薨御した)とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
⇒河内説は、私の厩戸皇子観を補強するものと言えよう。
読者の参考のために、以上も踏まえて、簡単な系図を作ってみると下掲のようになる。↓(太田)
|-36孝徳天皇 |-39弘文天皇
|- 茅渟王—35皇極/37斉明天皇 |-・・・⇒⇒平成天皇
| ||—38天智天皇—41持統天皇
| || ||—草壁皇子
| ||—40天武天皇……………
|- 押坂彦人大兄皇子—34舒明天皇…………
29欽明天皇—33推古天皇(豊御食炊屋姫尊=額田部皇女)
| ||-竹田皇子(推古天皇即位直後までに死去)
| ||-菟道貝蛸皇女(厩戸皇子妃。結婚後すぐ死去)
| ||-尾張皇子-橘大郎女(厩戸皇子妃)
| ||-桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子妃。舒明天皇の母ではない)
| ||-田眼皇女(舒明天皇妃だが同天皇即位前に死去)
|-30敏達天皇
|- 穴穂部間人皇女
| ||-厩戸皇子(聖徳太子)-山背大兄王
|-31用明天皇
|-32崇峻天皇
|- 穴穂部皇子
蘇我稲目—蘇我馬子—蘇我入鹿
|-堅塩媛(欽明天皇妃。用明天皇、推古天皇の母)
|-小姉君(欽明天皇妃。穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)の母)
II 聖徳太子コンセンサス再訪
1 軍事政策再訪
(1)聖徳太子コンセンサスにおける軍事政策総論再訪
厩戸皇子が、「(漢人王朝の仇敵であり続けた遊牧民族的な戦術・武器を用いたところの)蝦夷・・蘇我蝦夷の話ではないことに注意!・・の戦法の習得、と、封建制の確立、とを二本柱とする」聖徳太子コンセンサスを策定した(コラム#11164)ことそのものについてはここでは繰り返さない。
ここで指摘したいのは、封建制の確立というアイディアをまとめる際に、末端武士のイメージとして厩戸皇子が思い描いたのは、十津川郷士(注7)ではなかったか、という点だ。
(注7)以下、重複が諸所にあるが、興味深いのでそのまま引用しておく。
「古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている。
南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の陣の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。・・・
幕末になると、上平主税などを筆頭に勤皇の志士となるものも多く、また千名を超える兵動員力を期待され、過激派公家の思惑などから薩摩、長州、土佐などと並んで宮廷警護を命ぜられた。天誅組の変の際には多くの郷士が参加していたが、装備の古さや天誅組側の戦略の無さなどから劣勢であり、朝廷より「天誅組は朝廷軍ではない」との正式判断が出されたため離脱。その後、大総督官直属の朝廷御親兵として越後から会津の倒幕戦争に赴き帰還。維新後は全員士族となった。だが、前述の上平など一部過激派は新政府の近代化政策に反発して横井小楠暗殺事件などを起こしている。・・・
古より武道には長けていた者が多かったと言われている。例として、十津川郷士の一人中井庄五郎が友人の土佐脱藩士と、京の四条の川畔を酔って歩いていた際、酒の勢いで刀を抜いて乱闘になったことがある。その斬り合った相手がよりにもよって新選組の永倉新八、沖田総司、斎藤一の歴々であった。双方酔っていたうえ、中井は重傷を負った土佐脱藩士を担いで戦線離脱しているのだが、十津川郷士の個々の戦力と胆力、普段からの武道研磨の度合いがわかる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A3%AB
上平主税(かみだいらちから。1824~91年)は、「紀伊国で医術を、京都で国学を学ぶ。梅田雲浜に師事し、勤皇活動に奔走。
・・・1863年・・・3月、十津川郷の代表として、古代より勤皇の志が篤い十津川郷士が京都御所の警衛をすることを願って久邇宮朝彦親王(中川宮)に建白書を提出。これを許されると、中井庄五郎などの郷士を率いて御所の警衛に当たった。在京中は、薩摩藩邸に出入りして西郷隆盛、坂本龍馬など諸国の志士と交流を持った。
・・・1863年9月29日・・・、大和国において天誅組の変が起こり、多くの十津川郷士がこれに参加するが、八月十八日の政変により天誅組に追討令が出される。主税は中川宮の命を受けて急ぎ京都から十津川郷に戻り、十津川郷村の代表者を集めて、京都の情勢を説明した。十津川郷士は天誅組からの離脱を決し、天誅組と行動を共にしていた郷士は帰還、更に郷内での戦闘を回避するため天誅組に十津川からの退去を求めた。
・・・1869年・・・、十津川郷士らにより横井小楠が暗殺されると、これに関わった罪で伊豆新島へ流罪となる。新島では、医術の知識を生かして島民の治療を行ったり、寺子屋を開いて教育に当たるなどして尊敬を集めた。明治12年(1879年)、許されて10年ぶりに十津川に戻り、医者として活動。後に郷内玉置神社の神官となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%B9%B3%E4%B8%BB%E7%A8%8E
「尊攘派志士である土佐脱藩浪士の吉村虎太郎らは、大和行幸の先鋒となるべく公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、幕府五條代官所を襲撃するが、直後に起こった京都での政変により、一転して逆賊とされ、幕府軍の追討を受け、壊滅した。・・・
<この>天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派の倒幕運動における初めての組織的な武力蜂起という点で画期的なものであった。
天誅組の挙兵自体は短期間で失敗に終わったものの、幕府領支配の拠点である陣屋や、小大名とはいえその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%AA%85%E7%B5%84%E3%81%AE%E5%A4%89
吉村虎太郎(1837~63年)は「土佐藩の庄屋であったが・・・<土佐藩士の>間崎哲馬<や>・・・土佐郷士の>武市半平太<の>・・・尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。<福岡藩士の>平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%91%E8%99%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
私の仮説は、十津川郷士は、大和王権軍制が大君(天皇)家親衛軍と国軍の二本立てになった際に、最後まで、親衛軍を統括した大伴氏の統括下には入らずに、大君への直隷を続けた兵士達だった、というものだ。
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[武士の活躍]
〇一回目の活躍(刀伊の入寇)
「刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、・・・1019年・・・に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊・・・約3,000人・・・が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。・・・
<対馬、壱岐への襲撃の後、>刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、・・・<更に>博多を襲った。博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、この一体の要衝であった。刀伊勢は警固所を焼こうとするものの、大宰権帥藤原隆家と[大宰大監]大蔵種材らによって撃退された。博多上陸に失敗した刀伊勢は・・・肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。・・・
藤原隆家<(注8)>は・・・、眼病治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していた。
(注8)979~1044年。右兵衛権佐、左近衛少将、右近衛中将、権中納言、兵部卿、中納言、大宰権帥、大蔵卿等、大宰権帥。
『後拾遺和歌集』(2首)、『新古今和歌集』(1首)に和歌作品が採られている勅撰歌人である。・・・漢詩も『本朝麗藻』に七言律詩1首が残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6 ([]内も)
専門の武官ではなかったが、撃退<作戦>の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなった。
⇒いや、藤原隆家は、その職歴から見て、「専門の武官」と言ってよかろう。(太田)
九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材<(注9)>・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢<(注10)>(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、〈前肥前介〉源知<(注11)>、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれる。
(注9)大蔵種材(おおくらのたねき。不明)は貴族・武人で藤原純友の乱で功績を挙げた大蔵春実・・子孫は九州に土着し大宰府の官人を世襲・・の孫。大監だったので当時は正六位下(ちなみに、藤原隆家は前中納言/大宰権帥で従三位)だったが、「刀伊の入寇において、種材は既に70歳を超す高齢であったが、大宰権帥・藤原隆家らと共に刀伊に対して応戦する。さらに、刀伊が撤退しようとした際、追撃のための兵船の整備を待たずに単独で追撃を行う旨を筑前守兼大宰少弐[正五位下]・源道済に訴えた。この訴えは認められるも、刀伊の撤退が迅速であったために戦闘には至らなかったが、種材の忠節は深く褒賞すべき者として大宰府から報告が行われた。7月になって種材は入寇での功労により壱岐守に任じられている」ので、最終官位は従五位下。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%98%A5%E5%AE%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%A8%AE%E6%9D%90 (「」内等)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yochicaz/doc/kandjst.html ([]内等)
(注10)「伊佐氏<には、>・・・桓武平氏繁盛流大掾氏族である多気氏の庶家で、同じく常陸国伊佐郡を本貫とした一族<もあり、>・・・刀伊の入寇で活躍し肥前国を賜った伊佐為賢を始祖とする」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BD%90%E6%B0%8F
(注11)「嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を惣領とし、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる・・・松浦一族の先祖<の一人>と思われる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A
知(しらす)は(融の曽孫の)綱の子の久と同一人物ではないかとの説がある。
https://www.city.karatsu.lg.jp/bunka/tanbo/rekishi/wako-03.html
知は、前肥前介だったので、その官位は従六位上だったはずだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yochicaz/doc/kandjst.html 前掲
⇒元々、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は、「位」(後述)の上下でもって臨機応変に指揮命令系統を確立して有事に対処しようというものであったからこそ、刀伊の入寇のような急襲を受けた場合であっても、「寄せ集めに近いもので」十分効果的な対処ができた、と言うべきだろう。
これは、まさに、このコンセンサス/構想が、この時点までに結実していたことを示すものだ。(太田)
源知は・・・その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をした。
なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子孫と伝えているが、石井進は在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖だったろう、との見解を示している。
九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、このうち伊佐為賢(平為賢)が肥前国鹿島藤津荘に土着し肥前伊佐氏となった。薩摩平氏はその後裔と称している。
<なお、>『大鏡』の記述として、九州の武士だけでなく、大宰府の文官にも武器を持たせて戦わせたとある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
〇二回目の活躍(元寇)
「クビライに仕えた王惲<は、日本の>武士の様子を「騎兵は結束す」と記している。・・・<すなわち、>陸戦においては・・・武士たち<は>騎兵<が>密集した一団となって集団で戦闘を行<った。>・・・
八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である『八幡愚童訓』に・・・文永の役<(1274年)の時、>・・・上陸し馬に乗り旗を揚げて攻めかかって来た元軍<、とか、その>・・・鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛・・・という記述が出て来る。>・・・
<ちなみに、>『蒙古襲来絵詞』絵八の麁原<(そはら)>に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥・劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。なお、室町時代に日朝が著した日蓮の『立正安国論』の注釈書『安国論私抄』(・・・1478年擱筆)第一巻「蒙古詞事」(の「文永十一年蒙古責日本之地事」)には「或記云」として、文永の役での日本軍の捕虜となった元兵の証言によれば、元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている。・・・
南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠<(はなはだ)>、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」と述べ、また元朝の文人・呉莱は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
⇒敗北の言い訳のための誇張はあるにせよ、日本の兵士が、かつてに比し、格段に強くなっている、との証言は重要だ。(太田)
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢<(ことごと)>く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」と述べ、日本征服は無益としている。・・・
今谷明<(注12)>は、日本の勝因として、その理由を強固な組織としての封建制とそれに基づく挙国一致体制の完備によるという見解を出している。
(注12)1942年~。京大経卒、大蔵省、経済企画庁を経て京大文博士、国際日本文化研究センター教授、帝京大文特任教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%B0%B7%E6%98%8E
今谷明は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトのマムルーク朝や神聖ローマ帝国と日本の3つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘している。今谷はマムルーク朝についてイクター制研究で著名な佐藤次高<(注13)>の説明を引用し、マムルークが主君であるスルターンから与えられる地租(ハラージュ)等の租税徴収権とその当該地であるイクターを「地頭職と読み換えれば、日本の御家人制にそっくりの構造が浮かび上がる」と述べ、加えてスルターンとの強い忠誠心やマムルーク相互の間での強い仲間意識など日本の御家人制との共通点を指摘している。
(注13)1942~2011年。東大文(東洋史)卒、同大博士。東大、お茶代を経て、東大文教授、早大文教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%AC%A1%E9%AB%98
また、マムルーク軍団の源流としてアラブ征服時代のアラブと征服地域の非アラブとの間に行われたパトロン(保護者) – クライアント(被保護者)の関係、「ワラー関係」についての清水和裕<(注14)>の研究にも触れ、清水の「主人と従属者の間に結ばれる、法的に保証された個人的紐帯であった」という説明から、これらも「日本の武士団の勃興とその封建制的関係に極めて似通った軍団の性格がみられるということになろう」と評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
(注14)九大、京大、神戸大を経て九大人文科学研究院歴史学部門教授。東大博士。「アッバース朝のカリフ体制を主たる研究対象として、政治・軍事・経済・社会の各側面のあり方とその変容を、アラビア語古典を用いて、明らかにしている。」
https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K003116
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138205/1/JOR_65_4_687.pdf
元寇についての私の見解を申し述べる。
一、今谷説批判
蒙古軍が神聖ローマ帝国を制圧できなかったのは、基本的にはオゴタイ・ハーンの死去に伴う王子達のクリルタイ出席のためにウィーン侵攻を中止した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BE%B5%E6%94%BB
ために制圧を試みるところまで至らなかっただけなので、今谷説は、神聖ローマ帝国に関してはそもそも前提が間違っているし、また、同説は、イクター制は世襲ではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF
ので、封建制特有の一所懸命の土地・・在地領主が本貫とした土地であり、命をかけて最後まで守り抜く覚悟を持った土地をい<い、>その土地の地名を名字として名乗ることが多い。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%89%80%E6%87%B8%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%9C%B0
とは無縁であるので、マムルーク朝に関しては成り立たないし、更に、同説は、蒙古軍がベトナムの陳朝にも敗れている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%97%A4%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1288%E5%B9%B4)
にもかかわらずにベトナムには言及していない点でも不誠実であり、日本に関してはともかく、それ以外については、シロウトの思い付きのレベルにすら達していない。
ちなみに、陳朝においては、「軍隊には禁軍とそれぞれの路に配備された路軍で構成され、平野部の路軍は正兵(チンピン)、山岳地帯の路軍は藩兵(フィエンピン)と呼ばれ、村落には郷兵(フォンピン、民兵)が存在した。徴兵は少数精鋭を選抜する方針に拠って実施され、平時の兵士は農耕に従事していた。元への抗戦においては彼ら農民兵によるゲリラ戦と清野(物資の隠蔽)による抵抗が、勝利の原動力となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%9C%9D
、と、要は、支那的な律令制軍制が採られていたところであり、封建制的なものとは無縁だった。
以上を踏まえて、直感的に言えば、地勢がモンゴルに似ている戦域や都市攻めで決着がつく所や弱兵の南宋相手では勝てたけれど、神聖ローマ帝国とは本格的に相まみえることがなかったし、陳朝には、複雑な地勢におけるゲリラ戦に敗れ、マムルーク朝には、類似の戦法を採る純粋プロ軍隊に敗れ、日本には、日本側が封建制下の武士達であったことに加え、モンゴル・高麗・旧金・(旧)南宋の各兵の寄せ集めであったことはさておき、モンゴル兵に関しても、少数の馬も持ち込んだものの、騎兵中心の本来の戦法を採れなかったから敗れた、といったところか。
二、日本の「優しさ」
そんなことより、元寇に対する日本の対応に関して特筆すべきは、その「優しさ」だ。
下掲が、勝った日本の対応だ。↓
「日本軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としたという。
他方、<私は、モンゴル人を除き、こちらの方が正しいと思っているが、>『高麗史』では命を助けられた捕虜は、工匠および農事に知識のある者となっている。
この時に処刑された者や奴隷とされた者の他に、すぐには処分の沙汰を下されず、各々に預けられた捕虜も多数おり、捕虜の処分はその後も継続して行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 前掲 (太田)
それに対して、モンゴルの方は、勝った場合に以下のような「残虐」な対応を行うのが通例だった。↓
「金朝への征服事業 当時5000万人ほどいた<金>の人口が、わずか30年後に行われた調査によれば約900万人ほどになってしまったという。南部に逃げた人たちも大勢いるが・・・。・・・
ホラズム・シャー朝・・・の征服<では、>モンゴル軍は各地で敵軍を破り、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、メルブ(その後二度と復興しなかった百万都市)、バーミヤーンといった古代からの大都市をことごとく破壊、住民を虐殺した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3 (注15)
(注15)但し、南宋征服にあたっては、「元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなどして南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。1274年、旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると、防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、1276年に首都臨安(杭州)が無血開城する。恭帝をはじめとした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の残党を1279年の崖山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げ<ることにした。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
のは、金征服の際に北支を荒廃させてしまい、冨の継続的収奪ができなくなったことに懲りたためだったに違いない。
「<中央アジアの>メルブ<は、>・・・、1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を一人残らず皆殺しにした。メルブの町は廃墟と化し、二度と復興しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96%E9%81%BA%E8%B7%A1
「1258年にチンギス・ハーンの孫にあたるフレグ率いるモンゴル軍・・・によって攻略された・・・アッバース朝の・・・バグダードは<、>徹底的に破壊され、市内に存在していた知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた。・・・兵士の死者50,000人・・・バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。・・・市民の死者20万人–80万人-200万人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
もちろん、元寇の際も、モンゴルは「残虐」極まりなかった。↓
「文永の役の<時、>・・・元軍は<対馬>上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、<防禦目的で>捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた・・・。
<また、>元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している。・・・
<壱岐も松浦沿岸>の惨状<も>・・・対馬のようであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 前掲
蛇足ながら、神聖ローマ帝国ならぬ、西欧諸侯等も「残虐」だった。↓
「第1回十字軍<は、>・・・1099年・・・<にエルサレム>城内に入<り、>・・・市民の虐殺を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒はシナゴーグに集まったが、十字軍は入り口を塞ぎ火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はソロモン王の神殿跡(現在のアル=アクサー・モスク)に逃れたが、十字軍の軍勢は執拗に虐殺を行いそのほとんどを殺害している。著者不明の十字軍の従軍記「ゲスタ・フランコルム」によると虐殺の結果、「血がひざの高さに達するほどになった」と書いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
三、日本の自制
「文永の役以後に元軍の根拠地と考えられた高麗に遠征を行って日本侵攻の拠点を制圧しようとした・・・鎌倉幕府の高麗遠征計画<があった>。
文永の役で元軍を撃退したものの、鎌倉幕府では再度の侵攻を予想して、元軍が行動を起こす前に日本侵攻軍が拠点とするであろう高麗を先に制圧することで遠征を阻止しようとする構想<である>。
1275年・・・11月に金沢実政が異国征伐のために鎮西(九州)に下向したとされ、翌月には安芸国の守護である武田信時に異国征伐に関する関東御教書が出され、明年3月を目途に異国征伐を行うこと、鎮西で水手が不足した場合には山陰・山陽・南海各道から調達するため、御家人・本所(公家領・寺社領)を問わずに水手を募って博多への派遣準備を進めるようにという内容であった(・・・1275年<の>・・・執権北条時宗・連署北条義政関東御教書案・・・)。だが、この時は本来鎌倉幕府の支配が及ばない筈の本所にも動員がかけられたことに対する抵抗の動きや同時に行われていた博多湾での石塁構築との二重負担の問題があり、実施されることなく終わった。
その後、弘安の役が発生し、1281年・・・8月には再度高麗遠征論が唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)にも協力を要請するものであったが、これも実施されることなく終わり、以後幕府内の政争などもあって中断されたまま終わった。
なお、この出兵の背景には二度の元寇で恩賞が貰えなかった御家人たちに制圧した高麗の土地を与えようとしたとする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%81%A0%E5%BE%81%E8%A8%88%E7%94%BB
⇒後ろに元が控えていることもあり、高麗の一部なりともの奪取すら困難だったとしても、土地による恩賞に代わるものとして、高麗の金品や技術者の奪取をヒットアンドラン的に行うことは十分可能だったはずであり、高麗遠征を結局行わなかったのは、北条得宗家伝統の人間主義に基づく自制(コラム#11320)が働いた、というのが私の見方だ。
しかし、これを行わなかったことが、結果的に鎌倉幕府の没落をもたらすこととなった。
時の後宇多天皇は、このような鎌倉幕府の対応に不満であったに違いない、という話を後述する。(太田)
〇三回目の活躍(朝鮮出兵)
過去コラム(コラム#9203及びコラム#11274)を参照されたい。
秀吉は、自身の出自は非武士だったけれど、勤務先も妻も武士の家柄であり、武士のメンタリティを人並み以上に身に着けようとし、身に着けた、と見るべきだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E4%B9%8B%E7%B6%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E5%8B%9D
〇四回目の活躍(幕末~大東亜戦争「敗戦」まで)
兵農分離によって、武士は、プロ軍人兼行政官になったわけだが、「給与」が基本的に米で支給されたことから、自分の主君の領地の農地に対する彼らの思い入れは続き、その限りにおいて、観念的には封建制が維持された、とは言えそうだ。↓
「日本の中世期においては、・・・農場主が小作人の子弟を郎党として戦時の体制を構成していたため、兵と農は不離あるいは同義語に近い。また治安維持を担う政府が形骸化していたために流通業者も武装しなければならず、農業系武士の代表が鎌倉幕府の御家人たちであるならば、商業系武士の代表としては鉱山経営者であり運輸業者であったといわれる楠木正成等が挙げられる。
つまり武装を必要としない江戸時代の安定を見るまでは、経済的に許される範囲において、あらゆる階層が武装していたと考えるほうがよい。
その武装しているあらゆる階層の中から、大名や国人から軍役を課される階層が出現してその階層が身分として固定化した。彼らは軍役を担う代わりに徴税を免れるなどの特権を有した。彼らの多くは惣村経営の主導者層であり、「侍衆」と呼ばれる。軍役は侍のつとめであって百姓のつとめではない、ということを中世的兵農分離という。
継続的に戦闘が行われる戦国期においては、戦国大名はいつでも、迅速に、また長期的に政略的・軍事的要地に精兵を動員できるようにしたいが、この中世的兵農分離下では、召集するのに時間が掛かった。また、彼らの郎党には半士半農の者が多く、農繁期の動員に対して不満をもたれるといった問題もあった。・・・
そのような中、応仁の乱前後の社会情勢の中で生まれた足軽は傭兵としての側面を持ち、農業・商業という生産物ではなく、戦闘力の提供層を形成した。・・・また、類似した存在として戦闘ではなく労働力の提供層とされた中間や小物なども存在していた。彼らのような存在を武家奉公人という。その中には主従意識の強い日常的に雇われている奉公人と、戦時だけ雇われる下々奉公人とが存在した。彼らは軍の構成の58%を占めておりその多くが金銭や米で雇われていた。
戦国末期になると、農業生産力が向上して足軽などの非生産者にも食料が行き渡るようになり、商業が発展して金銭に余裕の生まれた戦国大名の一部には、長期的に兵力を保持する必要から、足軽を継続して雇用したり、家臣団に組み入れる勢力も現れた。加えて村落に居住する侍衆を直接的な農業経営から分離して城下に集めて専任の職業軍人とすれば、召集に必要な時間を短縮できて農繁期出兵の問題も解決できた。さらに兵の錬度、武具の質も上げることができた。一方、大名は領国の中央集権化を図る為に村落自身が武力によって相論を解決することを禁じた。加えて身分制度を整える必要があった。その一環として刀狩があり、百姓から帯刀権を剥奪した。
ただし国人・地侍等の既得権授益層の解体を意味するため、最終的に徹底されるのは、豊臣秀吉が覇権を確立し惣無事令<(注16)>を発布した後である。また、「治安の回復(=安定政権の樹立・天下統一)」の理念を前提としている。
(注16)「秀吉は1585年・・・関白政権の樹立と同時に、戦国大名間の領土紛争の豊臣裁判権による平和的解決を掲げて、すべての戦国の戦争を私戦として禁止する政策を「惣無事の儀」とよんで、九州をはじめとして関東・東北から朝鮮にまで及ぼした。この惣無事令による領土裁定は、「当知行(とうちぎょう)」つまり中世の領有関係の到達点を基準とし、「国分け」とよばれた。これを受諾して上洛(じょうらく)した領主は豊臣大名として領土の知行を確定され、違反した領主は豊臣軍による「征伐」の制裁を受けたが、滅ぼされたのは関東の北条氏だけであった。
また、この私戦禁止の基調は、農民レベルの山・野・水争いなど、村どうしの喧嘩の規制にも及ぼされた。すなわち、中世社会の課題解決の基本的な方式とされた、村落と農民の武力行使や報復行為、つまり自力・自検断の慣行の総体に及ぶ規制が、「喧嘩停止(ちょうじ)」令を通じて、政権成立の当初から一貫して展開され、違反する村には「成敗(せいばい)」の制裁が加えられた。さらに、海上での八幡(ばはん)・海賊行為を規制した豊臣の「海賊停止」令や、百姓の武装権を凍結する「刀狩」令も、これら一連の惣無事の政策の一環であり、豊臣平和令ともいうべき惣無事令の原則は徳川政権にも継承され、近世社会を通じて長く維持された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4-848052
また兵農分離による家臣の城下への強制移住は、楽市楽座とともに、城下町発展の大きな要因となる。具体的な政策として惣無事令や刀狩、海賊停止令が施行された。これらは、土地の支配関係を明らかにし、武士以外の武装権を剥奪し、海上においては海賊勢力を解体して大名の水軍武士と漁民に分離するものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E8%BE%B2%E5%88%86%E9%9B%A2
「畿内・近国では、生産諸力の先進性を基礎とし、長百姓(おとなびゃくしょう)、有力名主(みょうしゅ)、地侍(じざむらい)などとよばれる小領主層の手作(てづくり)経営地が縮小し、それにかわって、平(ひら)百姓の自立化に基づく請作経営地が広まった。これにより、小領主層は、事実上生産過程から遊離し、小農生産に寄生するようになる(加地子(かじし)領主化)。豊臣秀吉はこれら小領主層の農民支配権を奪い、彼らを家臣団に組み入れ、武士身分として確定した。この方式を秀吉は太閤検地の全国的施行のなかで推し進めた。これに対し、九州や東北では、在地領主層が農民支配の特権を奪われることに反対し、配下の農民まで率いて一揆を起こすこともあった。秀吉はこれを鎮圧するとともに、1588年・・・刀狩令を出し、農民の武器所持を禁じ、農民は農業に専念すべきものとした。かくて武士と農工商身分は分離され、身分間の移動は禁止されることとなった。それとともに秀吉は、国内統一戦争と朝鮮侵略を通じ、長期長途の戦いに耐えうる兵農分離した武士団の創出を諸大名の領国に強制した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E8%BE%B2%E5%88%86%E9%9B%A2-129004
ところが、豊臣秀吉が国替を行い始め、これを徳川幕府が大々的に行ったことで、武士と農地との関係が断ち切られ、疑似封建制は、従って、一所懸命意識は、日本の大部分で消滅した。↓
「国替<とは、>・・・江戸時代に行われた大名の配置替えのこと。転封(てんぽう)または移封(いほう)ともいう。豊臣秀吉のときに始まり、江戸幕府の初期3代将軍によって強行された。まず徳川家康は、関ヶ原の戦いの戦後処理を通じて、東海・東山地方に配置されていた外様(とざま)大名を中国・四国・九州などの辺境地帯に転封する一方、大坂の陣後は、大坂およびその周辺諸国に譜代(ふだい)大名を集中配置したが、2代秀忠は、さらに譜代大名の大坂周辺集中配置と東北進出を積極化し、3代家光は西国を中心に転封を強行し、九州には譜代大名、中国・四国には徳川一門(親藩)を転封・配置した。こうして徳川氏を中心とする大名配置=領国体制ができあがった。寛永期(1624~44)を境に、外様大名の転封は減少したが、譜代大名は幕政執行の立場から、その後も盛んに転封が行われた。転封は改易とともに江戸幕府の大名統制の基本をなし、それによって、兵農分離が促進され、幕藩支配体制が確立した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%9B%BF-55701
⇒元和偃武
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6
により、国内で軍事力を行使する機会がなくなり、また、幕末期に至るまで、外国からの脅威が顕在化することもなかったので、幕臣を中心に、日本の大部分の武士は、一所懸命意識を失ったところの、プロ軍人兼行政官、から、単なる行政官、へと堕してしまった。
その帰結であると同時に原因にもなったのが、昌平坂学問所における、幕臣の子弟に対する行政官教育だ。
しかし、例外的に一所懸命意識を失うことなく、プロ軍人兼行政官、たる武士であり続けたケースがあった。
そのいずれのケースにも郷士の存在がからんでいる。
その筆頭が薩摩藩の武士だ。↓
「・・・江戸時代の日本<では、>・・・兵農分離で武士層と農民層が明確に分かれていた。武士層は人口全体の7〜10%で、多くが城下町に住んでいた。
ところが、薩摩藩の武士階級は、人口比にして何と30%近く。他藩に比べるとはるかに高い数値である。これは藩内に「徳川とは対等」という独立意識があり、「何が何でも領土を守る」という意識が働いていたからだと考えられる。いざというときに対処できるよう、常に大兵力の維持に努めていたのだ。・・・
領内の村々に自給自足の「外城士(とじょうし)」と呼ばれる郷士身分を大量に配置した。
彼らは家禄がなくても年貢免除や苗字帯刀などの武士特権を与えられたので、藩主に対する忠誠心も厚かった。彼らは武士であることを誇りに思い、武士としての自覚から日々の鍛錬も欠かさなかった。剣術修行にも熱心で、平和が続いたことで軟弱化した他藩の武士とは対照的だった。・・・」
https://toyokeizai.net/articles/-/237286
「薩摩郷士(薩摩藩)<について。>
旧族居付大名であるため、外城制の存在などに見られるように中世的であり、城下集住・俸禄制をとる大多数の藩とは異なり、戦国時代における国人、在地武士、そして島津氏の九州統一戦で傘下に入った武士等が郷士として家臣団に組み込まれた。そのため、外城士とも呼ぶ。参勤交代、軍役等、果たす役目は、一般の藩士と同じである。
江戸時代初期は、鹿児島城下に住む武士は「鹿児島衆中」、外城士は所属する郷によって「出水衆中」や「国分衆中」と呼ばれ、大した区別はされておらず、大島代官附役などに郷士が任命されることも多かった。しかし、中期以降(特に島津重豪の藩政改革以降)、「鹿児島衆中」は「城下士」と呼ばれるようになり、「城下士」と「郷士」の間には厳格な身分差意識が誕生したといわれる。但し、その後も城下士との間に養子縁組や移籍による身分の移動や通婚関係はあり、これを利用して城下士になる者も多い。また、城下士が分家後に鹿児島から他郷へ移住し、郷士となる例も多かった。逆に、一族から藩主の側室を輩出したことにより、郷士から城下士に格上げされた例もあり、中には子孫に家老を輩出した家もある。
更に、郷士内部でも身分の上下があり、上中級郷士は麓と呼ばれる侍町に住み(麓郷士。郷内の他村に住む下級の郷士は在村郷士と呼ばれた)、事実上地方行政を取り仕切った。また、上級郷士ともなると多くの農地山林を抱え、さらに薩摩藩では武士同士の石高の売買が出来たために、持高制限一杯まで石高を買い集める、さらには分家を立てて高を分配することで持高制限を実質的に回避するなどして、身分は低くとも城下士以上に豊かな者すら存在した。しかし、無高の郷士も多かった(無高郷士)。郷士まで含めての武士の総数は、薩摩藩では人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。
明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったと言われる。その後、城下士出身者の多くは郷里・鹿児島を離れ、藩閥の力で官僚や軍人として立身を目指し、一方の郷士出身者は警察で派閥を形成した。また、中央に出られない者は地元で公務員、教員、警察官や消防吏員の道に進むものが多かった。1945年の敗戦によりGHQのてこ入れがあるまで、鹿児島県政のこの政治構造は変わらなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB
⇒この薩摩藩において、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想が生き続け、島津斉彬コンセンサスへとバトンタッチしたおかげで、日本、ひいてはアジアが救われることになったわけだ。
(日蓮宗との関りについては後述。)
なお、主要な郷士の例として、薩摩郷士(前述)以外に、十津川郷士(既述)、八王子千人同心のほか、水戸郷士、原方衆(米沢藩)、阿波郷士(徳島藩)、土佐郷士(土佐藩)、肥後郷士(熊本藩)、がある(上掲)が、薩摩藩のほか、これらの諸藩のうち、水戸藩、土佐藩、(薩長土肥の肥前藩ではないが)肥後藩、が維新においてに重要な役割を演じたのは偶然ではあるまい。
で、「敗戦」まで、日本を指導し続けたのは、薩摩武士を中心とする武士達ないしその子供達であって、彼らの薫陶を受け、その使命感を叩きこまれ、人となったところの、陸軍幼年学校/陸軍士官学校出身者を中心とする軍人達が、日本の第一線を担い、杉山構想を生み出し、厩戸皇子以来の日本の歴史を総括する形でその使命を完遂したことは、太田コラム読者の皆さん、ご承知の通りだ。(太田)
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(2)補論:冠位制
「推古天皇<は、>・・・(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)である、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87
という、破天荒なことを、平穏裡に行うためには、相当な見識を持ち、説得のための理論と周到な根回しができる人物がいたはずだが、その人物は厩戸皇子であった、と考えるのが自然だろう。
(というか、額田部皇女が、仮にそれだけの見識を持っていたとしても、自分で説得し根回しをするのではぶち壊しだっただろう。)
皇子は、もちろん『史記』を読んでいたはずだ。↓
「『史記』の伝来時期は正確には判明していないようであるが、・・・岡田正之<(注17)>『近江奈良朝の漢文學』p26・p62(養徳社、1946年)<のように、>・・・聖徳太子の十七条憲法の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98
(注17)1864~1927年。富山藩士の子で「漢文学者、教育者。・・・帝国大学に入学。卒業後は陸軍大学校教授、学習院教授、東京帝国大学教授などを勤める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B9%8B
ということは、皇子は、史記に「続く」支那歴代王朝の公史群も読んでいたはずであり、『三国志』、具体的には、その中の「魏志倭人伝」、正しくは、そ「の中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
も当然読んでいたと思われるのであり、女性が権威を担い、彼女を補佐する男性が権力を担う、という政治体制の前例が日本にある、という理論を、その「典拠」を引用しつつ、援用して、額田部皇女や蘇我馬子らを説得、根回ししたのではなかろうか。
(もとより、皇子が、下掲のような史実も知っていた可能性もある。↓
「古墳・・・時代、すべて聖俗の首長の組合わせで一代の首長権なり王権が構成されていたわけではありませんが島の山古墳に見られるように、2人の首長が聖俗の首長権を分担して担当していたと考える例も決して少なくありません。そのことから、卑弥呼のいた3世紀の中ごろから4世紀代には、ヒメ・ヒコ制は決して特殊な制度ではなかったと考えていいのではないかと思います。」
https://www.city.sakai.lg.jp/smph/shisei/jinken/danjokyodosankaku/kaigi2009/hokoku2009/bunkakai/kodaijosei.html
但し、仮にそうだったとしても、支那製の「典拠」を持ち出すことで、迫力が更に増したことだろう。)
なお、この私の説と同じ説を示唆している記述を見つけた。↓
「卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの「鬼道」の記述<と、>・・・弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もあ<り、>・・・ 後の推古天皇と聖徳太子との関係が例として挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%81%93
以上も踏まえ、冠位制の導入は軍事政策であった、と、私は考えるに至っている。
この関連で、日本の古代においては、女性の地位が高く、廷臣としても女性が活躍していた、ということも、頭に入れておいて欲しい。
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[女官]
「「記紀」の伝承によると、古代のヤマト王権の大王(天皇)とその妃(皇后)は別々な場所にお墓を造ることが一般的です。たとえば仁徳さんの皇后、磐之媛命は奈良県で、大阪と奈良に分かれてお墓を造っています。天皇・皇后のカップルとして合葬されたのは、8世紀の初め、天武陵に持統が追葬されたのが最初です。」
https://www.city.sakai.lg.jp/smph/shisei/jinken/danjokyodosankaku/kaigi2009/hokoku2009/bunkakai/kodaijosei.html
⇒上↑と下↓との間に若干の齟齬があるが・・。(太田)
「『延喜式』によると、継体天皇の妃の手白香皇女<(たしらかのひめみこ)>のお墓は、奈良盆地の東南部の、恐らく卑弥呼の墓ではないかと考えられる箸墓古墳に始まる、初期(3から4世紀)の倭国王墓が累々と営まれているオオヤマト古墳群中にあったと考えられます。その理由はよくわかりませんが、私は、継体の王位継承にとって手白香との婚姻が決定的に重要であったと思います。手白香の存在こそが継体の王位継承を担保するわけで彼女がヤマトの王権の血を受け継ぐ人物であることを示すには、その墓の初期の大王墓が営まれた地につくるのが効果的であったからだと思います。
実は古墳時代の倭人社会では、基本的には夫婦は合葬しません。継体は何人かお妃がいますが、継体を支えた尾張の豪族の娘さんの目子媛との間に産まれたのが継体の後を継いだ安閑と宣化。しかしお父さんが継体で、お母さんが尾張の豪族の娘ですから、この2人もそれ以前のヤマト王権の王統の血を受け継いでいません。だから継体に王位継承上の問題があったとすると、安閑と宣化にも同じ問題がある。それをカバーするために、安閑は春日山田皇女、宣化は橘仲皇女、いずれもそれぞれ仁賢の娘さんと婚姻関係を結んでいます。ここでもまた入り婿の形で王統を受け継いでいるわけです。私が注意したいのは、安閑は春日山田皇女<(かすがのやまだのひめみこと)>、宣化は橘仲皇女<(たちばなのなかつひめみこ)>と合葬されたことが『日本書紀』に書かれていることです。当時の倭人の間では夫婦合葬の風習はないにもかかわらずこの2代は夫婦合葬をしています。これは安閑、宣化がヤマト王権の王統の血を受け継いでいないことと関係があって、むしろ当時の人々の意識から言えば春日山田皇女のお墓に安関が、橘仲皇女のお墓に宣化が合葬されたというのが正しいのではではないかと思います。・・・
西日本では6世紀になると女一人を葬る古墳がなくなります。5世紀に組織的な武力活動が行われるようになって、女性の地位が下がったのだろうと考えられます。
⇒私自身は、厩戸皇子の、これから述べようとしている、軍事政策の影響ではないか、と思っている。(太田)
その後は9世紀です。完全に男性上位の社会ができ上がっている中国の律令制度を取り入れて、日本も律令体制をとり、その中核に据えたのが天皇制です。天皇=神ですから、清らかさが重視され、穢れへの忌避が広まっていく。その中で女性が、血の穢れということで排除される。それから初期の仏教です。女性は成仏できない存在とされました。そういう通念が社会に浸透していくのが大体9世紀頃。それでもまだ政治の世界で活躍する女性たちがいましたが、それも薬子の変以降、表舞台に立たなくなり、女性が天皇の位につくことも途絶え、奥に引っ込んでしまいました。
⇒私自身は、復活天智朝の、武家/封建制創出政策の影響ではないか、と思っている。(太田)
平安時代には、土地の所有権はあったので、女荘園領主がいました。親の財産権、財産相続は男女均等で、子どもの中で一番発言権が大きいのは男であれ、女であれ、一番上の子でした。
鎌倉時代以降、武家政権になって女性の地位がまた下がります。特に14世紀の戦国時代に、神も仏もないという混乱の時代になると、聖なるものの権威が落ちることと一緒に女性も落ちていきます。そのころから祀りの場から徐々に女性が排除されていく。」
https://www.city.sakai.lg.jp/smph/shisei/jinken/danjokyodosankaku/kaigi2009/hokoku2009/bunkakai/kodaijosei.html 前掲
「日本の古代女官(にょかん)は、隋唐帝国やチャングムの時代の朝鮮王朝の後宮女官たちとは違って、皇帝や国王に隷属した側妾候補ではなかったということである。・・・日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部だった。日本に律令が導入されて国家の形態がととのえられた7世紀末から8世紀にかけては、女官抜きには、行政運営も天皇の生活も成り立たないほど、国家のシステムに深く組み込まれていたのである・・・
⇒反証がない限り、私は、律令制が(一時的に)導入されるより前から、そうだった、と見ている。(太田)
日本の後宮は<支那>のような閉ざされた空間ではなく、男子禁制の女性だけの空間でもなかった。・・・男女の官人の共同労働がごくあたりまえだった。・・・<支那>や朝鮮半島の王朝は宦官(去勢された男性)を必要としたが、日本は導入しなかった。もともと男女がともに働いていたため、採用する理由がなかったのである。また、唐では、宦官と女官の関係は、共労関係ではなく、監督する側(宦官)と、される側(女官)という関係だったとされる。しかし日本では、令制前の遺制によって男女共労が温存されただけではなく、女官が男官を指示・監理する仕組みも存在した。これらは、<支那>とは異なるわが国独自のあり方として注目されてよいだろう・・・
(天武朝に)女性の勤務評定(考選)を男官と同様にすべしという規定が打ち出されていたことは、律令官僚機構構築にあたっての女性の位置づけと編成原理を考えるうえで、見過ごすことのできない大きな意味をもつ・・・
低い門地の出身でありながらキャリアを積み、貴族官僚の域に達した女官たちの活躍・・・。・・・
女官も恋をし、結婚する――というと、漢代史や唐代史を専門とする研究者に驚かれることが多い。『そんなバカな』『姦通というのではないか?』『お咎めは?』というリアクションには、とまどった。なかには、『女官は、えっと、その、天皇のお手つきではないのですか?』などと、少し気恥ずかしげに問われる場合もあり、次第に、結婚できるということ自体が、わが国の女官の大きな特徴であり、<そ>の根底には、大王(天皇)に性的に従属しない存在としての女官の特質が横たわるのだと確信を深めたものである・・・
天皇の政務のあり方や後宮の変容に伴い、平安時代初期には皇后をトップにいただく後宮のヒエラルキーが形作られ、女官もそのなかに組み込まれていった。・・・天皇の周辺に『女房』が立ち現れる。律令女官制度の変容の先に、紫式部たちに代表される女房の時代が開かれるのである。平安時代の女房は、大きく分けて、天皇に仕える『上(うえ)の女房』(=『内(うち)の女房』)、女御など天皇のキサキに仕える『キサキの女房』、貴族の家に仕える『家の女房』に分類される」。「平安中期の公卿に右大臣藤原実資がいる。彼の日記『小右記』には、中宮彰子と実資の取り次ぎをする女房が描かれている。この女房について、実資は『越後守為時女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ』と書く。為時の女とはつまり、紫式部である。このようなキサキと貴族との取り次ぎは、女房の大事な役割の一つだった」
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%AE%98%E5%83%9A-%E5%A5%B3%E5%AE%98%E3%81%AE%E5%87%BA%E4%B8%96%E3%83%BB%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%83%BB%E5%BC%95%E9%80%80-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E4%BC%8A%E9%9B%86%E9%99%A2-%E8%91%89%E5%AD%90/dp/4642057900
「官位<は、>・・・中略~天皇、親王(品階)以外の全支配集団構成員が授与の対象で、女性にも授与される。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000259204
⇒官位は、冠が男性だけに授けられたところの冠位(後述)とは恐らく違って、女性にも付与された(後述)。↓(太田)
例えば、「二位尼と称された平時子<は、>平清盛の正室(継室)、1166年に従二位に叙される<。>源倫子<は、>藤原道長の正室、1008年に従一位に叙される<。その他では、>藤原薬子<は、> 従三位尚侍(806年)<で、>薬子の変の当事者<。>藤原明子<は、>従一位(858年)<で>藤原良房娘、文徳天皇女御、清和天皇母<。>阿野廉子<は、>従三位(1331年)<で、> 後醍醐天皇の寵妃<、>後村上天皇の母<、>三位局と称される」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1290528547
⇒ところが、どうやら、誰も、冠位が女性にも付与されたかどうか、検証した(できた)者はいないようだ。↓(太田)
「日本古代史に冠位十二階の制というものがあり、「個人」に官位を与えた、と一般的には説明されている。
では、その「個人」に女性は含まれていたのかという素朴な疑問が生じるが、官職から女性が排除されたのは当然の前提としているかのように、教科書ではその説明がない。」
https://books.google.co.jp/books?id=xF1xDgAAQBAJ&pg=PA167&lpg=PA167&dq=%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%9B%E5%A5%B3%E6%80%A7%EF%BC%9B%E5%AE%98%E4%BD%8D&source=bl&ots=M_19DG7uI9&sig=ACfU3U0GFWxxPpKO4S2cL-09me4-ik1tPg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwif-ZDm85TpAhWCQN4KHcuBC204ChDoATAGegQIChAB#v=onepage&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%9B%E5%A5%B3%E6%80%A7%EF%BC%9B%E5%AE%98%E4%BD%8D&f=false
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「603年に制定され、605年から648年まで行われた<(注18)ところの、>・・・冠位・・・<を>制定<した>目的は『日本書紀』等に記され<てい>ない<が、>よく説かれるのは二つで、一つは家柄にこだわらず貴族ではなくても有能な人間を確保する人材登用のため、もう一つは外交使節の威儀を整えるためである。・・・
(注18)645年の乙巳の変後に即位した孝徳天皇は、647年に「七色十三階の冠を制定した。」、648年「4月1日<に>古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。」、649年「2月<に>冠十九階を制定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
というのだから、冠位制は、648年に廃止されたわけではなく、官位制が導入されるまで、基本的に維持されたのだろう。
但し、648年に冠が色分けされなくなった可能性はある。
⇒これが通説だが、私見ではこの説は間違いだ。
軍事政策であったのであり、しかも、軍制改革を模索しつつ、その事前準備として行われた、というのが私の新説なのだ。(太田)
十二階制の位冠<(注19)>は絁(絹の布の一種)という布でできていて、二つの部分からなる。
(注19)冠は男性だけが付けた。それと一体をなしたのが髻(もとどり)だった。
[絹製の帽子のようなもの<だ。>]
他方、女性の髪形は、(冠なしの)頭上一髻(ずじょういっきつ/ずじょういっけい)だった。
いずれも、支那由来である。
https://relax-job.com/more/34220
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%86%A0 ([]内)
「髻<とは、>・・・髪を頭上に束ねたもの,またはその部分をいう。元来,本取の意で,たぶさともいう。古くは<支那>,東北部に住した女真族の女性の結髪。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%BB-142562
ちなみに、それまでの男性の髪型は角髪(みずら)だった。「<支那>の影響で成人が冠をかぶるようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。・・・
男性でも角髪に櫛を挿していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA
本体は袋状の帽子で、その周りに数センチか十数センチの縁がつく。飾りを付けることもある。冠には位によって異なる色が定められたが、『日本書紀』等の諸史料は何が何色に対応するのかを示さない。・・・
⇒当時の女真族も男性は辮髪であったのかもしれないが、女性は髻(頭上一髻)だったわけだ。
で、厩戸皇子は、当時の日本が男女平等だったことから、廷臣達に男女を問わず髪型を髻にすることを指示し、その上で、しかし、男性たる廷臣達にだけ冠をつけさせ、冠位を授けた、と、私は見ている。
(後の位階制にはこのタイプの冠は引き継がれなかったが髻という髪型は引き継がれ、この髪型でなければきちんと固定できないタイプの冠(後出)が男性には指定されることになる。)
どうして、男性だけにそんなことをしたのか。
かつては、氏族と氏族の個人と個人のつながりでもって、国軍と天皇家軍が構成されたが、それが事実上解体されてしまったことから、軍勢を集め、それを軍に編成するためには、各級指揮官等が必要になるが、その際、冠の色が階級章の役割を果たし、編成が容易にできるようになり、各級指揮官等が死傷して欠けた場合に補充するのも容易になるから、と見るわけだ。
(男性たる廷臣達には全員武官を兼ねることを申し渡すことと共に、戦時であっても兜はかぶりっぱなしではなく、着脱するところ、脱いだ時は冠にかぶりかえることを義務付けること、が前提であった、と。)
蛇足だが、冠位は13~19であったところ、欧米の平均的な士官の階級は(称号である元帥、と、准士官である准尉、を入れて)12だ。(元帥、大将、中将、少将、准将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、准尉。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E3%81%AE%E9%9A%8E%E7%B4%9A
なお、どうして武官職に就いている者だけでなく、男性貴族全員に冠位を与え、同じ服制にしたかだが、彼ら全員に平素から、いつでも武官として軍務に就く心構えを持たせるためだろう。
ちなみに、我々のイメージにある冠のプロトタイプ出現は8世紀中頃だが、「武官の冠は纓<(えい)>を内巻きにして纓挟(えばさみ)という木製黒漆塗りの切れ込みを入れた木片で留める巻纓冠(けんえいかん)・・・天皇以下、文官の冠は纓をそのまま垂らした垂纓冠」と区別され、かつ、「武官のみ・・・老懸(「緌」とも。おいかけ)という馬の毛をブラシのように束ねて扇形に開いた用途不明の飾り」をつけ、髻だけでも冠は或る程度落ちないわけだが、この「老懸には紐がついており、<念には念を入れ、>冠が落ちないように固定する役目もあった」ところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%86%A0
「位階制度は、本来は能力によって位階を位置付け、その位階と能力に見合った官職に就けることで官職の世襲を妨げることを大きな目的とした。しかし、蔭位の制を設けるなど世襲制を許す条件を当初から含んでいた。そのため、平安時代の初期には人材登用制度としての位階制は形骸化して、一部の上流貴族に世襲的な官職の独占を許すに到った。また、成功(じょうごう)や年料給分(年給)などの半ば制度的な売官も盛んに行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8D%E9%9A%8E
ということから、「平安時代の初期」どころか、位階制は、天武朝によって導入された最初から、冠位制の換骨奪胎、形骸化、を意味した、というのが私の見解だ。
興味深いことに、武家、ひいては全武士が、(全貴族と同様、冠位制で導入された髻を維持しつつ、それに月代を加えた髪型にやがてなると共に、)位階制で導入された「文官」の服制を採用し、維持していくことになる。(太田)
冠位を与える形式的な授与者は天皇である。誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には厩戸皇子と蘇我馬子の二人であったと考えられている。・・・
蘇我の大臣は十二階の冠位を授からなかったと考えられている。馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった<からだ>。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった。・・・
冠や服の色で官吏の等級を表す思想はもと<支那>にはなく、後漢末に魏の武帝(曹操)が布でかぶりものを作り、その色を分けて貴賤を表したのをはじめとする。服色では、南北朝時代に北朝の北魏で定められた五等公服が五色の服色で等級を表したもの<だった。>・・・
高句麗・百済・新羅の官位は、人に授けて肩書きとする点、授けるときに生まれの貴賤が重視される点で、日本の冠位と似る。・・・朝鮮三国の官位の成立時期は明らかでないが、日本の冠位より前であることは確か<だ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E
⇒厩戸皇子は『三国志』を熟読していたに違いないのだから、当然、曹操の軍事政策も知っていて、どうやら、軍事政策とは関係がなかったようではあるが、かぶりものの色を違える、という発想を軍事に使えないか、と考えた可能性が大だと私は思う。
後に導入された官位制では、冠の色分けは行われず、他方、(天武朝での女性天皇「乱発」もこれあり(?)、)女性貴族にも官位が与えられたけれど、女性貴族とは違って、髻も冠も、男性貴族の間では維持され続け、貴族の間だけでなく、全ての武士の間でも、(月代を剃ること(注20)が付け加わった形で、)明治維新まで維持され続けることになるわけだ。(太田)
(注20)「平安時代、<男性貴族>が冠や烏帽子えぼしをかぶったとき、髪の生え際が見えないように額ぎわを半月形にそり上げ<る習慣があった。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E4%BB%A3-68579
「平安時代末期<から>行われ<始めたのが、月代を剃るという、>・・・兜による頭の蒸れ対策として戦の間だけ行われた習慣であり、日常に戻った時は総髪となった。戦国時代になると、さかやきが日常においても行われるようになった。・・・江戸時代になると、一定の風俗となった。・・・一般すなわち武家、平民の間で行われ、元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。蟄居や閉門の処分期間中や病気で床についている間はさかやきを剃らないものとされた。外出時もさかやきでない者は、公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなどであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%8B%E3%82%84%E3%81%8D
「曹操<は、>・・・農政において、他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時、・・・屯田(屯田制)と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、・・・軌道に乗せることに成功した。これによって潤沢な食料を抱えることになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになった。この屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残る理由の一つとなった。
また強制婚姻による兵雇制度の改革(屯田制と相まって、軍の盤石化に効果を上げた)、朝廷内の意思を統一するため三公を廃止し丞相と御史大夫の復活による権限の一元化、・・・軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを再編することを目的とした合併独立など<も行った>。・・・
曹操は勢力圏の境界付近に住む住民を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにするためでもある。後漢末・三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操は降伏させた烏桓<(うがん)>族を<支那>の内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。・・・
曹操は実戦においても用兵に通じ、優れた戦略家・軍略家であった。特に匈奴・烏桓・羌<(きょう)>などの遊牧騎馬民族との戦いでは無類の強さを発揮している。また、奇襲・伏兵を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できる確かな戦術理論を持っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
⇒曹操は軍制の中央集権化を行ったが、厩戸皇子は、曹操の屯田制そのものは、むしろ、封建制に近い、と、と受け止めたのではなかろうか。
また、「勢力圏の境界付近に住む住民を勢力圏のより内側に住まわせ」る、或いは、「降伏させた烏桓族を<支那>の内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた」から、蝦夷の勢力圏内への強制移住を図ると共に彼らをヤマト王権の兵士化する、というアイディアを思い付き、このアイディアが中大兄皇子らにも伝わるよう計らったのではないか。
そして、これらの考えを、遣隋使に支那の現地で、魏等の軍制を学ばせつつ隋の軍制も「盗ませ」ながら、かつ、支那兵学の勉強もさせながら、検証させたのではないだろうか。(太田)
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[褶(ひらみ)]
「<支那>の衣服制では〈褶〉は袴とともに着用する短い上衣を指すが,日本では,男女ともに下半身にまとった,裳(も)の一種をいう。・・・冠位十二階の服制の一環として制せられたものと思われる。・・・
男子の褶は袴(はかま)の上から腰にまとい、女子の褶は裙(くん)の上に着装した。『日本書紀』推古天皇13年(605)の条に「皇太子、諸王、諸臣に命じて褶を着(き)しむ」とあり、中宮寺の天寿国繍帳男子像の短いスカート状のものが褶にあたると考えられる。天武天皇11年(682)に「褶なせそ」とあり、一時廃せられたが、養老の衣服令(りょう)で、礼服に皇太子が深紫紗褶(ふかむらさきしゃのひらみ)、親王と諸王が深緑紗褶、諸臣が深縹(はなだ)紗褶、内親王と女王が浅緑褶、内命婦(ないみょうぶ)が浅縹褶を用いるとしている。平安時代以降、女子は礼服を着用する機会がなくなり、褶を「しびら」と称して女房装束の裳の上に重ねて着る場合もあった
https://kotobank.jp/word/%E8%A4%B6-121624
⇒制定の時期がズレており、しかも、女性貴族にも適用されたことから、褶は、冠位制の一環ではなく、推古天皇の発意によるものだと思われる。(太田)
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[1回目のティータイム]
「日本馬術は武士(一部では貴族もありましたが)という限られた身分階級のみに必要な技術(武術)であり、武士階級以外の商家・農家には馬術は流行しませんでした。この時点で、既に欧米諸国の官民で育まれた西洋馬術とは一線を隔てています。
馬上戦闘原形スタイルも大きく違う点もあります。日本馬術・西洋馬術共に、古来より1騎対1騎の「一騎討ちスタイル」が尊重された点は同様ですが、西洋は、現在の馬上槍試合競技・ジョスト(馬上槍試合)などに見られるように、長槍対決スタイル主流であったのに対し、日本は伝統競技・流鏑馬に見られるように、騎射(弓馬)対決スタイルが主流でした。」
http://farmhist.com/category4/entry27.html
「確かに数百・数千規模の騎馬隊が編成され、武士は合戦場まで騎乗で移動していたようですが、いざ決戦となると一部の将を除く大多数は下馬し、槍を手に「徒歩」で突撃していたのです。
戦場を乗馬のまま駆け巡っていたのは、乗馬技術に長けたものから選抜される伝令部隊、「母衣衆」だけで、馬は合戦場までの移動と、敗戦時に将らがいち早く逃れるための移動に利用されていただけでした。
移動方法に限らず、多くの文化や生活習慣は残念ながら戦争という、悲惨な出来事を機に発展・進化していきますが、戦場が極端に狭い日本においては馬は到底主力と呼べるものではなく、同時に海外で流行した戦闘用馬車も存在しませんでした。」
https://smartdrivemagazine.jp/useful/move2/
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2 「宗教」政策再訪
(1)始めに
学者が書いたものではないが、「唯物論」的なトンデモ議論を発見した。↓
「・・・なぜ百済は仏教を日本に伝えたのかと疑問を持つことが大事です。実は仏教というのは当時、最新の「技術体系」だったのです。仏教を広めるには寺院の建築や法具、お経、衣服などをつくり、僧侶も育成しなければならない。百済がそのような貴重なものをなぜわざわざ日本に教えてくれたのか。
当時の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が争っていました。百済は両国に激しく攻められていた。538年は新羅に侵攻されて、まさに国が存続の危機にあり、日本に兵士の支援を求めたのです。その見返りとして最先端の技術体系を教えた。ここまで踏み込むことで、仏教伝来の意味が理解でき、納得できるのです。・・・」(出口治明(注21))
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%ef%bd%a21543%e5%b9%b4%e7%a8%ae%e5%ad%90%e5%b3%b6%e3%81%ab%e6%bc%82%e7%9d%80%e3%81%97%e9%89%84%e7%a0%b2%e3%82%92%e4%bc%9d%e3%81%88%e3%81%9f%ef%bd%a3%e3%81%ae%e3%81%af%e3%83%9d%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%ac%e3%83%ab%e4%ba%ba%e3%81%a7%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84/ar-BB12QNuL?ocid=UE03DHP
(2020年4月19日アクセス)
(注21)でぐちはるあき(1948年~)。京大法卒、日本生命を経てライフネット姓名開業、2018年立命館アジア太平洋大学第四代学長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E6%B2%BB%E6%98%8E
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[神道論]
そう言えば、仏教とは違って、神道って何ぞやなんてあまり考えたことがなかったのだが、神仏習合等を論じるにあたって、そんなことではいけないと反省し、ざっとネットにあたってはみたのだが、邦語で簡潔かつもっともらしい神道論を記述した文章に、まだ出会っておらず、そのことに、実のところ、大変驚いている。
神道は、日本人にとって、改めてまともに論じるつもりにならない、空気のような存在なのだろう。
〇トップダウン方式(失敗)
仕方なく、まず、神道関係のウィキペディアから始め、冗長で説得力がない、既存の神道論から、エッセンスを抽出した上で取り纏めようとした。↓
しかし、神道に関するウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
も、神道の神に関するウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)
も、余りにも出来が悪いため、読んで、ますます混乱してしまった。
唯一、示唆的であったのは、後者中の、「自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、・・・多神教としてはありふれた考え方である。・・・<他方、特徴的なのは(?)>『神』(祀れば恩恵をもたらし、ないがしろにすれば祟るもの)と『霊』(人間が死んだ後に残るとされる霊魂)とは明確に区別されていない<点だ。>」というくだりくらいか。
ウィキペディア以外の神道論中、ひょっとしたらこれでいけるかと思ったのが、京都の、名前を聞いたことがない、新熊野(いまくまの)神社、のホームページの記述だ。↓
「神道は大きく分けて三つの信仰で成り立っています。第一は山や海や巨木や奇岩など特定の自然物を「神の依代(よりしろ)とする信仰(自然神信仰)、第二は一族の祖先の御霊(みたま)を神とする信仰(祖先神信仰)、第三は土地の神や農耕の神など水田稲作を起源とする信仰、これらの信仰が一つになって成立したのが神道です。一般に自然神信仰は狩猟や漁猟を生業 (なりわい)としていた人々の信仰(縄文人の信仰)、祖先神信仰は朝鮮半島から渡来した人々の信仰(弥生人の信仰)、土地の神や農耕の神などに対する信仰は水田稲作発祥の地、揚子江流域から台湾・沖縄本島を経由して伝えられた信仰と言われています。」
http://imakumanojinja.or.jp/kumanosinkou.html
しかし、上の文中の「第二は」については、「御霊」信仰、すなわち、「祖霊」信仰、が縄文時代由来であることが判明しつつあるので、その部分は誤りだ。
(但し、弥生人もまた、自前の祖霊信仰を持っていて、渡来時に日本列島に持ち込んだ可能性を否定するものではないが・・。)↓
「縄文時代から環状列石による祖先崇拝を中心とした祭祀・儀礼が行われていた。祖霊信仰のような祖先崇拝は日本を除いては、<支那>や太平洋地域の一部の限られた場所にしか見ることしかできない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%85%88%E5%B4%87%E6%8B%9D
また、「第三は」で、弥生人由来としている部分についてだが、私は、それは誤りで、縄文人と弥生人の合作であると考えている。↓。
「日本の神道・・・では、土地ごとにそこを守護する地主神がいる、とされている。土地は神の姿の現れであり、どんな土地にも地主神がいる、とする説もある。・・・
地主神への信仰の在り方は多様であり、荒神、田の神、客人神、屋敷神の性質がある地主神もいる。
一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもある。地主神を祀る(まつる)旧家からの分家に分祀されたり、屋敷の新設に伴い分祀されることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%A5%9E
もう少し、探索を続けた。↓
「山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた。
いっぽう、稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰があった。これを、田の神・山の神の春秋去来の伝承といい、全国各地に広くみられる。・・・
春秋去来の伝承は屋敷神<(注22)>の成立に深いかかわりをもっているとみられる。
(注22)「日本では、古くから死んだ祖先の魂は山に住むと信じられてきたが、その信仰を背景として、屋敷近くの山林に祖先を祀る祭場を設けたのが起源だと考えられる。古くは一般的に神霊というものは一箇所に留まることはなく、特定の時期にのみ特定の場所に来臨して、祭りを受けた後、再び帰って行くものだと信じられてきた。そのため、山林に設けられた祭場は当初は祠などではなく、祭祀のときのみ古木や自然石を依代として祀ったものだったと考えられる。祠や社が建てられるようになるのは、神がその場に常在すると信じられるようになった後世の変化である。屋敷近くの山林に祀られていたのが、次第に屋敷の建物に近づいていって、現在広く見られるような敷地内に社を建てて祀るという形態になったと思われている。屋敷神が建物や土地を守護すると信じられるようになったのは、屋敷のすぐそばに建てられるようになったからだと考えられる。
また、一族の祖霊という神格から屋敷神を祀るのは親族の中でも本家のみだったが、分家の台頭により、次第にどの家でも祀るようになっていったと考えられている。
ところによっては、一家一族の守護神であった屋敷神が、神威の上昇により、一家一族の枠組みを超えて、地域の鎮守に昇格することもあった。・・・
祭祀を行なう時期(春と秋)が農耕神(田の神・山の神)と重なることから両者の関係が指摘されている。また屋敷神の祭祀は一族がそろって行う地域が広く存在し、祖先神の性格があることも指摘されている。このことは屋敷神を「ウジガミ」と呼ぶ地域があることからもわかる。明確に祭神を祖先神だと認識した上で祀っているとしているところもあり、また農耕神も祖先神の性格を持っていることが指摘されており、屋敷神・農耕神・祖先神の三者は関わりがあることが分かっている。・・・
屋敷神の多くは石造か木造の小祠である。普通の神社のような社殿を持つことはまずない。・・・
しかし、社殿を備えるようになったのは神の常在を信じるようになった後世の変化で、それ以前は祠もなく、祭場のみだった。樹木や自然石を依代として<いた。>・・・
屋敷神を祀る信仰は、浄土真宗の地域を除いて全国に分布している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E6%95%B7%E7%A5%9E
屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘される。日本では、古来、死んだ祖先の魂は山に住むと考えられてきたため、その信仰を基底として、屋敷近くの山林に祖先をまつる祭場を設けたのが屋敷神の端緒ではないかと説明されることが多い。古代にあっては一般に、神霊は一箇所に留まらず、特定の時期に特定の場所に来臨し、祭りを受けたのちは再び還るものと信じられていた。屋敷神の祭祀の時期も、一般に春と秋に集中し、後述するように農耕神(田の神)のそれと重なっている。その一方で農耕神もまた祖霊信仰のなかで重要な位置を占めるようになった。こうして屋敷神・農耕神・祖霊神の三神は、穀霊神(年神)を中心に、互いに密接なかかわりをもつこととなったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E3%81%AE%E7%A5%9E
この部分だけを纏めると、
縄文人の山の神信仰→縄文人/弥生人の農耕神信仰—|
|→屋敷神信仰/穀霊神信仰
縄文人の祖霊信仰——————————–|
ということになりそうだ。
で、以上を総合すると、神道は、縄文人由来の信仰であって、以下のようなものが原型らしい。↓
自然神信仰————-|
|→神道
屋敷神信仰/穀霊神信仰–|
とまあ、無理やり取り纏めてはみたものの、失敗感が否めなかった。
〇ボトムアップ方式(成功?)
そこで、今度は、神道論を漁るのは止め、とにかく、神道がらみの諸文章中、参考になりそうな部分をかき集めて並べたら何かが見えてくるかもしれない、と、自分自身で新しく神道論をでっちあげる試みを行った。↓
「いかなる宗教でも人間の幸福を目的としているので、現世利益を教義中に内含しないものはない。ただ、それを第一義とするものもあれば、純粋信仰の副次的現象とするものもある。また、現世の福も来世(当来世とも)の福も等価に願う宗教もあり、それぞれの教義の立て方による。」(「世界宗教用語大事典」)
https://www.weblio.jp/content/%E7%8F%BE%E4%B8%96%E5%88%A9%E7%9B%8A
「神道<に関してだが、>・・・古来より、地域共同体の守護神である氏神や鎮守神へ、村落などの氏子の共同体成因の集団的意志として、雨乞い、日乞い、虫送り、疫病送りなどの現世利益を得ることを目的とした祈願行為が行われていた。現代でも、「祭」のなかに、その伝統文化が根付いている。 現在では、個人の心願に応えるために、神前にて、神職や巫女により祝詞奏上や神楽舞奉奏がされ、祈願者の玉串拝礼により得られるとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%B8%96
「神道では「現世」と書いて古語としては「うつしよ」と読み、この世や人の生きる現実世界を意味する。それに対峙して、常世(とこよ)いわゆる天国や桃源郷や理想郷としての神の国があり、常夜(とこよ)と言われるいわゆる地獄としての死者の国や黄泉の国と捉えている世界観がある。
ただし、常世と現世として二律背反や二律双生の世界観が基本であり、常世・神の国には2つの様相があり、このことは常世(常夜と常世は夜と昼とも表される)が神の国としての二面性を持つことと、荒ぶる神と和ぎる神という日本の神の2つのあり方にも通じるものである[要出典]。
古神道の始まりといわれる神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰の森林や山・岩などの巨木や巨石は、神の依り代と同時に、籬は垣(かき)の意味で磐座は磐境(いわさかい)ともいい、常世と現世の端境を表す神域でもある。神社神道においても鎮守の森や植栽された広葉常緑樹は、神域を表すと同時に結界でもあり、常世(神域)と現世の各々の事象が簡単に行き来できないようにするための物であり、禁足地になっている場所も多い。
また、集落につながる道の辻に置かれる石造の祠や道祖神や地蔵なども、厄除けや祈願祈念の信仰の対象だけでなく、現世と常世の端境にある結界を意味するといわれる。現世における昼と夜の端境である夕刻も常夜との端境であるとも考えられ、この時分を「逢魔時(おうまがとき)」といって、現世に存在しないものと出遭う時刻であると考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%B8%96
「神における祟り性と守護性のアンビバレントな性格は,日本における宗教と政治の相互浸透性,聖と俗の重層的な互換性の心理的な基盤をなしているといえよう。またこの聖と俗の重層的な互換性は,現実の必要に応じていくらでも霊験あらたかな流行神(はやりがみ)をつくりだす庶民の宗教的創意性の根拠をなしている一方,それらの神々をまつることによって家内安全,身体健康,病気平癒などの即効的な現世利益を求める庶民の信心の内容をもよく説明するものである。
・・・日本人の宗教に関する第3の特徴は,人は死んで先祖になり,やがて神になるということを自然に信じてきたということである。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E4%B8%96%E5%88%A9%E7%9B%8A-60783
「シャーマンの場合,一時的に人神に化しても,しばらくすると元の人間に戻っている。それに対して,恒久的に神化した概念とされるのが現人神(あらひとがみ)である。これは神霊を体現した人という意味であるが,しばしば強烈な霊の保持者に対する尊称として使用されていた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E4%BA%BA%E7%A5%9E-27828
「荒人神とも書く。 また、生きながらも死者と同じ尊厳を持つ。という意味もある・・・
古くは生き神信仰は全国各地にあったと考えられ、たとえば、祭祀を通して神霊と一体となった神官が現人神として敬われることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BA%BA%E7%A5%9E
「神と自然と人と境界は、日本人の存在論の中ではあいまいというよりもむしろ連続しあっているのである。」
https://books.google.co.jp/books?id=4PqHziszIjYC&pg=PT83&lpg=PT83&dq=%E7%8F%BE%E4%BA%BA%E7%A5%9E&source=bl&ots=JzEfUM0gBW&sig=ACfU3U2dR2i6NZxKaKvSfn3hIFb5PIN2CQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwin6riu2eXpAhUEIIgKHbzPCW84UBDoATABegQICRAB#v=onepage&q=%E7%8F%BE%E4%BA%BA%E7%A5%9E&f=false
「鳥居の内の区域一帯を、「神霊が鎮まる神域」とみなす。神社の周りには鎮守の杜という森林があることが多い。御神木といわれる木には、注連縄を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。参道のそばには「身を清める」手水舎<(注23)>、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では神池や神橋もみられる。
(注23)ちょうずや。「手水の起源は、神道に由来し、聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことにはじまる。その名残は、伊勢神宮の御手洗場などで見られる。時代が変化するにつれ、河川の水質が汚染され、清流や湧き水の確保が困難になったことから、それに代わる施設として手水舎が併設されるようになっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%B0%B4%E8%88%8E
社殿は本殿(神殿)や拝殿からなる。人々が普段参拝するのは拝殿で、神体がある本殿は拝殿の奥にある。本殿と拝殿の間に参詣者が幣帛を供えるための幣殿が設置されることもある。
神社の敷地(境内)には、その神社の祭神に関係のある神や本来その土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る末社があり、両者をあわせて摂末社という。境内の外にある摂末社は境外社と呼ばれる。
また、神仏習合が始まる奈良時代以降は神社の境内に神を供養する神宮寺(別当寺、宮寺)が建てられたり、神社内に寺院が建てられたりしたが、明治初期の神仏判然令(神仏分離令)により、神社と寺院は分離され、神社の境内の五重塔や仏堂などは撤去され、神職と僧侶も区別された。
参道にある灯籠、常夜灯はもともとは仏教寺院のものであり、平安時代以降、神社にも浸透したものである。参道に敷かれる玉砂利は、玉が「たましい(魂)」「みたま(御霊)」「美しい」という意を持ち、砂利は「さざれ(細石)」の意を持ち、その場を清浄する意味を持っている。敷くことによってその場所を祓い清める意味があり、なお参道を進み清浄な石を踏みしめることによって、身を清め心を鎮めて、最高の状態で祈りが出来るようにしてある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE
⇒上掲の雑多な諸文を私なりに要約すると、神道とは、
一、現世利益、
二、結界作りとその維持、
を図る営みであって、
三、一と二はリンクしている、
ということになりそうだ。
一は広義の宗教において、ありふれたものだが、二はかなりユニークだ。
その結果として、三もかなりユニークだ、ということになる。
この、一、二、三、の相互関係について、私は理解はこうだ。↓
「人間も(人間以外の生物を含む)自然も神性を帯びているので、我々は敬意と畏怖の念を持って接する生活を送らなければならないが、このことを忘れないようにするために、時々、神社を参拝し、身を清めた上でそこに祀られている(通常、鎮守の森であるところの)自然や(その大部分は、既に亡くなっているところの)人間に敬意と畏怖の念を捧げる参拝を行う。
その結果としての現世利益として、日本は、森林の乱伐が防止されて風水害の増加を回避することができ、戦乱の頻度もまた抑制することができたおかげで、安全にして平和な社会であり続けてくるとともに、日本人は、情けは人のためならず、という観念が常識化したところの、世界で唯一の人間主義社会、すなわち、世界で最も思いやりに溢れ、世界で最も個人が尊重され、かつまた、伝染病や感染症に比較的罹りにくい、心身とも健康な生活を送ることができる社会、において人生を送ることができてきた。」
ちなみに、「まつり」は、日本人の人間主義的な生活の総体(狭義の「まつり」と神社参拝)である、と見たらどうか。
「「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。」→創作・スポーツ・(匠志向の)その他の仕事
「「祭り」は命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。」→人や動物や自然との交流
「「奉り」は、・・・献上や召し上げる<である。>」→納税・社会貢献
「「政り」・・・は、・・・政治のこと<である。>」→中央や地方の政治、企業等の集団内統治、自己規律
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD (「」内)
この新神道論、いかが?
—————————————————————————————–
(2)聖徳太子コンセンサス中の仏教論とその展開
(ア)聖徳太子コンセンサス中の仏教論(再訪)
あ 仏教伝来
日本への仏教伝来は朝鮮半島から、ということになっているが、そもそも、その朝鮮半島には、いつ仏教が伝来し、どのように受け止められたのか、から始めよう。↓
「朝鮮半島に仏教が伝わったのは、半島が高句麗、百済、新羅の三国に分裂していた時代であった。最初に伝来したのは三七二年の高句麗であり、<支那>から伝わった。当時の<支那>は、異民族がかわるがわる<支那>北部を統治していた五胡十六国時代であった。この中の前秦王の苻堅(在位三五七~三八五年)が僧侶の順道と仏像などを高句麗に送ったのが半島への仏教伝来のはじめである。
苻堅は五胡十六国時代を代表するほど仏教に対する関心があった王であり、<支那>仏教史上、重要な人物である道安(三一二または三一四~三八五年)を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(三五〇?~四〇九?年)を獲得するため西域に兵を派遣していた。その苻堅から仏教を伝えられた高句麗でも仏教が盛んになり、<支那>に数多くの留学僧を派遣したほか、聖徳太子の師となった慧慈<(えじ)>(?~六二三年)をはじめとして、多くの僧侶が日本に来て活躍した。
一方、百済には三八四年に仏教が伝来した。<支那>江南の東晋から摩羅難陀が来朝したことが契機であるという。摩羅難陀がどの国の僧侶であるかは明確ではないが、百済の王が彼を宮中に迎えて礼敬したのが百済仏教のはじまりである。翌年には仏寺を創建し僧一〇人を得度させた。
[しかし,この所伝には疑問が出されており,現在では,百済の仏教受容を6世紀初頭とする見解が有力である。
https://kotobank.jp/word/%E6%91%A9%E7%BE%85%E9%9B%A3%E9%99%80-1208281 ]
その後、六世紀半ばの聖明王 (在位五二三~五五四年)<が>日本に仏教を伝えた。<更に>その後、日羅などが日本に来て活躍した。
仏教伝来が一番遅れたのが新羅であった。新羅への仏教伝来の年次は明確ではないが、公認されたのは六世紀になってからであり、他の二国に比べるとかなり遅い。・・・
新羅仏教のキーワードは護国仏教であった。新羅の都、慶州に皇龍寺が建てられ、その九層の塔には一層ごとに、日本など当時新羅にとって危険な国や地域の名前が付されていたという。
また新羅を代表する僧侶である円光(五三二~六三〇年頃)は、戦争にあたっての心構えを問うた者に対して、世俗の五戒を説いた。世俗の五戒と は、「1君に事えるに忠をもってす。2親に事えるに孝をもってす。3友と交わるに信をもってす。4戦いに臨んで退くことなかれ。5殺生に択ぶあり」の五つ」
http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/20.html
⇒厩戸皇子が、主たる師としたのが、日本に仏教を公的に紹介した百済の僧ではなく、高句麗の僧だったことが注目される。
ところで、上掲は、あたかも新羅の仏教だけが鎮護国家教だったかのような書きぶりだが、下掲は逆に、三国とも、その仏教は鎮護国家教だったとしている。(太田)
「三国時代には儒教も伝えられたが、三国とも国家鎮護のために仏教を保護するという政策を採った。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-086_2.html
どちらが正しいのだろうか。
そこで、三国、それぞれについて、もう少し詳しく見てみた。
まず、高句麗についてだ。↓
「前秦の建元15年(379年)2月、前秦が<東晋領の>襄陽を攻略し、高名な釈道安を言わば政治顧問とするために<首都の>長安へと連れ去った。・・・
苻堅の東晋<征服するための>遠征に対しては他の群臣と共に強く諌めて反対した。そして383年の淝水の戦いで苻堅が東晋に大敗して前秦が滅亡し、また、直後に道安自身も長安で亡くなってしまう・・・
道安は弥勒信仰<(注24)>を持っており、・・・弥勒像の前で誓願を立て、兜率天への上生を願っていた。・・・
(注24)「<支那>における弥勒浄土信仰は,道安とその門弟に始まるとされ,法顕も西域やインドの弥勒信仰を伝え,北魏時代には隆盛をきわめ,竜門石窟の北魏窟,つまり5世紀末から6世紀前半にかけての時期には弥勒像が目だつ。しかし,隋・唐時代になると阿弥陀仏の西方浄土信仰にとってかわられる。・・・
弥勒は浄土である兜率天 (とそつてん) で天人のために説法しているが,56億7000万年ののち,この世に現れて衆生を救済するとされている。そこから弥勒の兜率天に往生しようとする上生信仰と,弥勒の下生に合わせて現世に再生したいという下生信仰とが盛んとなった。・・・
日本には推古朝に伝来し、奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が、戦国末期の東国では下生思想が特に栄えた。天寿国曼荼羅繡帳や「日本霊異記」にもその信仰がみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0-393035
⇒「〈天寿国〉<は>一種の浄土を意味しているが,極楽浄土,弥勒浄土,妙喜浄土,霊山浄土,十方浄土,天竺浄土などの諸説があって定かではない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E5%AF%BF%E5%9B%BD-578192
厩戸皇子は、高句麗僧の慧慈、ひいては、前秦の道安の仏教を最も高く評価し、親近感を覚えた、と考えられるが、弥勒信仰については留保したのではないか。(注25)
(注25)平岡定海は、厩戸皇子が弥勒信仰を有していた可能性を指摘している。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&ved=2ahUKEwitkeKyjIHpAhXJAYgKHU89CB8QFjABegQIARAB&url=https%3A%2F%2Ftoyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D8959%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0r0Wa58NEwU8kI9U6xD9SB
平岡定海(ひらおかじょうかい。1923~2011年)は、東大寺上之坊に生まれ、京大文(史学)卒、東大院修了、文学博士、「種智院大学講師、・・・助教授、・・・大手前女子大学教授<を歴任すると共に、>東大寺上之坊住職、東大寺執事長、華厳宗管長、東大寺別当を歴任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E6%B5%B7
というのも、仮に弥勒信仰にシンパシーを抱いていたのだとすれば、故人たる厩戸皇子のために作られた天寿国曼荼羅繡帳は、「天寿国」などという訳の分からない言葉を用いることなく、端的に、兜率天曼荼羅繡帳と名付けられたはずだからだ。
だから、「注22」が記しているように、弥勒信仰が推古朝に伝わったというのが事実だとしても、それは、(それが弥勒菩薩像の伝来を指しているのではないとすればだが、)厩戸皇子が亡くなった622年から、推古天皇が亡くなった628年の間の話だ、ということになろう。(太田)
今日でも、日本も含めて漢字文化圏の仏教教団では、出家した者は受戒の師によって戒名(法名)を付けてもらう決まりとなっている。この時、在家の姓を捨てて、出家者はすべて釈氏を名乗る。
この、出家者は釈氏と名乗るという制度を始めたのが、釈道安である。・・・
釈道安の当時の仏教の主流は、西晋に流行した竹林の七賢に代表される清談の風の影響もあって、<支那>固有の老荘思想の概念や用語によって仏典を解釈する格義仏教であった。・・・
そのような状況の中にあって道安は、仏典とは仏教本来の概念や用語によって注釈・研究されなければならないと主張した。そして、大乗・小乗の別なく、当時訳経されていた主な経典に対して、数多くの序文を記しており、その中で自己の主張を展開している。 ・・・
<そして、>真経と偽経とを明確に区分し<ようともした。>
また、釈道安は、戒律を重要視していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E9%81%93%E5%AE%89
⇒厩戸皇子は、慧慈が伝えた道安の仏教観の、弥勒信仰以外であるところの、この部分を良しとし、道安が解説した諸経中、法華経を、人間主義実践推奨の経典と受け止め、同経に最も感銘を受けたのだろう(注26)。
(注26)「『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。『日本書紀』に推古天皇14年(606年)聖徳太子が『勝鬘経』・『法華経』を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F
「真筆の草稿とされるもの」が本当に「真筆であるか否かについては意見が分かれている」(上掲)わけだが、私は、この三経中、厩戸皇子が基本経典と考えていたのが法華経であることが知られていたからこそ、その真筆が特に保存された、と想像している。
ちなみに、勝鬘経は人間主義の具体的実践方法を記述しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%AC%98%E7%B5%8C
維摩経では、「衆生が病むがゆえに、・・・病」んでいた維摩が、戯曲的な構成下で、「互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということ・・不二法門・・を説」いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%91%A9%E7%B5%8C
そのことが、後に復活天智朝の桓武天皇によって、最澄が天台宗を日本に継受させるべく遣唐使として唐に派遣されることに繋がった、と、私は見ている。
ちなみに、天台宗(注27)は、法華経を根本経典としており、厩戸皇子の当時は、形成途上にあった宗派だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97 (太田)
(注27)「天台宗は、・・・隋・・・の天台智者大師、智顗<(ちぎ)>(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。・・・
智顗は、鳩摩羅什<(くまらじゅう)>訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は鳩摩羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂<(しょうあんかんじょう)>(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威<(えい)>(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗<(さけいげんろう)>(672年-753年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然<(けいけいたんねん)>(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃<(どうすい)>と行満<(ぎょうまん)>が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
ところで、「・・・百済の仏教<についてだが>、文献に初伝が見える4世紀末から・・・5世紀まで、支配層を中心に受け継がれていたことは確かであるが、当時の仏教認識や既存の政治理念であった祭祀儀礼などの影響により栄えることはできず、故に豊富な文化資料を残すこともできなかったと類推できる・・・
<支那>の南朝仏教を最も隆盛させ、自らも仏教に深く帰依した梁武帝の在世時(位502~549)が丁度、・・・<百済の>武寧王(位501~523)と聖王(位523~553)代に重なっている時代背景も大きく影響していた。この時代を伝える<支那>の史書『梁書』と『南史』には、百済が武寧王から聖王代にかけて行った梁との交流を見ることができる。・・・
注目すべきところは、百済が遣使の度に・・・『涅槃経』<(注28)>を求めている点である。・・・
(注28)「4世紀くらいの成立と考えられる。・・・「一切衆生はことごとく仏性を有する」(一切衆生悉有仏性)と宣言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C
『涅槃経』は、入滅する前後の仏陀の事績を記している仏典で、とりわけ仏塔を建て舎利を安置し供養を行う舎利信仰<(注29)>や、仏教の理想的君主像である転輪王<(注30)>思想を説いていることから、梁の武帝や隋の文帝など多くの崇仏君主らに奉読された経典である。それ故、この涅槃経の要請は<、当時の>政治理念として請来された可能性が高いと考えられる。・・・」(金寶賢(注31)「百済仏教の始原と展開」(2015年)より)
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0041/OS00410L043.pdf
(注29)「初期仏教では仏法(教え)を貴び、またインドの慣習儀礼に基づき像を造ることがなかったので、仏舎利が唯一具体的な形を持った信仰対象となっていた。しかし日本へ伝来したときは最初から仏像があったので、仏舎利とそれを祭る仏塔は必ずしも信仰の中心ではなかった。・・・
飛鳥時代には法興寺、斑鳩寺(現在の法隆寺)、現在の四天王寺など、立派な仏塔を備えた寺院が建立されているが、これらの仏塔は仏舎利を祭るものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%88%8E%E5%88%A9
(注30)「輪宝は理想的な王である転輪聖王の無限の統治権のシンボルであった。ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)半ば以降から輪を王権のシンボルとする観念はインド世界に存在し、転輪聖王の概念もその延長上にあるものである。バラモン教においてもこの観念は継承されたが、「転輪聖王」の概念がよりはっきり形成されたのは、寧ろインドにおける非正統派宗教である仏教やジャイナ教においてであった。転輪聖王に関する記述は『転輪聖王師子吼経』や『大善見王経』といった仏典の随所に登場する。・・・
仏典の記述によれば、・・・世界は繁栄と衰退の循環を繰り返し、繁栄の時には人間の寿命は8万年であるが、人間の徳が失われるにつれて寿命は短くなり、全ての善が失われた暗黒の時代には10年となる。その後、人間の徳は回復し、再び8万年の寿命がある繁栄の時代を迎える。転輪聖王が出るのはこの繁栄の時代であり、彼は前世における善行の結果転輪聖王として現れる。仏陀と同じ32の瑞相を持ち、4つの海に至るまでの大地を武力を用いる事無く、法の力を持って征服する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E8%BC%AA%E8%81%96%E7%8E%8B
(注31)高麗大学校グローバル日本研究院研究教授
https://www.bcjjl.org/journal/view.php?number=164
⇒金寶賢が舎利信仰や転輪王思想でもって『涅槃経』を説明しているのは「注26」、「注27」に照らすと、首を傾げざるをえない。
これもまた、かなりデフォルメされた説明であると下掲典拠の筆者自身が断っているけれど、『涅槃経』を「「死自体の意味」を掘り下げた経典」とする説明
https://www.kyamaneko.com/entry/2016/05/08/191650
の方が、金寶賢による説明よりも、私にはしっくりくる。
その上で言うのだが、厩戸皇子は、606年(推古14年)に推古天皇に『法華経』<(注32)>を講じ、615年には法華経の注釈書『法華義疏』を著しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
皇子は、『法華経』を、その中の法華七喩(ほっけしちゆ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9
を基軸として、すなわち、人間主義的営為を勧める経典として読み、『涅槃経』ではなく、『法華経』を仏教の基本的経典と認識した、と、私は考えている。
(注32)成立時期に関し、BC100年頃~AD150年頃にわたる諸説がある。繰り返すが、「<支那>天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用し<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C 前掲
すなわち、皇子は、『涅槃経』を基本的経典とする、百済由来の仏教を排した、と、私は見ている。
ここで、話を戻して恐縮だが、最初に「倭国に仏教を伝えたのは誰か・・・」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html
を考えた時、「・・・522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)<が、>すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
とされていることが注目される。
「538年<に>・・・百済の聖明王から仏教が・・・<日本に>公伝・・・したと」されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
が、「わが国仏教史には一大欠落が存在<するところ、>それも枝葉末節のことではなく、その根幹にかかわる欠落で<あり、>それは・・・この日本列島に最初に仏法を伝えた僧の名、およびその人物に関する伝承の不在、<だ>。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html
という次第であり、朝鮮南部を勢力圏ないし領土としていた当時の日本には、仏教が自然に伝わってきていたからこそ、百済王は、仏教がらみの貴重な経典等だけを送ってきた、と想像されるわけだ。
(恐らく公伝とは無関係に)来日した百済僧に、日羅(注33)がいるが、彼は、日本と百済の二重スパイ的な生臭臭ぷんぷんの人物であって、そんな人物が厩戸皇子の仏教の師だったとは思いにくい。↓
(注33)「<やはり>聖徳太子が師事した<とされるところの、>百済の高僧日羅<(?~583年)の>・・・父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、同年12月に百済人によって難波で暗殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85
だから、厩戸皇子は、日本に伝来していた仏教の諸経典を自分で読みながら、日本にいた仏教信徒の重鎮達の見解も聴取しつつ、自分自身で自らの仏教観を概成したのではなかろうか。
そして、その上で、改めて、自らの仏教観に近いと見極めをつけたところの、高句麗僧の慧慈と百済僧の慧聡(えそう)を日本に招致し、最終的に高句麗に伝来した仏教を採択したのではなかろうか。↓
「慧慈<は、>・・・推古天皇3年(595年)に渡来し、厩戸皇子の仏教の師となった。仏教を日本に広め、推古天皇4年(596年)法興寺(蘇我善德が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると百済の僧慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称された。推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教経典(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国した。
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、自らも推古天皇31年(623年)の同じ日に浄土で聖徳太子と会うことを誓約して、言葉通りに没したという。」を
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%85%88
慧聡(えそう)は、「推古天皇3年(・・・595年)に渡来<し、>・・・三論宗(南都六宗の一つ)の学僧で厩戸皇子の仏教の師となったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%81%A1
それにしても、「蘇我善徳(そがのぜんとこ)<が>、・・・蘇我馬子の長男<であったというのに、>・・・飛鳥寺(法興寺)の初代寺司(てらのつかさ、司長)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%96%84%E5%BE%B3
を務めたことからも、蘇我氏の仏教への力の入れようが推し量られる。
(以下、通説を紹介しつつ、私のコメントを諸所に加える。)↓
「大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。
欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうかと受容を勧めたのに対し、物部尾輿<(もののべのおこし)>・中臣鎌子<(なかとみのかまこ)>らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。
以上が通説であるが、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている<(注34)>。
(注34)「しかし、久宝寺駅前の再開発に伴い再び発掘調査が行われ、渋川寺の建立時期が7世紀前半であると判明したから、たいへんだ。
物部宗家の滅亡が587年であるからして、物部宗家の建立ではなく、蘇我氏もしくは厩戸皇子の建立の可能性が極めて高くなったのである。」
https://spiritualjapan.net/7552/
一方、蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく、百済の聖明王の死を伝えに訪日した王子・恵に対し、王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。結局のところ、崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、従来の通説に疑問が投げかけられている。
⇒そのいずれでもなく、日本の軍制の弱体化を、鎮護国家教たる仏教・・恐らくは百済経由で伝来したもの・・で補強すべくその継受を推進した蘇我氏、と、それに反発した物部氏、との対立だった、と私は見ている(コラム#11164)わけだ。(太田)
仏教をめぐる蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越される。馬子は渡来人の支援も受け、仏教受容の度を深めた。司馬達等の娘・善信尼を始めとした僧・尼僧の得度も行われた。しかし敏達天皇の末年に再び疫病が流行し(馬子自体も罹患)、物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。仏像の廃棄や伽藍の焼却のみならず、尼僧らの衣服をはぎ取り、海石榴市<(つばいち)>で鞭打ちするなどしたという。だがこれも、仏教の問題というよりは、次期大王の人選も絡んだ蘇我氏・物部氏の対立が根底にあった。
⇒そのような要素もあった可能性は否定できないけれど、主な要素は上述の通りだ、と、私は見ているわけだ。(太田)
続く用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが、欽明天皇代と同様の理由により物部守屋は猛反対した(第二次崇仏論争)。ここで注目されるのは、用明天皇が正式に帰依を表明したきっかけが自身の病気であることである。これは、神祇・神道が持つ弱点であった穢れに対する不可触ーー病や死などに対処するための方策として仏教が期待され、日本における仏教受容の初期的な動機になったことを示している。
⇒用明天皇は、「蘇我稲目の孫」であり、その仏教観は蘇我氏がインプットしたものであると想像されるところ、百済経由で伝来した華厳経中心の仏教が取り込んでいたと思われる転輪王思想に由来すると想像される鎮護国家教、と、「死自体の意味」の掘り下げ、のうち、「疱瘡のため、在位2年足らずの用明天皇2年(587年?)4月9日(古事記では4月15日)に崩御し<、その>享年<が>36、41、48、67、69など諸説ある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
用明天皇としては、前者より後者の方にもっぱら関心があった、というだけのことだ、と私は見ている。(太田)
結局、蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未<(ていび)>の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。推古朝では、馬子によって本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺・飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされる。
⇒推古天皇/厩戸皇子は、蘇我氏に面従腹背であった、と私は見ており(コラム#11164)、それは、仏教政策についても、というか、仏教政策において特にそうだったとさえ見ている(後述)。(太田)
しかし、この時期において仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、仏教が国民的な宗教になったとは言い難い(民衆と仏教が全く無関係であったわけではないが)。
<以下、付け足しだが、>奈良時代には鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、東大寺大仏の建立、鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、本格的な普及には遠かった。平安時代には最澄による天台宗、空海による真言宗の導入による密教の流行、末法思想・浄土信仰の隆盛などを契機として貴族層や都周辺の人々による仏教信仰は拡大しつつあったが、全国にわたって庶民にまで仏教が普及するのは中世以降である。鎌倉仏教の登場などにより全国の武士や庶民階層へ普及していき、以後は日本独自の仏教が発展した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D
厩戸皇子は父親の用明天皇の仏教観を正そうとはしなかっただろうが、推古天皇にはインプットして納得させた、と想像している。(注35)
(注35)「606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
い 関連する中臣氏/藤原氏の動静
中臣/藤原氏の系図は次の通りだ。↓
中臣鎌子|-?中臣勝海
|–中臣黒田–中臣常盤–中臣可多能祜|–中臣御食子 –中臣(藤原)鎌足
|–中臣糠手子|–中臣金(くがね)
|–中臣渠毎(こめ)
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E6%B0%8F%EF%BC%88%E4%B8%80%E9%96%80%EF%BC%89#katanosukeq
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%87%91
http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-23.html
この中に出て来る中臣鎌子と中臣勝海の、仏教がらみの事績は下掲。↓
「中臣鎌子<(かまこ)は、>・・・欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝する可否を群臣に求めた。大臣の蘇我稲目は礼拝に賛成したが、大連の物部尾輿と鎌子は反対した。天皇は稲目に仏像を授けて礼拝させたが、間もなく疫病が起こった。尾輿と鎌子は蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして仏像の廃棄を奏上した。天皇はこれを許して、仏像は難波の堀江に流され、寺は焼かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%8E%8C%E5%AD%90
「中臣勝海<(かつみ)は、>・・・敏達天皇14年(585年)3月、物部守屋と共に、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰のせいであると奏上。用明天皇2年(587年)4月、天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し、群臣にこのことを協議するように命じた際にも、守屋と共に詔に反対している。その後、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。皇子の宮に行ったが、宮門を出たところで迹見赤檮に殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%8B%9D%E6%B5%B7
以下、先回りした付け足しだ。
御食子(みけこ)は神祇伯(注36)に就いていた可能性がある。
鎌足は神祇伯への就任を辞退している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E5%AD%90
(注36)「神祇伯(じんぎはく)は、日本の律令官制における神祇官の長官。・・・ほぼ確実な初例が持統天皇4年(690年)の中臣大嶋である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E4%BC%AF
中臣大島(大嶋)(おおしま)(~693年)は、『鎌足の従弟渠毎(こめ)の子で中臣金(くがね)の甥』
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%A4%A7%E5%B6%8B-1136218
で、「中臣鎌足・金の後を継いで中臣氏の氏上的な立場となり、天武・持統朝で内政・外交の両面で活躍した。また、持統朝では神事での活動も目立ち、律令国家確立期にあって、政祭両面で重要な役割を果たした。・・・漢詩人として『懐風藻』に漢詩作品2首をが採録されている。また、草壁皇子のために粟原寺の建立を発願するなど、仏教にも理解を示した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%A4%A7%E5%B3%B6
中臣(藤原)鎌足|–中臣真人/定恵(643~666年)
|–藤原不比等
中臣渠毎|–安達(あんだち)
|–大島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%81%B5
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E5%A4%A7%E5%B6%8B-1136218
定恵(じょうえ/じょうけい。643年~天智天皇4年12月23日(666年2月2日))は、「飛鳥時代の学僧。・・・。出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等がいる。
653年・・・5月、遣唐使とともに唐へ渡る。 長安<で>・・・玄奘の弟子の神泰法師に師事した。・・・665年・・・9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、同年12月に・・・亡くなった。・・・
鎌足は当時の重臣であり、その長男である人物が出家するというのは、熱心な仏教信者として知られる蘇我氏においてもなかった前代未聞の事態であった。・・・当時、後に鎌足の後継者になった不比等はまだ誕生しておらず、定恵は鎌足の一人息子であった。・・・これに関しては定恵の出生に関わる謎がある、あるいは僧侶になった方が唐留学に優位であった、鎌足が日本の外交責任者で当時は僧侶が外交使節として活動していたことと関係している等の意見があるが、・・・中臣渠毎の子である僧侶・安達が定恵と一緒に唐に留学しており、中臣氏の子弟が出家・入唐することは特殊ではないとする見方もあ<って、>・・・未だ定説を見ない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%81%B5 前掲
「興福寺<は、>・・・藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
⇒中臣鎌足は、中大兄皇子からの強い依頼を受け、日本で、神道派と仏教派との間の内紛を回避しつつ、将来、弥生性が強化された武力の担い手達の縄文性の回復・維持を図るための神仏習合教の創造を期し、大変な決意の下で、中臣一族にとって重要な子弟を出家させた上で遣唐使として唐に留学させることにし、更に、晩年、藤原氏の寺院を建立した、ということだろう。(太田)
—————————————————————————————–
[田中英道説]
どうして、厩戸皇子が仏教の継受が必要であると考えたのか、という問題意識を抱いた人物が、日本(世界?)で私以外にもいたので、一応、紹介しておく。
「日本に仏像が入ってきたとき、最初にできた寺院では神道と仏教を一緒に祭っていました。
仏像も「仏神像」と呼ばれていました。仏教を神道に取り込むという形で完全な神仏習合を実現していたのです。
⇒ネット上では、そのような説を唱えたり賛同したりした学者等を、他に全く見つけることができなかった。(太田)
一方、九世紀以降に仏教学者や僧侶の発想により、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という思想が生まれました。
これは、日本の八百万の神様はすべてが仏の化身として現われたものだと考える説です。
たとえば、本地である大日如来という仏が日本に垂迹すると天照大神という神になり、薬師如来は牛頭天王や素戔嗚になり、大黒天が大国主になるといった具合です。
この本地垂迹説は、仏教がもとにあって神道があとに出てきたものという考え方をとります。
そのようにして仏教と神道の習合をはかったのです。もともと日本にあった神仏習合の考え方とは正反対の考え方です。・・・
神道というのは、自然にしたがっていけばすべてはうまくいくという考え方です。
⇒ここはその通りであり、神道を持ち出すまでもなく、その大部分が人間主義者であるところの日本人達は、そのまま「自然にしたがっていけばすべてはうまくいく」わけなのだ。(太田)
ところが、人間が自然のままではいけないと考えるようになり、独立したり自立したりといった考えを持つようになると、そこに煩悩が生まれることになります。
それを解決するために聖徳太子は仏教を取り入れる判断を下したのです。
⇒厩戸皇子の時代までに、「人間が自然のままではいけないと考えるようになり、独立したり自立したりといった考えを<人々が>持つようにな<った>」的な史実などないはずだ。
そうではなく、厩戸皇子が、日本の全ての「人間が自然のままではいけないと考えるようになり、」私の言う、縄文的弥生人を日本人の中から作り出そうとし、「そこに煩悩が生まれることにな」るので、「仏教を取り入れ」てみよう、という「判断を下したの」だ。(太田)
本文でも述べていますが、日本がもともとは神道だということは「和」という言葉に表れています。
「和」というのは神道の考え方そのものです。その「和」によって、神道と仏教を一つにした神仏習合の寺院もできたのです。」
https://nikkan-spa.jp/plus/1354928
⇒ここは、コメントを控える。
ちなみに、田中英道(1942年~)は、美術史家。日比谷高、東大文(仏文)卒、ストラスブール大博士、国立西洋美術館研究員、東北大文講師・助教授・教授、東北大博士、国際教養大特任教授。古来よりユダヤ人が日本に渡来していた、例えば秦氏がそうだった、と主張。また、『新しい日本史観の確立』で、日本近代史にのみ熱意を燃やす「つくる会」の運動に疑問を呈し、もっと幅広い歴史観の見直しの必要性を主張している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93 (太田)
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う 厩戸皇子ゆかりの寺院群から窺われること
今度は、厩戸皇子の仏教感を、皇子ゆかりの寺院群から探ってみよう。
もとより、これらの寺院群の中には、皇子創建のものも、単なるゆかりのものも、はたまた、皇子と何の関係もないが創建ないしゆかりということになっているものも、あろうが・・。
◦四天王寺
「四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。・・・
聖徳太子建立七大寺の一つとされている。・・・
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院<(注37)>の4つである。
(注37)「悲田院<は、>・・・仏典の慈悲の思想にもとづいて、孤児や貧窮者などを収容するために造られた施設。聖徳太子が難波(なにわ)の四天王寺に敬田、施薬、療病院とともに設けたのが最初と伝えるが、確証がなく、・・・723年・・・)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見で,その後諸大寺にも設けられ,730年・・・光明皇后によって皇后職に悲田,施薬の両院制が公設され,奈良・平安時代を通じ救療施設の中心となった。仏教の博愛慈恵の思想にもとづいてはいるが,唐の開元の制度に倣った施設で,悲田院の名称も唐制の踏襲である。・・・
「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。」
https://kotobank.jp/word/%E6%82%B2%E7%94%B0%E9%99%A2-120284
⇒確証があろうとなかろうと、そう伝承されてきたこと、私の言葉で言えばそれが聖徳太子コンセンサスの一環として受け止められ続けたこと、が重要。
例えば、アショーカ王の事績
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
の中に、そういった類の話は全く出てこない。(太田)
敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。・・・
四天王寺の本尊は、近世以前の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、現本尊は救世観音と称されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA
「敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
⇒厩戸皇子は、四天王寺を、仏教と神道の習合の試行を行う場とすると共に、政府の人間主義的施策の拠点に使おうとした。(太田)
◦大安寺
大安寺 「聖徳太子の建てた「熊凝精舎」<(注38)>(くまごりしょうじゃ、「熊凝道場」とも)が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。
(注38)「聖徳太子が釈迦の祇園精舎にならって創建した仏教修行の道場」
http://kikimanyo.info/taishi/storymap/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E5%89%B5%E5%BB%BA%E3%81%AE%E5%AD%A6%E8%88%8E%E3%80%8C%E7%86%8A%E5%87%9D%E7%B2%BE%E8%88%8E%E8%B7%A1%E3%80%8D/
平城京に移って大安寺を称した時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。・・・
田村皇子は太子の意向を承けて、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めた。『日本書紀』の同年七月条には「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」「則ち百済川の側(ほとり)を以て宮処とす」とある。これが百済大宮と百済大寺である。 百済大寺は日本最初の官寺であり、国の大寺として尊崇を集めた。『日本書紀』によれば大化元年(645年)8月には孝徳天皇が大寺に使いを派遣して十師を定め、このとき恵妙(慧妙とも)が百済大寺の寺主となっている。・・・
大安寺の旧本尊・乾漆造釈迦如来像は『大安寺資財帳』に天智天皇発願の像と記され、名作として知られていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA
⇒厩戸皇子は、仏教の国教化を目指し、大安寺を創建することで、そのための聖職者の養成に着手した。(太田)
◦飛鳥寺
「蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。・・・
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。飛鳥寺がこうした庇護を受けた背景には、同寺が当時の日本における仏教教学の研究機関としての機能を有した唯一の寺院であり、朝廷創建の大官大寺や薬師寺をもってこれに代わることができなかったとする説がある。また、飛鳥寺がこうした機能を持ちえた背景には、唐において玄奘に師事して帰国した道昭が後に唐から持ち帰った経典の数々や弟子の学僧と共に飛鳥寺に居住したことがあったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%AF%BA
⇒厩戸皇子は、飛鳥寺なる鎮護国家教仏教の本拠をつぶすのではなく、仏教の学術研究センター化することによって、神仏習合教の教義の構築を目指した。(太田)
◦法隆寺
「用命天皇が病床につかれた時、歳は丙午に次(やど)れるの年(用明天皇元年、五八六)に、 大王天皇(用明帝の妹の推古女帝)と太子(聖徳太子)とを呼んで、「病気が治りたいと思うから、 寺をつくり、薬師像を祀って祈りたい」と仰せになった。
しかし、用明天皇は、崩御(用明二年、五八七)され、この造寺造仏を果されなかったので、推古天皇と聖徳太子が用明帝の遺願に従って歳は丁卯に次(やど)れる年(推古十五年、六〇七)にそのことを果した。とある。・・・
<確かに、>法隆寺の金堂(本尊 を安置する中心堂)の中<に>薬師如来像<が安置されている。>」
http://www.narayaku.or.jp/m/narayaku/nara_info02_1.html?pid=70
⇒厩戸皇子が、そのような現世利益を仏教がもたらす、と信じていたとは思わないが、推古天皇の要請もあり、そうした、ということだろう。
当然かもしれないが、法隆寺の本尊は薬師如来像ではなく、釈迦如来像だ。↓(太田)
「厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。
法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。・・・
金堂の中央に安置され<てい>る本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘を持つ釈迦三尊像であ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
「釈迦三尊像(国宝)の脇侍は寺伝では薬王菩薩・薬上菩薩と称している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A
「もとは、・・・金堂に安置してあった・・・玉虫厨子<の>・・・須弥座の絵画のうち「捨身飼虎図<(注39)(しゃしんしこ)>」と「施身聞偈<(注40)(せしんもんげ)>図」はジャータカ、つまり釈迦の前世の物語である。「捨身飼虎図」は、薩<埵>王子・・・が飢えた虎の母子に自らの肉体を布施するという物語で、出典は『金光明経』「捨身品」である。この図は「異時同図法」の典型的な例としても知られ、王子が衣服を脱ぎ、崖から身を投げ、虎にその身を与えるまでの時間的経過を表現するために、王子の姿が画面中に3回登場する。「施身聞偈図」の出典は『涅槃経』「聖行品」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%99%AB%E5%8E%A8%E5%AD%90
(注39)薩埵王子と虎の説話。
http://toshiou1048.sakura.ne.jp/satsu.pdf
(注40)雪山童子(せっせんどうじ)と羅刹(らせつ=鬼。実は帝釈天)の説話
http://kitaise.my.coocan.jp/ise33-0805.htm
⇒厩戸皇子は、法隆寺を創建し、玉虫厨子を通じ、神仏習合教の核心的教えが人間主義の意義を理解し実践することであることを示し、同寺を、この教えを広める拠点にしようとしたわけだ。(太田)
◦広隆寺
「・・・『書紀』に推古天皇11年(603年)、秦河勝が<厩戸皇子>から仏像を賜ったことが記されているが、『書紀』には「尊仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が・・・<現存する>2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はない。
このほか、・・・『書紀』には、<厩戸皇子が死去した622年の翌年の>推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、請来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
が、私は、秦河勝が送られたのは弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)に違いないと思っており、この仏像なら、必ず秦が、皇子の希望する通り、秦氏の氏神の大酒神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%85%92%E7%A5%9E%E7%A4%BE
の境内ににその仏像を奉納する仏教寺院を建ててくれると確信していた、とふんでいる。
その目的は、大酒神社が、主祭神としてその筆頭である秦始皇帝を始めとする、秦氏のご先祖様計3柱を祭っていたと考えられるところ、神道形式で日本の神々ではない神々を祭った、このような神社で神仏習合を本格的に実験してみて、神罰なり仏罰なりといったものがもたらされないことを人々に示し、その上で、その次に、日本の神々を祭った神社において神仏習合を実践しようとした、と、私は見る。(太田)
◦中宮寺
「開基(創立者)<が厩戸皇子>または<その母親の>間人皇后とされている・・・尼寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA
「中宮寺の本尊像は、右脚を左膝に乗せ(半跏)、右手を頬に当てて考えるポーズを取る(思惟)、典型的な半跏思惟像である。この像は古来如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性が高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E8%BC%AA%E8%A6%B3%E9%9F%B3
⇒厩戸皇子創建説を採りたい。
創建目的は、以上全てを念頭に置いたところの、仏教において等閑視されがち(典拠省略)な女性向けの寺の必要性を訴えるため、と見る。(太田)
え 遣隋使留学僧達の事績から窺われること
今度は、遣隋使留学僧達の事績から、厩戸皇子の意図を探ってみよう。
「608年(推古16年)~609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直福因<(注41)>(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明<(注42)>(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀<(注43)>(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として僧旻・南淵請安<(コラム#11164、11192)>・志賀漢人慧隠<(注44)>(しがのあやひとえおん)[、新漢人広斉(いまきのあやひとこうさい)の]8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/0ee23c2ae204c36a72e01d1c2d705e2b ([])
(注41)「滞在は15年に及び、推古天皇31年(623年)新羅使の大使・智洗爾(ちせんに)に従い、薬師恵日と同行して唐より帰国し、ともに唐との通交について上申している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E6%BC%A2%E7%A6%8F%E5%9B%A0
(注42)「奈羅訳語氏(ならのおさし)は古代の渡来系氏族。秦氏の一族。・・・「訳語(おさ)」とは通訳のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E7%BE%85%E8%A8%B3%E8%AA%9E%E6%B0%8F
(注43)「推古天皇16年9月11日 隋客裴世清の帰国に学生として同行する。」
https://rekichi.net/s/80013272
(注44)「推古天皇16年9月11日 隋客裴世清の帰国に学問僧として同行する。」
https://rekichi.net/s/51116820
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[2回目のティータイム]
「薬師恵日(くすしのえにち、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人・医師。高句麗系渡来人・徳来(とこらい)の5世の孫。・・・
推古天皇16年(608年)第三回遣隋使において、恵日は小野妹子に随行して隋に渡り医術を修得する。・・・『続日本紀』・・・『日本書紀』推古天皇16年8月5日条に記載される隨行した学生や学問僧計8名の中には、高向玄理・南淵請安や旻の名前があり、また倭漢福因は後の記述で一緒に登場するが、恵日の名前は見あたらない。・・・留学中には、618年の随の滅亡・唐の建国を経験している。推古天皇31年(623年)ともに医術を学んだ倭漢福因や学問僧の恵斉・恵光らとともに、新羅使・智洗爾に従って日本に帰国する。帰国後、唐に留まっている留学生達はみな学業を成し遂げているため日本に帰国させるべきこと、唐は法式が備わり定まれる立派な国であるため常に往来して交流を持つべきことを建言した。
その後、恵日は薬師となり、ついには薬師を姓とした。舒明天皇2年(630年)第一次遣唐使にて、大使・犬上三田耜に従って再び大陸に渡る・・・。以前の恵日の建言通り、舒明天皇4年(632年)遣唐使節一行は学問僧の霊雲・旻や勝鳥養らを連れて帰国する。なお、この時に帰国しなかった留学生の高向玄理・南淵請安は、舒明天皇12年(640年)になって百済・新羅の朝貢使とともに新羅経由で帰国している。
孝徳朝の・・・654年・・・第三次遣唐使では副使に任ぜられ、みたび大陸に渡った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E6%81%B5%E6%97%A5
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「小野妹子らに従って隋に留学した学生,学問僧<が>8人<いたが、>・・・<そ>のうちのひとり<が、>・・・<僧>旻<(みん)だ。
彼は、>・・・留学生活 24年の間,仏教のほか周易などを学び,舒明4 (632) 年遣唐使犬上御田鍬 (みたすき) に従って帰国。彼の周易の講義は中大兄皇子や中臣 (藤原) 鎌足ら大化改新の主導者や蘇我入鹿も聴講した。即位前から交わりのあった孝徳天皇(軽皇子)の信頼も篤<く、>・・・改新政府発足にあたって・・・高向玄理と共に・・・国政諮問機関である国博士となり,大化1(645) 年衆僧を教導する十師・・・のひとり・・・となった。中央官制の制定に尽力し,死去にのぞんで,皇極天皇 (→斉明天皇 ) によって仏菩薩像が造立され川原寺に安置された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%BB-139996
「川原寺(かわらでら)<は、>奈良県明日香村川原にあった寺。・・・,7世紀後半の創建とみられ,天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈り飛鳥川原宮跡であったこの地に建立したという説がある。また『日本書紀』には天武2(673)年,ここで一切経の書写が行なわれたことが記録されている。四大寺の一つとして重要な位置を占めていたが,・・・平城京遷都に際して,奈良へ移転されず飛鳥にとどまったので,第一級の官寺の地位を失った。・・・
前庭に塔と金堂が向かい合う伽藍配置,従来の高麗(こま)尺に対して唐尺の採用が明らかにされた。礎石は花コウ岩と大理石(金堂のみ)を用い,鐙(あぶみ)瓦も素弁,単弁から初めて複弁蓮華の出現をみる。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E5%AF%BA-48384
「蓮華」が登場したが、「法華経<は、>・・・『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(・・・「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意)の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」・・・が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」・・・が「法」、「プンダリーカ」・・・が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」・・・が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
⇒具体的には、南渕請安について取り上げた過去コラム(既紹介)に譲る。(太田)
(イ)聖徳太子コンセンサス中の仏教論のその後の展開
あ 道昭(629~700年)
「第16代百済王・辰斯王の子である辰孫王の後裔<とされるが、>・・・南朝系百済人<の後裔>だと<する説もある>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%BE%B0%E7%88%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%81%B5%E5%B0%BA
<だが、父親の船恵尺(ふねのえさか)は、「645年)に発生した乙巳の変において、蘇我蝦夷の自害に居合わせ、その現場である焼け落ちる邸宅にあった『天皇記』『国記』のうち『国記』を火中から取り出して持ち出したという。のちに、焼失を免れた『国記』は中大兄皇子(後の天智天皇)に献上したとされるが、現存していない。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、という説も存在する。」(上掲)》
・・・653年・・・、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。・・・
<玄奘三蔵は、>禅の修行をすすめ、道昭はそれを守った。・・・
飛鳥寺(別称は法興寺、元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学の初伝となった・・・。
・・・晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。
・・・没した際、遺命により日本で初めて火葬に付された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%AD
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[法相宗]
「この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。また、基と同じ玄奘の門人である円測の系統も広義では法相宗と呼び、門人の道證の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず開元年間には基の系統に吸収されてしまった。
玄奘と・・・慈恩大師・・・基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690年 – 705年)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、安史の乱や会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。その後、宋・元の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられている・・・
日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。
653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。
717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97
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ちなみに、玄奘三蔵の事績には慈善も建設事業もない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%94%B5
但し、キリスト教、仏教を問わず、慈善的公共工事を行った事例は乏しくない、との指摘もないわけではない。↓
「橋、あるいは橋を架ける、橋を渡るという行為が、洋の東西を問わず古代から現代に至るまで人間の死生観に深く関わってきたことは、これまで何度も指摘されてきたことである。・・・
したがって、必然的に架橋や橋の修復といった行為には宗教者が大きく関わることになる。ラテン語で聖職者を表すpontifexという語が元々、橋(pons)を作る(facere)人、という造語であるということは、その典型的な例としてあげることができよう。そして言うまでもなく仏僧もまた、架橋の担い手として古来、活躍してきた。仏教徒にとっての橋、あるいは橋を架けるという行為は、単なる社会事業や異界との交通という面に加え、「度彼岸」という菩薩行としても意識されていたのである。
古代よりきわめて高い架橋の技術を有していた<支那>においては、橋と仏教との関係が隋から則天武后の時代においてピークを迎えるようである。
架橋に関する碑文を網羅的に調査した川勝守・・・によれば、隋代以降の特徴として「建設者には村民や県の老人などの一般庶民があたっている」ことが見受けられ、しかもその庶民の集団は架橋を「捨身の行にも比す利益衆生の大乗菩薩道と観念」している「一地域的仏教集団」であることがわかるものが多いと言う。碑文によっては「石橋を造ることが一乗(法華一乗か)の化他行とされている」ものもあるという。
日本における代表的な例は、道登による宇治橋の架橋(と、叡尊らによる修復工事)であろう。日本最古の石碑とされる所謂「宇治橋断碑」は、<支那>のそれと比較すると規模も文章も短く、素朴な(言い換えれば稚拙な)ものであるが、
浼浼横流 其疾如箭 修修征人 停騎成市
欲赴重深 人馬忘命 従古至今 莫知杭葦
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家
大化二年 丙午之年 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸
法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其苦縁
とあるように、ここに見える「人畜を済度せん」「果を彼岸に成さん」という表現に<支那>の碑文との共通性を見出すことができる。・・・
行基は先天的に成仏の可能性のない人間の存在を認めず、一切の衆生は悉く仏性ありと説く摂論宗系の唯識学の立場をとっていた<とも解しうるところ、>道昭は五性格別説を立てる法相唯識学の導入者であるから、仏教学の立場が異なり、師弟の関係はないと言えるだろう。」
https://moromoro.jp/morosiki/resources/200303kiyo.html
私は、日本の場合、聖職者(仏僧)が(公共工事を含む)慈善事業を行う、という事例が、その歴史を通じて続いた点、及び、その根源的理由が、仏教というよりは、日本文明に内在する人間主義による点、が、ユニークであった、と考えている。
い 行基(668~749年)
行基(668~749年)は、「王仁を祖とし河内国・和泉国に分布する百済系渡来氏族<出身。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BF%97%E6%89%8D%E6%99%BA
「行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。・・・
仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。・・・
飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び・・・教えを受けたとされる道昭<の>・・・井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA
「律令制の下、民衆は調庸といった租税の納付や役民として役務が命ぜられると、その義務を果たすために、自前の食料で都との間を往復する必要があったことから、飢えや病に苦しみ途中で行き倒れる者が多数生じました。そのため、行基は、利他行の実践のために布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し民衆の救済を図りました。また、利他行を布教する傍ら、教えを実践するために、豪族からの資本提供のもと、農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めていきました。こうした活動により、行基の教えに従う民衆は日増しに増加し、豪族の土地も潤うこととなりました。723年には、三世一身法が定められ、これまで公有を前提としていた土地制度が改められ、土地を開墾した場合に一定期間の私有が認められたことで、自発的な開墾が促されました。こうした土地制度の変更にも後押しされて行基の活動は更に広まり、その名声も更に高まっていきました。このような行基の社会事業は、やがて朝廷も認めるところとなっていきました。」
https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html
「行基<は、>・・・河内国・・・で天智天皇7年(668年)、父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる。天武天皇11年(682年)に15歳で大官大寺で、得度を受け出家し法行と称した。持統天皇5年(691年)、24歳で戒師の高宮寺徳光禅師のもと受戒する。飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び名を行基と改めた。教えを受けたとされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名であり、それとともに井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている。・・・704年・・・、生家を家原寺に改め、母と大和の佐紀堂で暮らす。40歳で生駒山の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間喪に臥す。
知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した・・・だが、・・・717年・・・4月23日、詔をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、これら新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた僧尼令に違反するとされ、糾弾されて弾圧を受けた。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみである。
その後も、・・・730年・・・9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしているとされた・・・。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、・・・731年・・・に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。・・・736年・・・に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。・・・738年・・・に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた・・・。
三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなる。やがて聖武天皇の方から接近して、行基は740年・・・から聖武天皇に依頼され大仏建立に協力する。・・・741年・・・3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し・・・743年・・・東大寺の大仏像造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、・・・745年・・・に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた・・・。「行基転向論」として民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説があるが、既に権力側の政策からも許容されるものになっており、さらに行基の民衆に対する影響力を利用したと考えられている。また、行基に対して好意的な聖武天皇と否定的な光明皇后の間にずれがあり、それがその後の政治対立にも影響を与えたとする説もある。
大仏造営中の・・・749年・・・、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅・・・、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。
行基が迎えた菩提僊那は後の・・・752年・・・、聖武上皇の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。
行基没後の宗教集団には・・・773年・・・に国家の援助を与えるとともに、民衆への布教を禁じ規制を強めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA
⇒結果としてであれ、天武朝の鎮護国家教たる仏教の広告塔を務めてしまったことで、行基及び彼の率いる法相宗系宗派は、復活天智朝によって、直ちに抑圧されることとなった、ということではなかろうか。(太田)
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[3回目のティータイム]
「702年に日本から派遣された遣唐使の中に[留学僧<の>]弁正がいた。
[<当時>まだ皇子であった李隆基(のちの玄宗)]と弁正は囲碁を通じて親しくなった。
[故宮博物館に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。]
その後、弁正は[還俗し、唐人の女性と婚姻したと想定され、<唐で>息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている。
秦朝元は・・・718年・・・の第9次遣唐使の帰国に従って訪日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で]・・・病没する<。>
・・・秦朝元が遣唐使の一員として唐に戻った際には玄宗は特に手厚くもてなしたと言う(『懐風藻』)。
玄宗は日本からの遣唐使に対しては好意的な対応を行っており、日唐関係は安定した時代を迎えた。
その背景として玄宗が弁正を介して日本に対して好意的な姿勢を抱いたからとする見方がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%AE%97_(%E5%94%90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%AD%A3 ([]内)
「秦朝元(はたのあさもと)は、・・・官位は外従五位上・主計頭。・・・<若い頃、>医術に優れる<とともに、>・・・唐語<を朝廷で教えた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%9C%9D%E5%85%83
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う 天武朝(672~770年)下の藤原氏
「710年・・・の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は<父親の鎌足が建立した>厩坂寺<(うまやさかでら)>を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。・・・
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した・・・720年・・・には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA 前掲
⇒藤原氏が事実上の皇別(こうべつ)氏族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%88%A5
である、という認識が、この頃までに確立した、ということだろう。(太田)
「春日大社<は、>・・・奈良・平城京に遷都された・・・710年・・・、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もあるが、社伝では、・・・768年・・・に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE
⇒藤原氏は、興福寺に隣接して春日大社を建立することができる機が熟するまで、慎重に時を待った、というわけだ。
そして、以下のように、機が熟して行く。↓(太田)
「薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。・・・
休ヶ岡八幡宮(重文) – 南門を出て、公道を横切った向かい側の敷地にある。・・・
木造僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命坐像(八幡三神像<(注45)>) – 平安時代初期の作。
(注45)「神道においては古くは、カミの依り代(よりしろ)である鏡、玉、剣が崇敬されてきた。仏像の影響により、神像が制作されるようになったが、仏像とは異なる特徴を持つにいたる。
木彫の坐像が多い。男神像の髪型はみずらまたは冠をかぶった衣冠装束が多く、女神像は十二単を着用しているものもある。神社に安置される神像は「ご神体」とされて一般に公開されることはあまりなく、寺院における仏像とは対照的である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%83%8F
いずれも像高30数センチの小品で、薬師寺の鎮守八幡宮の神体として作られたもの。日本の神像彫刻は仏像の影響を受けて作り始められたもので、薬師寺の三神像は日本の神像としては現存最古作の1つである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA
⇒薬師寺とその鎮守八幡宮との関係は、興福寺と春日大社の関係と同じく、隣接関係だが、薬師寺の場合は、その鎮守八幡宮の神体を神像にした点で、神仏習合の新しい様式を樹立した、というべきか。
え 復活天智朝(770年~)下の藤原氏
「藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、・・・813年・・・、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空羂索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE 前掲
「・・・中臣氏から分かれた藤原氏が氏神として春日大社を創建した際には、<現在の東大阪市に所在する>牧岡神社<の>・・・祭神4柱のうち2柱として当社の天児屋根命・比売神の分霊が勧請されており、それに由来して「元春日」とも称される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E5%B2%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
⇒そして、神仏習合教の生成につれて、次第にこの寺社の習合を進め、春日大社/興福寺の広義の神仏習合教化を図った、というわけだ。
しかし、法相宗から真言宗や天台宗に乗り換えることはせず、天武朝が建立した平城京を中心とする鎮護国家教仏教の諸寺院全ての神仏習合化を促す拠点とした、ということではないか。(太田)
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[太子信仰]
日本の少なからぬ仏教諸派は、厩戸皇子を日本における仏教の祖、ないしは菩薩の化身、と見て来た。
垂迹としての聖徳太子、すなわち、垂迹太子だ。↓
「『上宮太子菩薩伝』や『聖徳太子伝暦』といった伝記には、聖徳太子が救世菩薩や観音化身として描写され、太子が観音や菩薩の化身であるとする信仰が奈良時代から芽生える。
やがて中世には、聖徳太子が観音(如意輪観音)の化身であるという信仰が法隆寺などには見られ、古来より同寺では「南無観音化身上宮太子」と太子の名号を唱えている。
一方で、観音菩薩が阿弥陀如来(本地)の脇士であることに起因して、太子信仰は阿弥陀仏を崇敬する浄土信仰とも深く結びつくこととなる。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&ved=2ahUKEwiFho-DmbjpAhVCHKYKHRrYCAUQFjABegQIBhAB&url=https%3A%2F%2Fshitennojiuniversity.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D276%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D21&usg=AOvVaw2ReTVNc6bJRXv8lgZ8zKlE
「「垂迹」の語は、<厩戸皇子著とされる>『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』に<既に>見えてい<る>。・・・
唐の道宣の『広弘明集』が収録する梁の簡文帝の「唱導文」中に、「礼救世観音」(大正52巻、205c)とあ<る>し、簡文帝の父である武帝は内外で「救世菩薩」と呼ばれてい・・・た。日本に仏教を伝えた<ということになっている>百済は、この梁代仏教を模範としてい・・・たので、太子を救世観音とする信仰については、梁の仏教と百済の仏教の影響を考えた方が良いように思<う>。」
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/3192206bcb87fcdbd2ba878080e674ee
それには、偽書が与る所大ではあるけれど、かかる偽書は、単に、それまでに伝説化していたところの、厩戸皇子の仏教がらみの諸事績をまとめ上げただけであったのではなかろうか。↓
「『聖徳太子平氏伝』ともいわれる。漢文,編年体の詳細な聖徳太子の伝記。・・・編者は平安時代前期の歌人藤原兼輔 (877~933)・・・<とされる>が、今日では、強く疑問視されて<いる。 >・・・917・・・年成立。難波の百済寺の老僧所伝の古書により編述。鎌倉時代以後に現れた多くの太子伝は,主としてこの書によった。欽明 31 (570) 年太子の父用明天皇が穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇女を妃としたときから太子の出生,在世中,没後の大化1(645) 年まで年代を追って記している。その記事は必ずしも信をおきがたいが,後世の太子信仰に及ぼした影響はきわめて大きい。『続群書類従』所収。」
https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E4%BC%9D%E6%9A%A6-79617
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お 最澄(766/767~822年)
最澄は、まさに、厩戸皇子が最も重視したところの、法華経を根本経典とする天台宗の日本への継受を、私の言う桓武天皇構想の主の桓武天皇から命じられた人物だ。↓
「<支那の>天台宗は、・・・妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
「天台宗の教えは、円・密・禅・戒・念の五つの教えから成ります。特に顕教と呼ばれる円(法華経)・禅(坐禅止観)・戒(戒律)・念(浄土念仏)の四つの教えと、密教を融合させた、顕密一致の教えを標榜しております。」
http://www.fukusyoji.com/houwa/houwa_1390537696.html
「801年南都の大徳10人を招いて法華会を修し,翌年には自ら高雄山寺で天台法華一乗を説いた。・・・<同>年,桓武天皇から入唐の勅命を受け,・・・804年空海,橘逸勢(たちばなのはやなり)らとともに入唐。天台山で道邃(どうずい),行満らに師事,・・・翌年帰国。806年に天台宗の開創を許され・・・た。しかし天台宗に対する旧仏教の反対は強く,法相宗の徳一との間の〈三乗一乗権実(ごんじつ)論争〉,819年に願い出た大乗戒壇創設(《山家学生式(さんげがくしょうしき)》)に対する僧綱,南都の反対,それに対する《顕戒論》の執筆など,天台の宣揚に努めたが,生前に戒壇の勅許はなかった。弟子に義真,円仁らがあり,日本仏教の主流を占める人びと,ことに鎌倉時代の新仏教の指導者たちは,すべてこの門から出た。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%80%E6%BE%84-68072
か 空海(774~835年)
空海は、法華経も重視しつつ、密教なる、神仏習合教を後付けで正当化するための教義を導入するとともに、(公共工事を含む)慈善事業を行った。↓
「朝廷の高官を養成する奈良の大学寮では土木技術を教えていなかったのである。それを学べるのは、当時は奈良の官大寺くらいであっただろう。
奈良の官大寺には、唐に留学した際<支那>の土木技術を修得した僧(例えば道昭)や、そういう僧から直接手ほどきを受けた僧(例えば行基)がいたし、仏教僧の必修として「五明」を教えていて、そのなかに工芸・技術・天文暦・占術を学ぶ「工巧明」があった。「五明」とは、「声明(誦唱・音韻)」・「工巧明」・医方明(医学・薬学)・因明(仏教論理学)・内明(仏教教理学)で、いずれも唐からもたらされたものである。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat37/post-172.html
「821年・・・、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。・・・
828年・・・には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
「828<年>、嵯峨同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海を・・・大輪田泊・・・の造船瀬所別当に任じ、港湾整備の指導監督にあたらせる。」
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat37/post-172.html 前掲
「822年・・・、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に灌頂を授けた。・・・
832年・・・8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定<(注46)>を好む日々であったと伝えられている。・・・
(注46)「サンスクリット語の dhyāna の音写である禅と、訳した定の複合語である。・・・
仏教の三学の戒・定・慧と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とは一体になっている。・・・
日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても、禅定を得るための様々な方法論が派生してきたといわれる。曹洞宗・臨済宗における坐禅はもちろんのこと、天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し、真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する。浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える。時宗においては踊りながら念仏を唱え、日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える。いずれの方法論も、思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A
・・・834年・・・2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱<(注47)>を置くことが許されている。
(注47)さんごう。「仏教寺院において寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称。所司(しょし)とも呼ばれている。
三綱にあたる僧職のうち、上座は一般的には年長の高徳者が任じられる寺院の最高責任者、寺主は寺院内における事務・経営の責任者、都維那は僧尼の戒律・学問に関する監督責任者である(ただし、上座と寺主をいずれを上位とするかには異説もある)いずれもインドあるいは<支那>に由来を有する役職である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B6%B1
・・・835年・・・、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
この空海に、復活天智朝は、天武朝の鎮護国家教仏教の総本山を「接収」させている。↓
「8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、・・・733年・・・、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、・・・728年・・・、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。・・・741年・・・には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌・・・742年・・・、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは・・・747年・・・で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは・・・748年・・・が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の・・・743年・・・である。・・・
天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは・・・752年・・・のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは・・・758年・・・のことであった。・・・
平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けたが、唐から帰国した空海が別当となり、寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。朝夕の看経には、『理趣経』が今も読まれている。華厳経的世界の象徴である毘盧遮那仏(大仏)の前で理趣経が読まれるのは、空海が残した痕跡と言ってよい。 また、講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。・・・
真言院 南大門から中門に至る参道を西に入った所にある。東大寺の別当も務めた空海が、・・・821年・・・、勅許を受けて開設した灌頂道場が始まりであり、南都における真言教学の拠点となった。重要文化財の地蔵菩薩立像と四天王像を有する。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
⇒東大寺と手向山八幡宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%90%91%E5%B1%B1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
との微妙な関係はコラム#11192参照。(太田)
き 源頼朝(1147~1199年)
源頼朝は、厩戸皇子と法華経を崇敬するとともに、神仏習合教を実践した。↓
「『吾妻鏡』によると・・・5月20日午前6時頃、京都を出発。
洛中は牛車で、鳥羽からは丹後局から借りた船で進み、日中に渡辺の津に到着。
再び牛車で四天王寺に向かう。
北条政子の牛車が並び、女官の牛車が続く。
先陣の随兵、牛車に続く供奉人、後陣の随兵は皆騎馬。
正午頃に四天王寺に到着。
まずは寺門の外の念仏所に入り、続いて本尊を参拝。
灌頂堂で待っていた別当の定恵法親王に挨拶し、重宝を拝見して宿所へ。
その後、銀製で蒔絵が施された御剣を太子堂(聖霊院)に奉納。
定恵法親王には、銀製の鞍を置き、組み緒を掛けた灰色に少し白い毛がまじった馬一頭が贈られ、寺中の僧侶には絹の布類が与えられた。
※定恵法親王は後白河法皇の皇子。」
https://www.yoritomo-japan.com/oosaka/sitennouji-yoritomo.html
「源頼朝は、法華経の写経や埋経、暗誦(あんじゅ)などを行い、「法華八幡の持者」と称された。
1185年・・・1月1日、源頼朝、鶴岡宮に詣で、神馬2疋を奉納す、次いで法華経供養を行う、尊暁導師を勤む、(吾妻鏡)
1188年・・・4月23日、源頼朝、持仏堂に於て法華経講讃を始行す。宝蔵坊義慶唱導師を勤む、(吾妻鏡)
1190年・・・8月15日、鶴岡宮放生会、次いで法華経供養を行う。源頼朝参詣す、舞楽あり、(吾妻鏡)
1191年・・・8月15日、鶴岡宮放生会、源頼朝参詣す、次いで法華経供養を行う、導師安楽坊重慶、童舞は筥根の児童これに奉仕す、(吾妻鏡)
1195年・・・2月11日、神楽あり、将軍頼朝参詣す、次いで宝前に於て法華経を供養す、永巌坊定豪導師を勤む、(吾妻鏡)
墓所・霊廟・神社<は、>・・・鶴岡八幡宮境内の白旗神社
死後、頼朝の亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は・・・1200年・・・から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
く 重源(1121~1206年)
重源は、(公共工事を含む)慈善事業を行った。↓
「<大輪田泊は、>鎌倉時代には東大寺の勧進重源の修築により大いに復興した。以後この港の修築は東大寺が行っている。東大寺は周防にある寺領地の租米を運ぶのにこの港が大いに役立ち、朝廷や幕府も西国から租米を運送するのにここを上陸拠点とした。この時代にこの港はわが国随一の交易港となり「兵庫津」とよばれるようになった。
重源は、1196・・・、ここに「兵庫関」という関所を設けて通行料(関銭)をとり、・・・1180・・・)平重衡によって焼かれた東大寺の再建や「大輪田泊」の修築の資金にした。後にこの関所は南北2ヶ所に分かれ、北を東大寺が南を興福寺が管轄し収入をあげながら争ってもいる。
重源はまた荒廃していた「魚住泊」や「河尻泊」も修築した。伝えでは漁民や村民の要望に応えたといわれているが、おそらく兵庫関と同様に東大寺復興資金対策であっただろう。
重源はこのほかにも、摂津沿岸から大坂湾一帯を通る年貢輸送の船から1石に対し1升の米を徴収したり、山陽道の難所や伊賀の悪路を通行できるように整備し、東大寺復興のための各種用材(周防産)や瓦(備前・伊勢産)を東大寺に運ぶ要路を確保したりして、「大勧進」と称されるようになった。
建久年間には、備前が重源に、播磨が文覚に付され、それぞれ東大寺と東寺の造寺料(官寺である両寺の諸堂伽藍を造営する際の資糧をまかなう料田)とするなど、空海ゆかりの両寺が摂津の隣国にまで領地をのばした。
ちなみに重源は、13才の時に醍醐寺に入り、のち高野山で修学した真言僧である。四国・熊野でもたびたび修行を積み、3度入宋したともいわれている。」(上掲)
け 叡尊(1201~1290年)
叡尊は、聖徳太子信仰を広めるとともに、慈善事業を行った。↓
「興福寺の学僧・慶玄の子・・・高野山に入り真言密教を学ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A
「叡尊は荒廃した既存仏教に対する批判から・・・これまで国家が定めた手続きによる方法しか認められていなかった出家戒の授戒を自らの手で行った(自誓授戒)。・・・<また、>、朝廷の許可なくして独自の戒壇を設置した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%BE%8B%E5%AE%97
「聖徳太子信仰や文殊信仰、真言密教(光明真言)などを広めた。殺生禁断、一部の仏教宗派が救済対象としなかった女性や貧者、ハンセン病患者などへの慈善、宇治橋の修繕といった社会事業にも尽くした。このため非人・癩病者から公家、鎌倉幕府執権、後嵯峨上皇・亀山上皇・後深草上皇などの皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A (コラム#11316)
「当初叡尊自身やその門人は真言宗の再興の一環として出家戒を基とする律宗再興を図ったものであり、自らを真言宗の一派である「西大寺流」として規定して行動していた。しかし、当時においては律宗の新派と見られていた<し、>・・・近年で<も>これを真言宗・律宗の枠を超えた新宗派である・・・真言律宗・・・として「鎌倉新仏教」の1つと見る説もある・・・
後継者である信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられてこれを末寺化するなど、教派の拡大に努めた。自身に厳格で寺院再建のノウハウを積んだ真言律宗の僧侶主導の勧進活動に対する評価の上昇はやがて他の律宗諸派再興の動きを促し、一時は真言律宗を含めた律宗は禅宗・浄土宗などと勢力を分けて日蓮より「律国賊」との非難を受けるほどであった。・・・
また元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものであったと認識されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%BE%8B%E5%AE%97 前掲
こ 日蓮(1222~1282年)
日蓮は、法華経を広めることにその生涯を捧げた。↓
「得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされる。・・・<1281>年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状を作成(「園城寺申状」<(注48)>と呼ばれる)、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇<(注49)>はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」<(注50)>との下し文を日興に与えたという。・・・滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
(注48)「弘安4年(1281年)、第2回蒙古襲来(弘安の役)に前後して、日蓮は鎌倉幕府に対する諫暁が事態の改善にならないことを鑑みて天皇に対する諫暁を決意し、朝廷に対する申状を執筆した(その申状は「園城寺申状」と呼ばれる)。その上で日蓮は日興に指示し、京都に上って同申状を後宇多天皇に上奏せしめた。日蓮は翌、弘安5年(1282年)、さらに日目に命じて再度、朝廷に上奏せしめている。・・・園城寺申状と朝廷からの下し文は現存しないが、日興が入滅した元弘3年(1333年)の時点では存在していた。・・・
<なお、>日興<(1246~1333年)は、>・・・日蓮の高弟六老僧の一人であり、・・・日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%88
(注49)1267~1324年。天皇:1274~1287年。「大覚寺統の天皇。中世日本最高の賢帝の一人で、対立する持明院統の花園天皇からも「末代の英主」と称えられた。第一次院政期に訴訟制度改革に取り組み、大きな業績を残した。しかし、晩年は真言宗の修行への傾倒が過剰で政治を疎かにしたとも言われ、花園は「晩節を汚した」と批判する。一方、あえて政治の場を離れたのは、子の後醍醐に親政をさせて天皇としての威信と経験を積ませ、大覚寺統体制を盤石にするための、意図的な判断だったとする説もある。いずれにせよ、賛否両論の晩年を入れても総合評価として英主という評は不動であり、その政治改革は後醍醐の建武政権を通して室町幕府の政策にも影響を与えている。
好学の天皇だった。書道では宸翰様の名手としても知られ、『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(大覚寺蔵)など数点の書作品が国宝に指定されている。また、和歌にも優れ、二条派の有力歌人の一人であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
(注50)当時、日蓮は、身延を拠点にしていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%88 前掲
現在、身延山(山梨県南巨摩郡身延町と早川町の境にある山)には、日蓮宗総本山久遠寺がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E5%BB%B6%E5%B1%B1
⇒日蓮の諫暁に対し、(臨済宗に帰依していた)得宗達は無視ないし弾圧したのに、(真言宗に帰依していた)後宇多天皇は感状を与えたところに、傑出した天皇の一人であった後宇多に限らぬ、歴代天皇の凄さが垣間見える。
日蓮については、後で、改めて詳細に取り上げる。(太田)
さ 北条得宗家
北条得宗家は、厩戸皇子を崇敬するとともに、縄文的弥生人の縄文性回復・維持に最適な仏教宗派として、臨済宗に着目し、盛り立て、かつまた、人間主義的統治に努めた。↓
◦泰時(1183~1242年。第3代執権:1224~1242年)
「御成敗式目・・・の形式(十七条憲法の3倍の条文数)も中身(道理。徳地主義≒人間主義)も同コンセンサスを体現している」(コラム#11320)
(なお、泰時の異母弟である重時については、コラム#11334参照。)
◦時頼(1227~1263年。第5代執権:1246~1256年)
「若くして実父時氏と死別したため、祖父・北条泰時に養育される。・・・
南宋の僧侶・蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、その後兀庵普寧を第二世にし兀庵普寧より嗣法している。・・・1248年-1249年・・・にかけて、道元を鎌倉に招いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
「<12>46年・・・執権となった・・・直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年・・・には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。・・・52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。・・・
1256・・・年11月,病を得て執権職を北条長時に譲り,最明寺において出家,最明寺入道覚了房道崇と号した。しかし,長時に譲った執権職は嫡子時宗が成人するまでの中継相続的なもので,しかもやがて病の癒えた時頼は再び幕政をみた。この時頼の権力は執権職をはなれた得宗(北条氏の家督)としての立場によるものであったから,時頼の政治をもって北条氏得宗専制の萌芽とする考え方がある。・・・
1249・・・年・・・12月に裁判の公正・迅速をはかるため引付を新設して御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させるなど,その政治は御家人たちの支持を得<るとともに、>・・・<1253>年10月,13カ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど,その政治は祖父泰時の政治とともに仁政とうたわれて人望を得,ついには諸国を廻って民情を視察し勧善懲悪をおこなったという廻国伝説を生むに至った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC-132165
し 後宇多天皇(1267~1324年。天皇:1274~1287年)
後宇多天皇は、臨済宗の振興に努めるとともに、神仏習合教正当化教義を提供した真言宗も重視した。↓
「もともと禅宗はどちらかといえば後醍醐ら大覚寺統が支持する新興宗教であった・・・
亀山上皇(後醍醐祖父)は京都南禅寺を開き、後宇多上皇(後醍醐父)は鎌倉幕府からの許可を取った上で南禅寺に鎌倉五山に准じる寺格を認めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
「後宇多天皇<は、>・・・第一皇子である後二条天皇(94代)の治世、・・・1301年・・・から・・・1308年・・・まで院政を敷いた。
・・・1307年<、>・・・<真言宗の>仁和寺で落飾(得度)を行い、・・・そのとき、<同じく真言宗の>大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌・・・1308年・・・には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。
この頃から、真言密教に関心を深め、・・・1313年・・・、かねてからの希望であった高野山参詣を行った。・・・真言密教に関する著作として『弘法大師伝』『後宇多天皇宸翰御手印遺告』などがある。
大覚寺で院政を執ったときに法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨(永代にわたり有効たる宣旨)を出した・・・
また、大覚寺と並んで<、これまた真言宗の>東寺に対しても積極的な庇護を与え、・・・1308年・・・には後二条天皇からの勅命の形で東寺及び広沢流と縁が深い益信に「本覚大師」の諡号を授与したことに延暦寺が反発、真言宗と天台宗の争いに発展するだけでなく持明院統や鎌倉幕府まで巻き込むなど政治問題化した。・・・
持明院統の花園天皇を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が・・・1318年・・・に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
日蓮との関係については後述。
す 後醍醐天皇(1288~1339年。天皇:1318~1339年)
後醍醐天皇は、厩戸皇子の申し子のような人物であり、同皇子に傾倒し、歴代天皇中臨済宗の最大のスポンサーとなり、かつ、(公共工事を含む)慈善事業を推進した。↓
「後醍醐の興禅事業は父祖の延長にあるものである。・・・
後醍醐天皇は、両統迭立期(1242年~1392年)において最も禅宗を庇護した天皇だった。
後嵯峨天皇から後亀山天皇の治世まで、仏僧に対する国師号授与は計25回行われ、うち20回が臨済宗の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める。・・・
1330年・・・、元から来訪した<支那臨済宗の>明極楚俊(みんきそしゅん)
< https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%A5%B5%E6%A5%9A%E4%BF%8A-640565 >
が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である。・・・
以降の武家思想や武家文化が禅に根ざしてることを考えれば、これらの分野における後醍醐天皇の影響<は>小さく・・・な<く、>・・・鎌倉時代→建武政権→室町幕府→江戸幕府という・・・武家禅宗国家体制<的な>・・・連続性<を与えることによって、>・・・日本史に決定的な影響を与えた・・・
⇒私なりに、大胆に補足すれば、この武家禅宗国家体制が生み出したのが、「足利義政が慈照寺(銀閣寺)の東求堂(1485年・・・)に造った「同仁斎」」等を濫觴とする書院造であり、「その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受け」ることとなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%99%A2%E9%80%A0
ところ、これは、いわば、臨済禅寺空間の一般住宅へのスケールダウンした取入れであり、これによって、日本のほぼ全ての住宅が、神社/寺院的な、人間主義維持のためのミニ拠点、へと転化し、昇華したのだ。
それを象徴するのが、一般住宅への神棚と仏壇の設置だ。
この伝統の精神は、日本間がなくなりつつある現在の日本の住宅にも受け継がれている。(太田)
足利尊氏・直義兄弟によって後醍醐の冥福のために<臨済宗の>天龍寺が創建されたのはあまりにも有名であり、足利義満もまた、後醍醐によって才覚を発掘された<臨済>禅僧夢窓疎石を名目の開山とし、相国寺を建立している。・・・
<ちなみに、>後醍醐天皇の祖父の亀山天皇は、真言律宗の開祖である叡尊に深く帰依したが、後醍醐もまた律宗の振興を図った。・・・
後醍醐はまた、名誉を贈るだけではなく、各地の律宗の民衆救済事業に支援をしたと見られる。たとえば、東播磨(兵庫県東部)では、加古川水系の五ヶ井用水に対し、中世に何者かによって大規模な治水工事が行われ、その結果、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、加古川大堰が1989年に完成するまで、地域の富を生み出す心臓部になったことが知られている。金子哲は、同時代の記録を突き合わせて、この事業は当時まだ20代後半から30代だった文観によって開始されたのではないか、とした。そして、同時期の同地に、文観によって立てられた石塔群が大覚寺統の勢力範囲内にあり、「金輪聖王」(天皇)云々と掘られていることから、これらの事業には後宇多上皇(後醍醐父)や皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの支援があったのではないか、と推測した。
神道家としての後醍醐天皇は、大覚寺統の慣例に則り、当時廃れつつあった伊勢神宮を保護し、外宮の度会家行から伊勢神道を学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一の側近であり中世最大の思想家・歴史家でもある北畠親房も伊勢神道の思想を取り込み、主著『神皇正統記』等に表現したため、日本の哲学・歴史学への思想的影響は大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
「兵藤裕己・・・の主張によれば、・・・絹本著色後醍醐天皇御像・・・で特徴的なのは、法服よりも、頭に通常の冠と冕冠の両方を付けている部分の方にあるという。これは武田佐知子の指摘するように、聖と俗の双方で至高の存在であると当時見なされた聖徳太子を模したものと見られる(・・・太子信仰)。後醍醐父の後宇多は、政敵の花園上皇による評伝によれば(『花園天皇宸記』元亨4年6月25日条)、英邁な君主で真言密教の庇護者ではあったが、晩年に出家して後は真言密教への傾倒があまりに過ぎており、政治が疎かになったという。兵藤の推測によれば、父に対して、後醍醐は聖徳太子を範としており、仏教の庇護者でありながら世俗の世界に留まって政治と仏教のバランスを取っていた太子こそが、王者の理想像だと考えたのではないか、という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E6%9C%AC%E8%91%97%E8%89%B2%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BE%A1%E5%83%8F
この後醍醐天皇の日蓮との関係についても後述。
せ 足利尊氏(1305~1358年)
足利尊氏は、崇敬し続けた後醍醐天皇の向こうを張って、自分こそが厩戸皇子の申し子であると主張した。↓
「足利尊氏が発布した・・・『御成敗式目』<の>・・・17条の条数は,当時の聖徳太子信仰を反映して,『十七条憲法』にならったものであろうといわれている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E5%BC%8F%E7%9B%AE-61108 (コラム#11326)
「足利尊氏は法観寺の寄進状に聖徳太子の生まれ変わりが源頼朝で、その生まれ変わりが自身だとし<ている。>」
http://izayouryusui-midaresetsugekka.hatenablog.com/entry/2018/11/25/000000
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[浄土真宗について]
一 神仏習合教の背教宗派たる浄土真宗
「親鷲は『教行信証』化身土巻(末巻)に
それもろもろの修多羅によって、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誠せば、『浬藥経』(如来性品)にのたまはく、「仏に帰依せぱ、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」
と示しつつ、次に経典、論釈等々を連引して、仏法老の神祇不拝を述べている。
とりわけ『浬薬経』『般舟三昧経』『地蔵十輪経』等の文言が注目される。
特に『地蔵十輪経』<で、>
つぶさにまさしく帰依して、一切の妄執吉凶を遠離せんものは、つひに邪神・外道に帰依せざれ
と・・・説示<しているところだ。>」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/37/2/37_2_717/_pdf/-char/ja
⇒親鸞は、神道そのものを否定しており、従ってまた、神仏習合も否定していた。(太田)
「真宗の寺院では、聖徳太子の画と、インド・<支那>・日本の高僧たち七人を描いた画を本堂にかかげるのが一般的ですが、インド・中国・日本という三国の枠組みは、朝鮮を外し、また中国を相対化して自国の意義を強く意識する平安期およびそれ以後のナショナリズム的な意識と強く結びついていることが、前田雅之さんなどによって明らかにされています。」
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/3192206bcb87fcdbd2ba878080e674ee
二 浄土真宗と太子信仰
(一)始めに
私自身は、厩戸皇子は、阿弥陀信仰どころか、弥勒信仰、とも基本的に無縁であったと見ている(前述)こと、及び、浄土真宗(や浄土宗)が専修念仏を唱えるのはナンセンスだと思っていること、更には、上述したように浄土真宗が神仏習合を否定していることから、浄土真宗を全く評価していないが、浄土真宗(と恐らくは浄土宗)の成立には、皮肉なことに、太子信仰が、大いに関わっている。
(二)太子廟崛偈
「これは、太子の舎人であった文松子が記録したとされる 20 行の偈文<(注51)>である。
(注51)大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身
片域化縁亦巳盡 還帰西方我浄土
為度末世諸有情 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七仏法輪處 大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
印度号勝鬘夫人 晨旦称恵思禅師
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%96%87%E3%82%92%E2%80%A6
このサイト主による読み下し文を以下に掲げておく。↓
大慈大悲の本誓願は、衆生を一子のごとく愍念す。
是の故に方便して西方より、片州に誕生して正法を興ず。
我が身は救世観世音なり、定慧、契るに女は大勢至なり。
我が身を生育する大悲母は、西方の教主弥陀尊なり。
真如と真実は本(も)と一体なり、一体は三を現ずるも同一身なり。
片域の化縁、巳に盡くれば、西方の我が浄土に還帰す。
末世の諸の有情を度せんが為に、父母所生の血肉身を、
此の廟窟を勝地として遺し留め、三骨一廟の三尊位とす。
過去七仏の法輪の處(ところ)にして、大乗相応の功徳の地なり。
一と度(た)び参詣すれば悪趣を離れ、決定して極楽界に往生す。
印度には勝鬘夫人と号し、晨旦には恵思(慧思)禅師と称すなり。
そこには、如来の誓願、末法思想、片州意識、太子救世観音、阿弥陀三尊(三骨一廟)、大乗相応、極楽往生、といったこの時代の仏教受容に関する重要な課題を全て取り込みながら一つの説話を形成している。こうした説話は客観的・歴史的な事実とは言えないので、これまであまり研究の対象にはならなかった。しかし、親鸞がこの「太子廟崛偈」に非常に大きな影響を受けたことは事実である」
http://nbra.jp/files/pdf/2019/2019_01-02.pdf
(三)聖徳太子像
。
こうして、浄土宗、浄土真宗では、厩戸皇子像が、事実上の仏像として、崇拝の対象になり、現在に至っている。↓
「鎌倉・南北朝時代にあって礼拝対象として単独の太子造像が行われ<た。>・・・
「孝養太子」像が作例数において他を圧倒しており、「南無仏太子」像がこれに次ぐ。」
https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/290-298%23%E6%B4%A5%E7%94%B0.pdf
「孝養太子」像。「童子であることを示唆する美豆良髪(もしくは垂髪)と相まって柄香炉を手にすることが『 伝暦』太子16歳条に見える、 父・ 用明天皇の病気平癒のための「擎香爐祈請」という記述と関わると理解されてきたから<だ。>・・・
世において美豆良髪で盤領の袍を着けた「垂迹太子」の本格造像を牽引したのは真宗門徒と・・・唐招提寺系・・・律院<(注52)>であった。」(上掲)
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180309001538.html
「南無仏太子」像
http://www.moaart.or.jp/collections/231/
(注52)「戒律を遵守するものの住する寺院の呼称。・・・日本においては鑑真によって建てられた唐招提寺が最初の律院とされている。浄土宗においては、江戸期浄土律興隆とともに多くの律院が作られた。」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%BE%8B%E9%99%A2
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そ 織田信長(1534~1582年)
織田信長もどうやら、隠れ厩戸皇子崇敬者だったらしいが、彼が、神仏習合教の背教宗派たる浄土真宗を弾圧したことはよく知られている。↓
「聖徳太子の馬を欲しがる信長。ふたりが百済寺まで馬かけくらべをすると…。・・・愛知川沿いに伝承する聖徳太子と織田信長にちなむ逸話」
https://honto.jp/netstore/pd-book_27546829.html
「(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、・・・1570年・・・9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、・・・1580年・・・、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97
比叡山(天台宗)を焼討したではないか、という話については、ここでは立入らない。
た 豊臣秀吉(1537~1598年)
豊臣という名前は厩戸皇子由来であるとの奇説に私は共感を覚えるが、その上で、私は一歩を進め、それは、朝廷側ではなく、秀吉側が考案した、と考えている。↓
「秀吉は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると平氏を称した。これは主君・織田信長を模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の・・・1583年・・・の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の・・・1585年・・・の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記されている。
その後、・・・1585年・・・7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、氏を平から藤原に改める。
そして翌・・・4年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F
「「豊臣」になった由来としては、「羽柴」が信長の家臣で先輩格だった丹羽長秀と柴田勝家の姓から一字ずつもらった例にならい、由緒ある姓の「豊原」と「中臣」から一字ずつとったのではないかという説もある。」
https://194116410.at.webry.info/201010/article_10.html
「豊原氏は代表的な楽家の一つ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%8E%9F%E6%99%82%E7%A7%8B
「<しかし、そうではないのであって、>『日本書紀』に次ぎのようにある。「故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子」<と。>現代訳では、「其の名を称えて、上宮廐戸豐聰耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと)」<となる。>
つまり、「とよとみみ」が聖徳太子の名前である。
この名前の根拠は奈良の元興寺に残る露盤銘の万葉仮名表記「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等」(ウマヤトトヨトミミノミコト)にある。
正親町天皇を頂点とする朝廷は、すでに近衛前久の猶子(養子)となって、関白・藤原秀吉と名乗っていた秀吉が、自ら天皇になる野望(皇位簒奪)を防ぐため、藤原よりも高貴な皇族・聖徳太子の名前、「豊臣(とよとみ)」を下賜した<のだ>。」
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e3af715bf04f0162909ca4e5c5d786c2 (小松格)
「<この、最後の、いわば奇説を唱える、>小松格[コマツイタル]<は、>1946年生まれ。・・・大阪外国語大学ペルシア語学科卒業。大阪ウズベキスタンの会主宰。これまでにウズベク語に関する多数の著書を執筆するなど、日本におけるウズベク語研究を行っている」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784872593679
但し、秀吉が、浄土真宗に救いの手を差し伸べたのはともかくとして、日蓮宗を弾圧したようであることをどう考えるべきか。↓
「秀吉の時代になると、・・・1591年・・・に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97 前掲
「1595年・・・豊臣秀吉が方広寺大仏殿千僧供養会のため、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗に出仕を命じたことに始まる。この時、日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受布施派と、出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂し、妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺を去った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE
そんなことはしていない、という話、すなわち、豊臣秀吉と日蓮との関係、についても後述。
ち 徳川家康(1543~1616年)
徳川家康と厩戸皇子は因縁が大ありなのだが、彼の事績(後出の、III 日蓮論、就中、[徳川幕藩体制]、等を参照)からすると、敬して遠ざけた、と言うべきか。↓
「聖徳太子を祀った、妙源寺柳堂が、上宮寺の近くにあります。<現在の>岡崎市大和町字沓市場65<に。>・・・
徳川家康が三河一向一揆の際、味方になってくれ、本寺に身を寄せ難を逃れたことを感謝し、源氏の「源」の漢字を与え、明眼寺(みょうげんじ)から、寺名を変えました。」
http://www.kano-cd.jp/2019/10/12695/
「徳川家康公(当時は松平元康)は、・・・満性寺太子堂・・・へ開運勝利の祈願をしています。
三河一向一揆で家康公に味方をしました。」
http://www.kano-cd.jp/2019/10/12697/
「JR岡崎駅近くの上和田町の浄珠院(じょうしゅういん)に太子堂があります。
三河一向一揆で、徳川家康が本陣を置き、その後、一揆勢との戦いを終わらせるため、太子堂の前で、三河一向一揆勢と、誰一人断罪に処することなく和睦を結び、徳川三百年の礎を築いた平和の象徴の地です。」
http://www.kano-cd.jp/2019/10/12723/
「岡崎市中心市街地の旧花街である、松本町に、松應寺(しょうおうじ 松応寺とも)に付属する、聖徳太子を祀った太子堂があります。
松應寺は<、>徳川家康公が、父 松平広忠公を弔うために創建しました。」
http://www.kano-cd.jp/2019/10/12716/
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[徳川幕府の対浄土真宗・不受不施派政策]
「1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)[注釈 12]とに分裂することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97 前掲
「1599年・・・受布施派に訴えられ、徳川家康は大坂城で日奥と日紹(受布施派)を対論(大阪対論)させた。権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした。
1608年・・・、浄土宗の増上寺・廓山と法華宗(当時は不受不施派)の妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で、徳川家康が両者を江戸城で対決させた。日経は病を理由に答えなかった、もしくは対決前に襲撃を受け応答できなかったため、廓山が論破したとされる。
1609年・・・、慶長法難。日経は、京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された。
1616年・・・日奥は赦免されて妙覚寺に戻った。1630年・・・、受布施派の久遠寺は、「池上本門寺の日樹(不受不施派)が、久遠寺について、謗法をしており、参詣する者は地獄に落ちると言いふらし、潰そうとしている」などと幕府に訴え、江戸城にて両派が対論(身池対論)した。この時、久遠寺は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強い繋がりをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。この時、日奥は再び対馬に配流されることになったが、既に亡くなっており、遺骨が配流されたとされる。1665年・・・、受派の策謀を受け、幕府は、全国の寺社領朱印地に、「敬田供養」の名目で朱印の再交付し、受領書を出すよう迫ったほか、翌年には飲水や行路も「敬田供養」の一環であると主張して不受不施派に圧力をかけた。「施しを受けないこと」を宗旨とする不受不施派はいずれも拒否した。さらに、1669年・・・、幕府は不受不施派に対しては寺請を禁じ、完全に禁制宗派とした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE
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[キリスト教禁教令と寺請制度]
「江戸幕府は、1612年・・・にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる。武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がった。また、後に仏教の中でも江戸幕府に従う事を拒否した不施不受派も寺請制度から外され、信徒は仏教徒でありながら弾圧の対象にされることになる。
これら寺請の任を背負ったのは、本末制度における末寺である。1659年・・・や1662年・・・の幕法では、幕府はキリシタン改の役割の責任を檀那寺と定めている。後にはキリシタンと発覚した人物の親族の監視も、檀那寺の役割と定められた。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていくことになった。
もっとも、寺請制度は世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で受け入れられた制度であったとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域に江戸時代存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では・・・1696年・・・当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として定着していったとみられている。・・・
寺請制度や本末制度、1631年の寺院の新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化することに成功する。檀家になるとは、すなわち経済的支援を強いられるということであり、寺院伽羅新築・改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で経済的負担を背負った。1687年の幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けも義務とされている。1700年頃には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになり、常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌・釈迦の誕生日・釈迦涅槃日・盆・春秋の彼岸の寺参り(墓参り)を挙げている。
もし檀家がこれら責務を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、檀家は社会的地位を失う。遠方に移住するというような場合を除いて、別の寺院の檀家になるということもできなかった。よって一般民衆には生まれた家(あるいは地域)の檀那寺の檀家となってその責務を履行する以外の術はなく、寺と檀家には圧倒的な力関係が生じることとなる。江戸時代における檀家とは、寺の経営を支える組織として、完全に寺院に組み込まれたものであった。
これらは、寺院の安定的な経営を可能にしたが、逆に信仰・修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行や僧階を金銭で売買するということにも繋がっていった。新規寺院建立の禁止も、廃寺の復興といった名目で行なわれ、末寺を増やしていった。また、「家」「祖先崇拝」の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えは形骸化して、今日に言われる葬式仏教に陥った。・・・
檀那寺は、檀家制度によって極めて安定的な収入源を得ることに成功した。他方、檀家のいない寺院は現世利益を旨として信徒を集めるようになり、寺院は寺檀関係を持つ回向寺(えこうでら)と現世利益を旨とする祈祷寺(きとうでら)に分かれていくこととなる。
檀家は一方的な負担を強いられることになったが、先祖の供養といった祖先崇拝の側面を強く持つことで、檀家制度は受け入れられていった。日本において、死後一定の段階経るとホトケになる(ご先祖様=ホトケ様)という元来の仏教にないことがあるのは、その代表例である。檀那寺に墓を作るということも半ば義務化されていたが、一般庶民でも墓に石塔を立てる習慣ができたのはこの頃である。檀家は、先祖の追善供養を行い、家の繁栄(守護)を願った。こうした寺を回向寺と呼ぶ。
祈祷寺は、無病息災、恋愛成就といった個人レベルの願い、五穀豊穣、商売繁盛といった家の繁栄の願いなどを寺院参拝の御利益とし、他に祈祷などを行なった。流行仏という言葉も生まれた。また、定期的な開帳を行なったり、縁日を行なうことで布施を集めようとした。ただ、回向寺も檀信徒の信仰心が離れないよう苦心はしていた。祈祷寺と同じく、定期的な開帳を行なったり、檀家の義務と説いた年中行事も祭事や縁日のような興行的な側面を強くする。布教の一環として説教も盛んに行なった。
江戸時代、人々は回向寺で先祖の追善供養を行なって「家」の現在・将来の加護を願い、祈祷寺で自身の現世利益を願った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6
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つ 島津重豪(1745~1833年)
島津家は、源頼朝の子孫であるとの認識が一般的であったからこそ、島津重豪は、徳川将軍家の外戚たりえたのだろう。
「「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。・・・
鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝より、・・・1185年・・・忠久はわずか6才・・・地頭職補任時には成人していた<という説もある>・・・で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加される。・・・1189年・・・には源頼朝率いる鎌倉幕府軍による奥州征伐では東北遠征に10才で従軍している。忠久は鎌倉幕府内で特別な御家人であったが、・・・1203年・・・頼朝亡き後起こった比企能員の変に連座し一時、守護職を失うことになるが、後に薩摩・大隅・日向の守護職を回復している。・・・
忠久以降の島津氏は幕府の有力な御家人の常として当主は鎌倉に在住し、現地における実際の差配は一族・家人を派遣し、これに当たらせていたが、3代・島津久経が元寇を機に下向<(注53)>して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。・・・
(注53)「弘安4年(1281年)の弘安の役では島津軍を率いて参戦し、大いに活躍して武功を挙げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E7%B5%8C
「幕府は将来再びあり得るかもしれない元寇に備え、西国御家人達を北部九州の警固と防塁(石築地)の建造にあたらせました。実は島津氏もこの役目を担っていたのです。島津宗家四代忠宗は南九州の御家人を動員して警固と築地建造を行いました。この役目は幕府滅亡まで続けられます。」
https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/9082.html
島津氏は室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは、4代将軍義持の治世1410年・・・に元久が相続安堵の謝辞為の上洛一度限りである。これは数ヶ国を擁する大守護大名としては異例のことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
⇒薩摩藩は、室町時代以降、事実上、独立国であり続けた、と言ってよかろう。(太田)
「安永元年(1771年)には藩校・造士館を設立し、儒学者の山本正誼を教授とした。また、武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めた。・・・1773年・・・には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。医療技術の養成にも尽力し、・・・1774年・・・に医学院を設立する。そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えている。・・・1780年・・・、外城衆中を郷士に改め、より近世的な支配秩序の形成を図った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
⇒空海の綜芸種智院を思い起こさせる事績だ。(太田)
「法華堂は、1189年・・・、源頼朝が奥州征伐の祈願所として、伊豆山権現の專光房良遷に命じて建立した・・・持仏堂<だ>。・・・
持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられている場所が法華堂の跡だといわれている。」
https://www.yoritomo-japan.com/page041hokedoato.htm
「1779年・・・2月に・・・薩摩藩主・島津重豪が現在の<源頼朝墓の>石塔を建てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D 前掲
⇒これを幕府が認めた、ないし黙認した、のは、島津家が頼朝の子孫だと徳川将軍家も認識していたことの証左ではなかろうか。
当然のことながら、頼朝同様、重豪も、法華経を崇敬していたはずだ。(太田)
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III 日蓮論
「日蓮は聖徳太子について、日本において仏教興隆の最初の礎を築いた人物として高く評価しており、日蓮の著作での言及は31編39箇所に及んでいる。だがその一方で、太子の著作とされる『法華経義疏』に関しては、光宅寺法雲<(注54)>や善無畏<(注55)>、金剛智<(注56)>、不空<(注57)>の三三蔵の著作と同列に並べ、その思想的内容に厳しい批判の目を向けていることは注目に値する。・・・
(注54)467~529年。「僧旻、智蔵とともに、梁の三大法師の1人。・・・聖徳太子が『法華義疏』製作に際して、『法華義記』を「本義」としたことが有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9B%B2
(注55)637~735年。「インド・摩伽陀国(マガダこく)の国王・・・兄たちの反乱を平定した後、出家、ナーランダー寺院にて達磨笈多(だるまきくた、ダルマグプタ)に師事し、彼から密教を学ぶ。716年、玄宗統治下の唐・長安に赴く。『虚空蔵求聞持法』、『大毘遮那経(大日経)』などを漢訳する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%84%A1%E7%95%8F
(注56)671~741年。「南インドの国王<が>使者を派遣して金剛智を護送させ、並に数多の経典や梵夾、数多の珍宝を携えさせた。海路よりスリランカ・ジャワ等、20余国を経て、艱難辛苦の果て、3年を経て、719年・・・に、遂に広州に到達した。時の節度使は数百艘の船を派遣して出迎えた。
翌年(720年)の初め、東都洛陽に到達した。その後、両京で伝教につとめた。前後して大慈恩寺・大薦福寺・資聖寺などの大寺で、或いは壇場を建立し、或いは経典を翻訳し、また、四衆を化導した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E6%99%BA
(注57)不空金剛(705~774年)。「出生地は諸説があり、インド南部、サマルカンド、唐の涼州ともいわれる。父はインド北部出身のバラモンで、母はソグド系人だった。・・・金剛智に師事し密教を学ぶ。・・・741年・・・金剛智の入寂後に、師の遺言に従って『金剛頂経』の完本を求めるとともに、勅命により『大日経』等の密経経典を請求するためにセイロン・インド南部に渡るとともに、インドの龍智阿闍梨のもとに派遣されて、胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂すなわち五部灌頂を伝授された。・・・746年・・・に長安に帰る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA%E9%87%91%E5%89%9B
⇒日蓮は、聖徳太子コンセンサスの嫡流意識・・仏教論についてだけではない!・・を抱いていた、と、私は見ている。
なお、日蓮に限らず、鎌倉仏教の創始者達は、インドと支那を一括りにし、それと日本を対置させる、という世界観の下で生きていたのだろうなあ、と、改めて思う。(太田)
日蓮は天台の立てた法門に関しても、現実への展開という一点においては従来の小乗の域を乗り越えることができなかったと指摘している。こうした事実は、日蓮が生涯の言論闘争の中で既存の思想や常識、定説というものといかに対峙していったかを如実に示していると考えている。
「法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓<(注58)>の戒壇を立てられず。小乗の威儀をもつて円の慧・定<(注59)>に切りつけるは、すこし便なきににたり。」(『撰時抄』p270)」
https://plaza.rakuten.co.jp/jigemon/diary/200912050000/
(注58)「(「円満頓足」の意) 仏語。天台宗から出た術語。一切を欠けるところなく備え、たちどころに悟りに至ること。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E9%A0%93-38319
(注59)「三学(さんがく)とは、仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目をいう。・・・三勝学(さんしょうがく)とも。
具体的には、戒学・定学・慧学の3つを指す。
戒学(かいがく)<は、>戒のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。律蔵に相当。
定学(じょうがく)<は、>・・・禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。経蔵に相当。
慧学(えがく)<は、>智慧(パンニャー)を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること。論蔵に相当。
この三学は、三蔵に相当しており、上記のとおりである。
三学それぞれの関係は、戒をまもり生活を正すことによって定を助け<、>禅定にある心によって智慧を発し<、>智慧は真実を正しく観察(かんざつ)することができ、それによって真理をさとり、仏道が完成される。
このように、戒定慧の三学は不即不離であり、この三学の学修をとおして仏教は体現される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%A6
⇒先回りして言えば、日蓮は、三学の全てが方便である、と見切っていたはずだ。(太田)
「日蓮聖人も、天台宗の、正統の継承者という自覚を・・・持<ってい>た。・・・天台沙門という言葉<が>立正安国論の、日興書写本の中に出てくる<ほど>・・・天台宗の影響は大きかった」
⇒ただし、「『立正安国論』の典拠として踏まえられているものに、弘法大師空海が・・・著した『三教<指>帰』がある」
http://www.min.jp/img/pdf/labo-sh16_25.pdf
ことから、真言宗はともかく、日蓮は、空海も評価はしていたと思われる。
つまり、日蓮は、その限りにおいては、神仏習合教の嫡出子でもあるのだ。(太田)
<ところで、>「丸山眞男・・・の講義録<の中に>日蓮聖人のその宗教について、まとめて書いたものがあ<る>・・・。
「日蓮の宗教は、教理の上では天台教学を基本的に継受しているし、またそれが一方において、個人の救済だけでなく強く法華経による国家の護持を説き、他方において、呪術的要素や神仏習合の要素を内包している点で、いわゆる鎌倉新仏教中、最も伝統との連続性が濃い。にもかかわらず、(中略)その宗教態度において基本的に新仏教の刻印を受けている」<と。>・・・
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[立正安国論(りっしょうあんこくろん)]
「日蓮が・・・1260年・・・に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。・・・
<当時、>地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次いだ。当時鎌倉にいた日蓮は、・・・本論で、相次ぐ災害の原因は人々が正法である妙法蓮華経(法華経)を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして諸宗を非難し、法華経以外にも鎮護国家の聖典とされた『金光明最勝王経』なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅びる(他国侵逼難)と唱え、邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)と説いた。
この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪(伊豆流罪)となった。
時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて<1274年には>元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し(二月騒動)、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E5%AE%89%E5%9B%BD%E8%AB%96
⇒日蓮に関して記すこれ以降も参照していただけば、日蓮が徹頭徹尾方便の人であったことがお分かりいただけようが、立正安国論で用いた「予言的脅し」もまた、悉く、予言が的中する可能性が高いことを知っていて用いたところの、鎌倉幕府向けの方便である、と考えるべきなのだ。
「地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害」など、日本では全く珍しくないだけに、日蓮が、それらが法華経信奉不足によって起こったなどと信じていたはずがない。
また、内乱の予言については、二月騒動クラスの「内乱の兆し」など、鎌倉時代に入ってからも頻発してきていたのだから、立正安国論提出後にその類の「内乱の兆し」が起こることを、日蓮は予期していたはずだ。
更に、侵略の予言については、蒙古が1231年から高麗侵攻を始め、1259年に征服したこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
1234年に金を滅亡させて華北を手中に収めたこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
1254年には大理国を征服したこと、1257年にはベトナム侵攻を始めたこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%8D%97%E3%83%BB%E5%A4%A7%E7%90%86%E9%81%A0%E5%BE%81
も日蓮は知っており、蒙古の侵略の鉾先が日本にも向けられる可能性が高い、と判断していた、と思われる。
ちなみに、元寇そのものについて、九州にも所領のあった武士達だけでなく、九州在の武士達にも日蓮の弟子は何人もいて、彼らから情報を得ることで、日蓮が、戦況把握をかなり的確に行っている(注60)ことから、元寇前においても、高麗や南宋の情勢を彼ら等からも得られたと考えられるのであり、このことからも、日蓮に元寇の可能性が見えていても全く不思議ではない。
(注60)「日蓮は<文永の役の>2年後の・・・1276年・・・に記した「一谷入道御書」で対馬・壱岐の戦況を記述している。<また、>幕府は文永の役の後、再度の襲来に備えて戦時体制の強化を図り、防塁の建設や高麗出兵計画のため、東国から九州へ多数の人員を動員した<が、>日蓮は故郷から離れて戦地に赴いた人々の心情を詳しく述べて」おり、「弘安の役に際し戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」と、教信の苦衷を汲み取りながら後生の成仏は間違いないと励ましている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE (「」内)
私は、「立正」はともかく、「安国」もまた、日蓮が、日本政府(鎌倉幕府)に自分の新仏教を売り込むための方便であった、と考えている。
仏教そのものにせよ、法華経にせよ、特定の国を超越したものである以上、日蓮によって作り出された新仏教もまた、日本という国を超越したものであるのは当然であり、いくら鎌倉幕府をこの新仏教に帰依させることができたとしても、侵略を跳ね返すことができるかどうかは、得宗家以下の鎌倉武士達からなる日本の軍事力の機動力や兵站能力を含めた質量次第であること、かつまた、この日本の軍事力が元寇を跳ね返す力があることも、武士の家出身と思われ、多数の武士の信徒を擁していた日蓮は見切っていたと思われるところ、日蓮が見据えていたのは、その先のことだったはずだ、というのが私の考えだ。
つまり、日本人の大部分は悟っている(人間主義者である)のに対し、朝鮮半島や支那や蒙古の人々を始めとする、日本人以外の大部分は悟っていないように思われるので、彼らを救い、悟らせるために、日本政府をして、必要に応じ軍事力を用いて、東アジアを手始めとして、少なくともインドまではその勢力下に収めさせたい、と構想したのではないか、と。
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鎮護国家、いわゆる律令国家の下の鎮護国家<、の>思想で<の>国から寺社に対<する>経済的・・・支援ができない状況が生まれたために、寺は寺として、荘園領主として自らの経済基盤を固めたわけ<だが、それが>、その荘園領主化、即ち世俗化にも繋が<っ>た・・・
不輸不入という言葉は・・・簡単に言うと、持ち出すこともできないし、そこから入ることもできないという意味<だ>。即ち、その荘園の中では全てが完結してしまって、外部の支配を受けないということ<だ>。・・・
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[荘園]
増田ユリヤ(注61)は、荘園の発生についての通説を、一見分かり易く説明している。↓
(注61)1964年~。國學院大學文学部史学科卒のジャーナリスト。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%83%A4
「・・・【増田】奈良時代に、日本でも天然痘の大流行がありました。八世紀、七三五年から七三七年にかけての出来事で、天平の大疫病と呼ばれています。・・・
聖武天皇は七四三年、国内の不穏な状況を仏教の力に頼って鎮めようとします。「鎮護国家」という言い方を教科書ではしていますね。精神復興のために大仏をつくることを決め、大仏造立の詔を出します。またそれに先だって七四一年には、国分寺、国分尼寺建立の詔が出されています。・・・
聖武天皇が即位したのは七二四年。この頃、旱魃や飢饉が続き、七三四年には大きな地震が起こり、被害も甚大でした。そんな状況が続く中で疫病が広がったわけです。・・・
経済の立て直しとして墾田永年私財法がつくられた・・・
経済状況もたいへんになっていますし、大仏や寺をつくるにしても莫大な費用がかかります。そこで聖武天皇は、経済対策を考えます。復興政策としてつくられたのが、墾田永年私財法です。・・・
それ以前の口分田は、六歳になると男女が土地を与えられ、その与えられた土地から税金を計算されて徴収され、亡くなると国へ返すという決まりでした。しかし飢饉や疫病の影響で人が少なくなると、耕地が荒れてしまいます。・・・
それで、自分たちがそれぞれ耕した土地は私有を許可するということにこの法律で定めたんです。・・・
農耕地が増えれば生産性も上がって、徴税も増えますからね。その結果、どういうことが起こったかというと、多くの人が土地を一所懸命耕します。するといい耕地もできてくるようになります。・・・
当時、農地にはいくつかの種類があって、高級官僚や寺社は税を免除されていました。その結果、農民たちは開墾した農地をこうした有力者に売り、売った先で働くという雇われ農民になります。要はサラリーマンですよね。自分の土地はないけれど、労働を提供して賃金を得る。この方が、自分で農地を耕して税金を納めるより、働いて賃金をもらえるので、農産品の出来不出来など、リスクも低くなって、生活が安定します。こうして広大な農地を経営する人たちが出てくるわけです。それが荘園の誕生です。・・・
特に東大寺などの大寺院は広大な原野を独占するんです。国司や郡司の協力を得て、農民たちを使って灌漑施設などもつくっています。大規模な原野の開墾も開始され、荘園の経営が始まっていくのです。ここで、よりいい土地を自分たちのものにしようと、力ずくで奪おうとする輩も出てくるわけです。そういった輩から土地を守るために生まれたのが、武士の始まりになります。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%b1%a0%e4%b8%8a%e5%bd%b0plus%e5%a2%97%e7%94%b0%e3%83%a6%e3%83%aa%e3%83%a4%ef%bd%a2%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%8a%e5%be%8c%e3%81%ae%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ab%e7%9f%a5%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%8a%e3%81%8d%e3%81%9f%e3%81%84%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%8f%b2%e3%81%ae%e5%b8%b8%e8%ad%98%ef%bd%a3/ar-BB14DwL7?ocid=UE03DHP
(2020.5.27アクセス)
⇒しかし、この増田女史、実は支離滅裂なことを言っていることに気付かれるのではなかろうか。
天武朝が、聖徳太子コンセンサスに反逆して、さほどの思い入れもないまま、唐の律令制を継受したものの、その維持に手抜きを続けた結果、日本がなし崩し的に(荘園制という形だが)土地私有制に復帰してしまったため、論理的な説明が困難になった、ということなのだ。
荘園のその後の推移は下掲の通りだ。↓(太田)
「日本の荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有(墾田永年私財法)により始まる。平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。
鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めた。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族・寺社・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる一方、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。
戦国時代には戦国大名による一円支配が成立、荘園の形骸化はますます進み、それに依存する公家などが没落した。最終的に羽柴秀吉の全国的な検地によって荘園は解体した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
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日蓮聖人<は、>・・・国王と国主の関係、国王を天皇、そして国主を幕府として捉えておられた・・・
立正安国論の提出先が、幕府であったというのも、国主としての幕府を理解すれば、十分納得がいくわけ<だ>。・・・
日本一州は印度震旦に似ず、一向純円の機なり」、という記述があったり、或いは、「しかるに我日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超たる国ぞかし」、という記述があ<る>。
⇒この日蓮の言は、すぐ上の「立正安国論」の囲み記事を読んだ人には、よく理解できるはずだ。(太田)
<だ>から、三国世界観の中で、天竺、震旦、天竺は当然インド・・・、震旦は唐、中国であり・・・、それぞれの国に対して、日本は優れているんだと、超えてるんだと、いう理解があるわけ<だ>。そして、その根拠として、実は、同じ『新国王御書』の資料に、「其上神は又第一天──照太神・第二八幡大菩薩、第三は山王等三千余社、昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。」即ち、神に守護されている、その神の先祖たる天皇家<という>意識もここにはあるんだと思<う>が、神に守護されている、そういう国が日本だと、いう風にこれを捉えて<い>た、という風に見ることができ<る>。・・・
⇒これも、天皇家に取り入るための方便だった、と見るべきだ。(太田)
神孫たる、神の子孫である天皇じゃなくても王になるということを明らかに明かされている。<だ>から、こういう記述は、実は佐<渡>前にはなく、天皇の神聖を認める立場を取って<い>たのが日蓮聖人な<のだ>が、佐<渡>後にあってはそういう立場を改め・・・て、天皇に特別な権威を認めていない、天皇じゃなく、天皇家の人間じゃなくても、日本国王になる資格がある、資格を認める、そういう、可能性を示して<い>るのが佐後の<日蓮の>思想<だ>。」
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-12.pdf&type=G&prt=1218
⇒鎌倉幕府の先、いや、実に、天皇制がなくなってから先の日本まで日蓮は見据えていた、ということだ。(太田)
「日蓮は、佐渡流罪の以前と以後とで、自分の教えが変わっていることを理解するよう、門下に通達<する>。では、日蓮の教えは、どう変化したの<か>。この点については、これまではどちらかというと日蓮の書き残した文献から見る、教説の変化に重点が置かれてき・・・たが、実は、一番、大きな変化は、日蓮が曼荼羅を書きはじめたことにあ<る>。
日蓮の曼荼羅は、中央に南無妙法蓮華経を大書し、その左右と四隅に仏菩薩、諸神を書き連ねた独特のもの<だ>。この曼荼羅は、書かれた時期、大きさによって、さまざまな変化があ<る>が、中央の南無妙法蓮華経だけは不動であり、これが本尊であることは一目瞭然<だ>。問題は、ここで本尊とされた南無妙法蓮華経と、唱題される南無妙法蓮華経の違いは何か、という<点だ>。
日蓮は、伊東・佐渡による2度の流罪で、史上、唯一の法華経を経文の通り実践した真実の法華経の行者である、との覚悟を得<えう>。これは、端的に、日蓮こそが法華経に帰命した者、妙法蓮華経に南無(帰命)した者であり、南無妙法蓮華経と呼称できる唯一の存在である、との覚悟を意味してい<る>。つまり日蓮は、「真実の法華経の行者」=「南無妙法蓮華経」を本尊とした曼荼羅を表したの<だ>。そして、それは紛れもなく日蓮自身のことを指してい・・・た。
<すなわち、この>曼荼羅<は、>・・・日蓮を本尊にし<てい>た<のだ。>」
http://ronso.co.jp/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AA%E6%97%A5%E8%93%AE%E3%80%80%EF%BC%83012%E3%80%88%E6%97%A5%E8%93%AE%E3%82%92%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%9F%E6%9B%BC%E8%8D%BC/
⇒日蓮は、佐渡流罪を契機に、新仏教宣言を行った、というわけだ。(太田)
ここで、江間浩人(注62)「ミステリーな日蓮」(論創社ウェブサイト)の日蓮論のさわりもご紹介しておく。
(注62)不詳。
「内村鑑三(1861―1930)は、日本の文化・思想を西欧に向けて紹介するために、5人の日本人を選び、その生涯を英語で描きました。これが日露戦争の年に発刊された『代表的日本人』<(注63)>です。
(注63)Representative Men of Japan/Japan and the Japanese(1894年/1908年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E7%9A%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
内村は、その一人に日蓮を選びました。いうまでもなく日蓮は、鎌倉幕府に睨まれて二度までも流罪にあった異僧です。ほかの4人が西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹という、いずれも江戸から幕末に掛けて主に政治・経済・教育で活躍した人物であることを考えると、内村が日蓮を選んだのは特異にみえます。内村は、なぜ日蓮を選んだのでしょうか。その理由について、『代表的日本人』のなかで、こう述べています。
「日蓮から13世紀という時代の衣裳と、批判的知識の欠如と、内面に宿る異常気味な心(偉人に皆ありがちな)とを除去してみましょう。そのとき、私どもの眼前には、まことにすばらしい人物、世界の偉人に伍して最大級の人物がいるのがわかります。私ども日本人のなかで、日蓮ほどの独立人を考えることはできません。実に日蓮が、その創造性と独立心とによって、仏教を日本の宗教にしたのであります」
内村は、日蓮の「創造性と独立心」に、世界の偉人と並ぶ最大級の評価を贈ったのです。
では日蓮の「創造性と独立心」は、当時、どのように発揮されたのでしょう。内村は、この点について、端的に次のように述べます。
「他の宗派が、いずれも起源をインド、中国、朝鮮の人にもつのに対して、日蓮宗のみ、純粋に日本人に有するのであります」・・・
⇒聖徳太子や島津斉彬が入っていない点は不満だが、この日蓮評価に関してだけでも、内村鑑三はクリスチャンにしておくには惜しい人物だった、と言いたいくらいだ。(太田)
法華経では、その修行を、 経典の受持・読・誦・解説・書写に求めています。法華経の入手と所持、読経、暗唱、解説、書写することが、法華経の修行であり、法華経信仰だったのです。 ・・・
結果的に本来の法華経信仰は、特別な教養と財力がある貴族にしか許されないものになっていたのです。・・・
⇒既に開陳したところだが、そんなことよりも何よりも、日本人の大部分は、基本的に既に悟っているのに、(他人を悟らせる決意を抱くためであればともかく、)自分が悟るために法華経の修行だの法華経信仰だのをすることなど不要だ、というのが日蓮の本心だったと考えられるわけだ。
その場合、日蓮が、縄文的弥生人の縄文性のメンテナンスを、彼が排斥したわけではない神道に委ねれば足りると見たのか、彼が排斥した禅宗、就中臨済宗にも密かに期待したのか、それとも、縄文的弥生人が縄文人だらけの日本で生活している限り、縄文性のメンテナンスなどしなくても大丈夫だと達観していたのか、が問題になるが、これについての究明は他日を期したい。(太田)
朝廷や幕府の禁止令を超えて、なぜ、称名念仏は武家社会に広まっていったのか。理由は主に三つあると思います。一つは、浄土宗が穏健になったことです。念仏 だけが唯一の往生の道であるとした過激な専修念仏が、度重なる弾圧で勢いを失い、代わって他宗の教えも尊重して、さまざまな修行も認める穏便な教えが浄土宗の主流となりました。これで、仏教界との争いはなくなり、称名念仏は、他宗の僧も唱える修行の一つとして広まっていきました。・・・
称名念仏の圧倒的な流行の中で、つい先日まで諸経の王と崇められてきた法華経信仰から、人々の関心は離れていきます。それは、幕府を担う為政者も同様でした。かつては源頼朝でさえ大事にしていた法華経に代わり、念仏が重用されたのは時代の流れであ り、仕方のないことでした。そして、この状況を変えようとしたのが、日蓮だったのです。・・・
今では日蓮の代名詞となっている南無妙法蓮華経の唱題(妙法蓮華経という法華経の題目・タイトルを唱えること)は、こうして誕生します。・・・
⇒いわゆるお題目なんて、日蓮にとっては初歩的な方便に他ならなかった、ということだ。
そんなものをいくら唱えたとてクソの役にも立たない、ということを百も承知で・・。(太田)
天台大師は、法華経のタイトルである妙法蓮華経の五文字に、法華経の一切が収まり、集約されていると論じ、この解釈は仏教界で広く受け入れられていました。・・・
中国の智顗(538-597天台大師)は、それまでの研究成果を踏まえ、法華経を唯一最上の教えとして仏教全体を体系化しました。その後、この解釈は広く受け入れられ、日本でも最澄(767-822伝教大師)によって引き継がれていきます。
日蓮は、この天台と伝教の正統な継承者を自任しているのですが、ではいったい他の教え・経典と比べて法華経の何が勝れているのでしょう。日蓮は法華経の卓越性を2点、挙げています。
法華経以外の経典では、女性や小乗など、成仏できないと決定された人々がいました。
⇒(神道は大方の日本の人々(等)の人間主義性を「体現している」ところ、)日蓮の観点からすれば、法華経は人間主義性の全ての人々(等)への「普及を説いている」点が卓越しているわけだ。(太田)
法華経は・・・万人・・・万物の成仏、万物の平等を説いたのです・・・
さらに法華経を説く仏は、娑婆世界に繰り返し現れ、永遠に万人成仏を説き続ける存在であると明かします。これによってインドの釈迦も、法華経を説く仏の一人に過ぎないと相対化したのです。ですので、この説法をした仏を、釈迦と区別して「法華経の教主釈尊」と呼びます。・・・
<実際、>法華経の不軽品には、過去に法華経を説いた威音王仏という仏の存在と、その仏が没した後に不軽菩薩<(注64)>が・・・法華経を説いた、という物語が説かれます。・・・
(注64)「宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、死後発見された手帳に収められていました。・・・この黒表紙の手帳の中には、・・・人々に笑われ石を投げられる・・・土偶坊(ワレワレカウイウモノニナリタイ)という10幕からなる戯曲の構想が残されています。・・・さらに手帳の数十ページ後には、「不軽菩薩」の詩が記されており、まさに「土偶坊」の戯曲に響き合うような光を放っています。不軽菩薩こそ、人に嘲られ石を投げられて迫害を受けながらも人々を礼拝し続けた菩薩でした。」
https://blog.goo.ne.jp/fc5551/e/8172f4a3de89ee2abb8a73fbc254952c
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[後醍醐天皇と日蓮宗]
日蓮に下し文を発した父親の後宇多天皇(前述)に続き、前述したように、後醍醐天皇が日蓮宗を保護したこと(コラム#11338)は頗るつきに重大なことだった、と、私は考えている。
後宇多天皇は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想に基づく武士の創出/封建制の確立が順調に進んだ証拠に、文永の役で一回目の元寇を撃退した、と見て、弘安の役なる二回目の元寇の前後に日蓮からの申状を読み、弘安の役もまた日本側の勝利に終わることを当然視しつつ、それに引き続いて、鎌倉幕府率いる日本軍が大陸に反攻し、高麗の人々や明の遺民達を「モンゴルの軛」から解放し、彼らに人間主義、更には武士性を身に着けさせることを期待したからこそ、この申状に賛意を表した、と私は思うに至っている。
ところが、鎌倉幕府は、何度か思わせぶりの言動こそ行ったものの、結局、反攻することはなかった。
聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想が成立してからというもの、大陸が宋/(独立)高麗であった時代に、女真人による刀伊の入寇(1019年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
くらいしか大陸からの脅威がなかった日本では、平安末期から第一次弥生モードに入り、治安が乱れ、戦乱が頻発していたが、元寇の恐れがなくなれば、日本国内での戦乱の頻度や規模が大きくなっていくことが予想でき、それを危惧したことから、後宇多天皇は、鎌倉幕府を倒し、武士達を直接掌握して大陸反攻を行うように即位前の後醍醐天皇を説得し、後事を託したのではないか。
その後醍醐天皇は1318年に即位するが、その直後から、元朝は大混乱状況に陥る。↓
。
「元朝<は、>・・・1320年・・・から1333年<の>・・・13年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥っ<てい>た。・・・
元朝は理財派色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用故の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていたが、この政治混乱はさらに農村を荒廃させた。ただし、この14世紀には折しも小氷期の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因するペストのパンデミックが元朝の直轄支配地であるモンゴル高原や中国本土のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まってい<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
注目されるのは、この出来事だ。↓
「法華宗<(日蓮宗)は、>・・・1321年<、>・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F (コラム#11338)
この院宣を発したのは後宇多上皇であり、それが「直ぐに」撤回されたのは、後醍醐天皇が説得したからだろう。
これで、後醍醐天皇に任せて大丈夫だと安心した後宇多上皇は、その年に「院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
運びとなる。
そして、後醍醐天皇は、1324年に「鎌倉幕府打倒を計画」(正中の変)するも失敗し、それにめげず、1331年に挙兵するも敗れて(元弘の乱)隠岐に流されるが、結局、鎌倉幕府の打倒に成功し、1333年から建武の新政を開始する。
ところが、1335年に足利尊氏が離反し、建武の乱(1336年)で敗れたため、志半ばで挫折してしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E3%81%AE%E4%B9%B1
とりあえず、結論的に言えば、禅、とりわけ臨済禅、は、武士=縄文的弥生人、の、縄文性毀損を回避するための手段であり、「日蓮主義」は、そんな武士=縄文的弥生人、の弥生性を国内で発揮させず、国外で発揮させることでもって、国内に平和をもたらすとともに、国外に縄文性と縄文的弥生性を普及させるための手段、と、後醍醐天皇は考え、この考えを実行に移そうとしたが挫折した、というわけだ。
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[豊臣秀吉と後陽成天皇]
豊臣秀吉は、まさに、後醍醐天皇(上述)の遺志を実現しようとした、と、私は見るに至っている。
秀吉は、日蓮宗のことをよく知っていた筈(注65)であり、スペイン/ポルトガルの脅威に直面していたこともあり、日蓮の考えに感銘を受け、後醍醐天皇の遺志も読み取っていた、と、私は見るに至っている、ということだ。
(注65)「文禄元年(1592年)、<秀吉の同父母姉の智子(ともこ)の子の>秀勝は文禄の役に出征中、巨済島の陣中で病死した。・・・1595年・・・、<同じく子の>秀保も不可解な急な病死をし、<やはり、子の>秀次は秀吉の跡を継いで関白となっていたが、この年に高野山で切腹<させられ>た。夫の吉房も連座して讃岐国に流され、智子は難を逃れたものの、秀吉に孫(秀次の遺児)のほとんどを打ち首にされ、嵯峨野の地に<日蓮宗>善正寺を建立して秀次一族の菩提を弔った。
<つまり、智子は以前から日蓮宗信徒であったわけであり、秀吉はこの姉から日蓮の話を聞かされていたはずだ。>
・・・1596年・・・正月、智子は戒師に本圀寺の空竟院日禎を招き、<日蓮宗の>仏門に入って出家した。・・・初めは法名を日敬としたが、同名の僧がいたため日秀に改めたと云う。同年、日秀は京都の村雲の地に<日蓮宗の>瑞龍寺を<現在の[近江八幡市]に>建立したが、気の毒に思った後陽成天皇が1000石の寺領を寄進したので、後に皇女や公家の娘が門跡となる比丘尼御所(俗に言う「尼門跡」)として、「村雲御所」と呼ばれる[日蓮宗唯一の門跡]寺院となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)
そうとでも考えなければ、いくら成功する可能性が客観的にも大だった(コラム#省略)とはいえ、部下の誰もが乗り気ではなかった朝鮮出兵を、秀吉が行ったはずがなかろう。
しかも、それに後陽成天皇(1571~1617年。天皇:1586~1611年)による、1592年(文禄元年)の反対↓にもかかわらず断行されたのだから、なおさらだ。
高麗国への下向、
険路波涛をしのがれん事、勿体無く
諸卒をつかわし候ても事足るか
朝家のため且つ天下のため
かえすがえす
発足ご遠慮していただきたく、
勝ちを千里に決して此度の御事、
おもいとどまり給えば
こんな嬉しいことはなく
そこでこの手紙を遣わします
あなかしく
太閤とのへ
<現代語訳↓>
高麗国への進出の件ですが
大海原を越えて向こうまで行くのは大変で
どれほど多くの兵隊を送り込んだとしても成功するとは思えません
皇室のためにも豊臣家のためにも
もう一度よくお考えになって
出兵は取り消していただきたく存じます
勝ちを千里の外に決して(注66)
今回のことは思いとどまってください
(注66)「『史記』にある言葉。いながらにして、優れた謀をめぐらして遠い戦場で勝利を収める。画策そのよろしきを得ること。」
http://kyotocf.com/column/kyo-mystery/chosen-syuppei/
第一次弥生モードの下で、長期にわたって戦乱の世に翻弄されてきて、国内平和の回復を希求していたところの、当時の大部分の日本人の気持ちを踏まえ、日本を縄文モードの時代へ回帰させることが、後陽成天皇にとっては至上命題であったのだろう。
もとより、学識豊かな後陽成天皇(注67)にとってみても、「日蓮主義」は周知のことであったはずであり、「日蓮主義」そのものに異があるわけではないことを宣明する目的もあって、日秀/日蓮宗を厚遇した(「注62」)、と思われる。
(注67)「儒学や和学に造詣があり、・・・自ら宮人に『伊勢物語』『源氏物語』『詠歌大概』などを講じるほどで、自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』『後陽成天皇宸記』などがあり、『日本紀神代巻』『古文孝経』『職原抄』などを慶長勅版として刊行している。また、近臣を動員した収書・書写活動に専心し禁裏本歌書群の基礎を築いた。こうした活動により禁裏文庫に収められた大量の古典籍は、譲位・崩御に際して後水尾天皇に引き継がれている。国ごとに名所を挙げてこれに和歌を添えた名所和歌集の編纂も行った。
秀吉が高野山再興のために興山寺 (廃寺)を開基した際、木食応其に「興山上人」の号とともに勅額を下賜している。・・・
1593年・・・、秀吉は文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上した。同年、天皇は・・・この技術を用いて「古文孝経」を印刷<さえ>た<が、>・・・これは日本での銅活字を用いた最初の印刷とされている。また、後陽成天皇は・・・1597年・・・に李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させている(慶長勅版)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
その秀吉は、太閤検地を行ったことでも知られている。↓
「律令制下、全ての農地の所有権は国家が持っていることになっていた。しかし、平安時代になると公地公民は崩れ、荘園と呼ばれる私有地の存在が認められるようになる。そのため、各地は国府が管理する国衙領と私有地である荘園にほぼ二分される。国衙領については国府が大田文と呼ばれる台帳を作成し、農地の面積や収量を把握し、徴税の基礎資料としていた。しかし、荘園に関しては、課税のための調査も課税もできない。この状態は鎌倉・室町時代になっても変わらなかった。室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった。
しかし、戦乱を経て地方に荘園や国衙領という枠を超えた一円に支配権を確立する戦国大名が成長する。彼らは、自分の支配地域における課税を行うための資料として土地の調査を行った。北条早雲によって初の検地が行われ、その後歴代当主がこれに続いた。しかし、その他ほとんどの戦国大名は全領地に検地を行うことができなかった。多くは新規に獲得した領地に対して行っている。それは家臣団や有力一族の抵抗が大きいからである。北条家などの一部大名が大規模な検地を行えたのは新興勢力であるがゆえに地縁に縛られにくかったという事情がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E5%9C%B0
「織田信長も検地を実施していた(これを信長検地とよぶことがある。)が、このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、その重要性を把握していたとみられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0
「太閤検地<は、>・・・豊臣秀吉が全国的に実施した検地の総称。1582年・・・秀吉が明智光秀を山崎に破った直後,山城の寺社から土地台帳を徴集し,現実の土地所有・保有関係の確認を行ったことに始まるが,その2年前に,秀吉は織田信長の奉行人として播磨検地の実務を担当し,家臣に石高表示の知行宛行状(ちぎようあてがいじよう)を発給し,家役・諸公事の免許を行っているから,これが事実上の太閤検地の始期とみなされている。
秀吉は征服地を拡大するごとに原則として検地を実施し,土地についての権利関係を改めたうえ,家臣に知行地として給付し,または自己の蔵入地(くらいりち)に編入した。・・・
秀吉が上述のように各地を征服するごとに検地したことは、征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となり、同時に従来の複雑な土地関係を整理して土地制度を一新させ、新しい体制を<招>来させた。すなわち、室町時代までは職の分化で、田畑の権利が複雑に分割されていたが、秀吉の全国統一と検地により、大名や寺社本所の領主権、各種得分権などが一円の領主権に統一され、また農民の権利は有力農民の加地子権などが没収されて、検地帳に登録された名請人の作職(耕作権)のみに整理された。つまり、太閤検地は田畑各筆に一領主・一農民という一元的な領主―農民関係を樹立させ、純粋封建制を将来させたのである。
⇒太閤検地は、封建制の徹底を図るために実施された、と、錯覚させるかもしれないが、一、「領主」は大名の官僚に過ぎず、二、その大名も太閤の官僚に過ぎない、ことが、一、については太閤領の「領主」達の転封(注68)の常習化により、また、二、についても、太閤による、太閤に敗北したことも太閤に対する過失もなかったところの、徳川家康の関東への転封により、日本が事実上、中央集権国家を目指しつつあることが明らかになった時点において、むしろ封建制にとどめを刺したのだ。
その目的は、朝鮮(注69)、支那「征服」の後に、朝鮮、支那、日本「国内」での平和を確立することだった、と、私は見るに至っている。
これは後醍醐天皇さえ思いつかなかったところの、秀吉の独創的英断だった。(太田)
(注68)「転封(てんぽう)は、知行地、所領を別の場所に移すことである。国替(くにがえ)、移封(いほう)とほぼ同義である。・・・
戦国期には大名領国を形成した戦国大名が滅亡・没落国衆の旧領を接収して直轄の御料所とし、これを源泉に服属国衆の転封を行い家臣団統制を行っている。転封は戦国大名の領国統制を示すものであるが、一方で有力国衆など転封の不可能な家臣も存在しており、戦国大名の転封には限界があったと考えられている。
近世において、豊臣政権や江戸幕府など統一権力が諸大名に対して有していた処分権、統制権の一つ。太閤検地以降は大名の領土であっても、究極的土地所有権は天下人や征夷大将軍にあるとの観念の下に行われた。もっとも、恩賞としての加増を伴う転封も多く行われたため、一概に処分・統制とは言い切れない。
統一政権による転封の初見は、天正18年(1590年)豊臣秀吉が徳川氏を駿河国駿府から武蔵国江戸に移した事例とされている。なお、家康の旧領には尾張国清須の織田信雄(信長の子)を転封させる予定であったが、これを拒絶した信雄は改易されている。・・・
一方で、転封によって武士の在地領主的側面が切り離され、地方知行制から俸禄制への移行を促進する役割も担った事実がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%B0%81
(注69)「1592年(文禄1)の朝鮮出兵に際しては、朝鮮での征服地をも検地する予定であった」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0-91096
そこには小農民の自立を促す太閤検地の革新性がみられ、同時に石高の把握と相まって兵農分離の基礎があった。すなわち、太閤検地が把握した分米=石高のうち、作徳分は農民に、残りはすべて領主に収取される原則であったから、土豪・有力農民は従来のように中間搾取して武士化、領主化することがむずかしくなり、兵農分離が推し進められた。また太閤検地により把握された石高は、農民への年貢賦課をはじめ、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格などの基準となり、石高制として幕藩体制の主軸となったのである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0-91096 (上掲)
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[徳川幕藩体制]
表記について、きちんと取り上げるのは他日を期したいが、とりあえず・・。
それは、「日蓮主義」なき、凍結された(平氏流ならぬ源氏流の)太閤体制だった。
マイナーな点から行けば、「平氏流ならぬ源氏流」というのは、武士たる権力者のトップが公家のトップを兼ねるのか兼ねないのかの違いだ。
で、「日蓮主義」なき」とは、(後陽成天皇の意向にも配意し、)国内平和の確立・維持を図ることを優先し、縄文性と縄文的弥生性の日本以外への普及を図らない、ということだ。
「凍結された・・・太閤体制」とは、やはり、国内平和の確立・維持を図ることを優先し、大名/領主の官僚化を中途半端なところで凍結した(注70)、ということだ。
(注70)「江戸時代に入り、幕府による転封が行われるが、その初期は外様大名の地方転出、その跡への徳川系大名(親藩・譜代)の進出を基軸として行われた。中期以降は外様大名の転封は極端に減少し、幕府役職就任に伴う徳川系大名の行政的転封が主流となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%B0%81 前掲
この結果、島津家や毛利家の官僚化を行わなかった(行えなかった)こと、に加えて、儒教の奨励による天皇制の絶対化、と、当然のことながら欧米勢力の本格的東漸、が、徳川幕藩体制の死命を決することとなった。
銘記すべきは、それが日本以外にもたらした大災厄だ。
すなわち、漢人は女真族(清)に征服され、劣化し続け、阿Q化することで、19世紀中葉から約1世紀の間、今度は、欧米勢力の半植民地と化してしまうこととなり、朝鮮人もまた、李王朝の下で女真族の間接統治下に置かれ続けることとなり、20世紀前半における、遅ればせながらの日本による統治でも回復できないほど劣化したまま、現在に至っているし、アジア、アフリカの大部分は欧米勢力の植民地となり、それによるところの、買弁的精神、奴隷貿易の後遺症、等、を拭えないまま、やはり、現在に至っている。
そして、その間、人類は、二次にわたる世界大戦や、スターリニズム、ナチズム、の惨禍を経験させられる羽目になった。
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[島津斉彬と日蓮正宗]
島津斉彬は、元々は曹洞宗の檀越だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
が、「1853年12月・・・に先に大石寺に帰依していた年下の大叔父で八戸藩主・南部信順の強い勧めにより、養女である篤姫とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺・遠信坊(静岡県富士宮市)の檀越となったが、大石寺の教義に随順し切れたかどうかは研究の余地を残す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
ということになっているが、「<大石寺の末寺である、江戸の>妙縁寺のご信徒であった薩摩藩老女の小野嶋(小ノ島)によって、薩摩藩主・島津斉彬公や第十三代将軍・徳川家定公正室・天璋院篤姫は大石寺に帰依し、深い信仰をつらぬ<い>た。」
https://myoenji.net/about.html
という説もある。
機縁が何であったかはともかくとして、島津斉彬が、日蓮の主要著作や法華経を読み、それを「日蓮主義」(後出)的に理解した上で、後宇多と後醍醐の日蓮への高い評価(上述)と後醍醐や秀吉の「日蓮主義」挫折の事績も承知しつつ、日蓮正宗信徒になった、と、私は確信するに至っている。
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[宮沢賢治・国柱会・法華経]
「・・・賢治<(1896~1933年)>は、子供の頃から浄土真宗の雰囲気に囲まれ育ったが、しかし、18歳頃に初めて島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』(1914年)を読み、感銘を受け、それがきっかけで法華経へ帰依することになった。
そして彼は、浄土真宗が自分の一人の救いや死後の「極楽浄土」での救いを説く教えであるのに対して、法華経が自分より他人(衆生)の救い、「あの世」より「この世」で「仏国土」の世界を実現すべきであるという教えであることを知り、1920年10月には日蓮宗の宗教団体「国柱会」に入会する。
そこで賢治は、高知尾智耀に「法華文学」の創作を勧められ、法華経の教えを基にした創作や活動などを進んで行うようになった。
賢治の七つの童話『よだかの星』(1921年)、『蜘蛛となめくじと狸』(1918年)、『グスコーブドリの伝記』(1932年)、『銀河鉄道の夜』(1924年)、『双子の星』(1918年)、と『カイロ団長』(生前未発表)・・・<という>作品には法華経の「法華七喩」の中で最も有名な「三車火宅」に現れている「衆生済度」思想を見出すことができ、生き物に対する「大慈悲の心」も存在してい<る>。
。
さらに、法華経の薬王菩薩の行動(仏様に供養するために自分の身を焼いて命を捧げる)に現れている「自己犠牲」が、深く反映されていることもわか<る。>
<また、>・・・『ひかりの素足』(1920年)、『四又の百合』(1923)と『貝の火』(1920)<という>童話には、「まことの幸福」に近づくためにどんな行動をすればいいのか、幸せになるためにどのような「道」を選べばいいのか、ということが描かれている。
ここには、仏様の「命の永遠性」と「仏様の出現」、帆血胸の「如来寿量品第十六」、「死後の世界」などの精神が反映されており、悪行を行えば「罪」は必ず来るという教も記述されてい<る>。
「不殺生戒」の考えを一番反映している童話は、賢治の生前には未発表であった『ビヂテリアン大祭』、『なめとこ山の熊』と『フランドン能ガッコ王の豚』である。
ここには、全ての生き物に対する「大慈悲の心」、また同上・愛情や仏教の「輪廻転生」の精神などが反映されている。
これらの童話で、「肉食」は「罪」として考えられており、生き物を殺してはいけないという「不殺生戒」を守るべきという賢治のメッセージが込められている。
『農民芸術概論綱要』に現れている「宇宙のエネルギー」、あるいは「宇宙意志」と「宇宙灌頂」<についてだが、>・・・「宇宙のエネルギー」の意味<は、>・・・以下のようにまとめ<ることができる。>
・各々の人は、「宇宙(自然)との調和」を自分の中に感じられる。
・各々の人は、自分の心中に宇宙との「相互依存」・「共存」(不可分性・心の中に深い宇宙との関連)を十分に認識する。
・宇宙と溶け込む・・・ような「力」(エネルギー)を感じることによって、現世に生きているうちに自力で「正しい」(純潔な、公正な、誠実な、献身的・・・等<の>)行動をし、「まことの幸福」(最高の幸せ)まで至ることができる。
賢治は、自分の死の弐年前に書いた『雨ニモマケズ』(1931年)のなかに「デクノボー」思想を盛り込んでいた。
この「デクノボー」の行動の特徴は、帆血胸の「常不軽菩薩」のイメージと重なる、と言われている。
「常不軽菩薩」は、帆血胸の「常不軽菩薩品第二十」の観音様(仏様)で、この菩薩は他人に対して「礼拝行」を行っており、「人間礼拝」、つまり人間、また仏様に対する尊敬・愛情・専心の気持ちを強く持った菩薩であった。
「デクノボー」は、まさに「常不軽菩薩」そのものだったのである。」(Sanina Viktoriya)(サニナ・ヴィクトリヤ「宮沢賢治の作品にみる帆血胸の影響」(2010年度筑波大院博士前期課程学位論文)より)
http://www.slis.tsukuba.ac.jp/grad/assets/files/pub/2010/sanina.pdf
⇒ネット上に見出し得る、最良の宮沢賢治論が、ロシア人女性と思しき人物の短い修士論文であることは、情けないの一言だ。
で、彼女が明らかにしたのは、宮沢賢治の考え=法華経、ということだ。
では、日蓮の考え=法華経、なのか、はたまた、田中智学の考え=日蓮の考えなのか、が問題となる。(太田)
「大正8年の編と推定される『攝折御文、僧俗御判』は、先生の『本化攝折論』および日蓮聖人御遺文からの抜き書きであるが、賢治の主体的信仰の確立はその頃とみられる。大正10年1月、父母の改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾智耀講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。国柱会の街頭布教に従事したのもその頃だが、妹トシ病気のため帰郷する。賢治は『法華経』の信仰と科学の一如を求めたが、そのことは数多くの作品にも反映している。稗貫農学校(現花巻農業高校)の教諭時代、『植物医師』『飢餓陣営』の作品を生徒を監督して上演していたのは、国性芸術から影響されたものであることは確かである。農学校を退職して独居自炊生活に入り、「羅須地人協会」を設立して農村青年、篤農家に稲作法や農民芸術概論を講義したが、その発想も、やはり智学先生の「本時郷団」におうものといってよい。
賢治は昭和8年9月21日、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永眠したが、法名「真金院三不日賢善男子」は国柱会からの授与である。大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参し、今は妙宗大霊廟に納鎮されている。・・・賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすものがいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きた」
http://www.kokuchukai.or.jp/about/hitobito/miyazawakenji.html
⇒これが国柱会によるPR文であるという点を割り引いても、宮沢賢治が「入信」後、死ぬまで国柱会の熱心な信者であり続けたことは、どうやら間違いなさそうだ。
もっとも、石原莞爾もそうであったことになっている。
http://sauvage.jp/activities/3119
ちなみに、上掲は、明大法教授の岩野卓司(注71)の講演の要旨を紹介しているところ、岩野は、田中智学の考え≠日蓮の考え=法華経、であるとの前提に立ち、石原莞爾も宮沢賢治も国柱会会員であり続けたけれど、石原は田中智学の考えに忠実だったのに対し、宮沢は田中智学の理論に比し、法華経と日蓮の考えそのものにより忠実だった、という違いがあるとしている。↓
(注71)「1959年、埼玉県に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学博士課程満期修了、パリ第四大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。現在、明治大学法学部教授。専攻は思想史」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784891767785
「賢治は国柱会にいながら不思議なことに、天皇崇拝や国体論にも侵略戦争にも、ほとんど関心を示していません。彼は日蓮の教えそのものを強く信奉していたので、後から付け加えられた理屈に対しては、本能的になにか違うと感じていたのではないか、この賢治の感覚が、魂の古層・・・<、すなわち、(>・・・仏典の中にはこれは似た記述はあるものの、言葉そのものはみあた<らないところの、)>・・・「山川草木悉皆成仏」<なる、>すべてに仏が宿るという、日本的な民間信仰の原点にあたる言葉ですが、・・・賢治の精神世界は、この「山川草木悉皆成仏」に近いものが感じられ、それは仏教以前にも民間にあった、<日本人の>魂の・・・根源的な古層・・・の自然観、アニミズムともいえる感覚・・・と<恐らく>結びついているので<あって、>・・・田中智学の「仏法による世界の統一」を、石原のように日本を中心としたものとは考えませんでした。」
http://sauvage.jp/activities/3119 前掲
石原の方には立ち入らないが、宮沢の方についてのこのような指摘は誤りだ。
田中智学の考えは法華経と日蓮の考えに忠実なのであって、石原莞爾はこれに忠実ではなく、宮沢賢治こそ忠実だったのだ。
上記でその講演要旨を紹介されているところの、明大法教授の岩野卓司には、仏教における悟り=日本人の魂の根源的な古層をなしているもの(=人間主義)、という観念が欠如していることもあって、法華経も日蓮の主要著作も中途半端に読み込んだだけで、しかも、田中智学の考え(すぐ下の囲み記事参照)を確かめもせずに、石原/宮沢論を語ってしまった、ということだろう。(太田)
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[田中智学の考え]
「田中智学<(1861~1939年)は、>10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称した。・・・その後、宗学に疑問を持って還俗し、・・・国柱会を結成し・・・日蓮主義と国体主義による社会運動を行<った。>・・・
⇒田中智学は日蓮への原点回帰を訴えたのだ。(太田)
<智学の唱えた>八紘一宇とは日本建国の主義である「道義的世界統一」を意味する。 大正2年3月11日に機関紙、国柱新聞「神武天皇の建国」にて言及。
この言葉の典拠となったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」にある「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。) 日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」であるが、智學は「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。・・・
⇒「八紘一宇」とは、私の言葉でいう人間主義を日本から世界に広めることであったわけだ。(太田)
<智学いわく、「>人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一<(一宇)>である。<」、と。>・・・
<その智学は、「>世に殺人が公認されない如く、国家も人を殺してはならぬ、・・・<よって、>死刑を廃止<すべきである。>・・・およそ人を殺すことの公認されるのは国家の戦闘行為ばかりである。しかし・・・元来、戦争と申スものはやむを得ずして行うものにして、平和手段で決し難い場合、変則の方法としてその行詰りを打開するまでの方便<に過ぎない。」とも述べている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8
⇒日本は、人間主義を世界に広めることが「平和手段で決し難い場合」、「戦争<を>・・・方便<として、>・・・やむを得ずして行う」ことが許される、ということだ。(太田)
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⇒私は大昔に法華経を現代語訳でざっと読んだことがあるが、金きら金のガラクタの寄せ集め、という印象しかなかった。
しかし、読む人が読めば、いや、日蓮が書いたものを直接相当読み込んだ後、或いは、読み込むのと並行して、法華経を読めば、宮沢賢治のように、法華経の核心部分が目に飛び込んでくるのだろう。
間違いなく、島津斉彬も、島津重豪の子の南部信順(のぶゆき)から(も?)勧められて、宮沢賢治のように日蓮が書いたものと法華経とを読んだ上で「不軽菩薩」たらんとし、日蓮正宗(日蓮宗)の信徒となったはずであり、島津斉彬コンセンサス信奉者達の多くもまた、斉彬が日蓮正宗(日蓮宗)の信徒になった意味を考え、「不軽菩薩」たらんと眦を決したことだろう。
そうだとすれば、戦前期の杉山元を始めとする島津斉彬コンセンサス信奉者達の日蓮認識というか世界観と、宮沢賢治の世界観は、基本的に同じものだったということになるはずだ。
中共当局が、日本への最初の留学生達を(間違いなく、日蓮の考えを更に解明・整理するための研究材料を集めるために)創価大学に派遣した<(コラム#省略)>のは、以上のようなことを概ね察知していたからこそだったはずだ。
(付言すれば、互いに手を携えて満州事変を起こしたということになっているところの、家の宗旨が日蓮宗であった板垣征四郎、と、田中智学の国柱会の会員になっていた石原莞爾、とは、どちらも、日蓮の考えについての理解が浅薄・・石原については国柱会の指導者たる田中智学の八紘一宇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A
の意味についても理解が浅薄・・だったからこそ、石原は日支戦争に反対したのであるし、板垣はA級戦犯としての死刑宣告の後に日支戦争は行うべきではなかったと悔悟したのである、と私は見ている。
(事実関係は下掲に拠った。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE ))(太田)
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[牧野伸顕と日蓮宗]
島津斉彬コンセンサス信奉者の日蓮ないし日蓮宗観を探るべく、間違いなく、代表的な島津斉彬コンセンサス信奉者の一人であった牧野伸顕に関して、軽く検証してみた。
一見、牧野伸顕の事績の中には、日蓮ないし日蓮宗との関りらしきものは見いだせない。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
しかし、牧野が、その孫を、日蓮に傾倒していたと目される、武見太郎に、自らのイニシアティブで嫁がせたことは、牧野の日蓮観が奈辺にあったかを如実に示している。↓
「武見太郎<の>・・・父は、<その>実兄の影響を受けて日蓮宗の信者であった。<太郎は、>・・慶應・・・・医学部時代・・・、医学の勉強の傍ら、仏教への関心も強めている。文学部学生だった友松円諦らと共に仏教青年会を結成し、教典の読破にあたっている。・・・ 武見は、昭和16年に・・・牧野伸顕の孫秋月英子と結婚している。牧野の主治医であり、その縁での結婚だった。この結婚以後、武見は旧華族へも人脈を広げ、武見珍療所には近衛文麿首相さえ訪れるようになった。」
http://www.cminc.ne.jp/tonaiml/takemitarou.htm
ここで、孫娘のことより、娘の雪子を吉田茂に嫁がせたのことをどう説明するのだ、という異議申し立てが予想される。
しかし、である。
「結婚は・・・吉田、領事官補時代の30歳だった。妻は「・・・牧野伸顕の長女・雪子、“見合い”であった。時に雪子20歳、炯眼の牧野が吉田の人物、将来性を一発で見抜き、茂と雪子の当人同士も互いに気に入ったこともあったが、有無を言わせずの<1908年の>結婚となったのであった。」
https://www.excite.co.jp/news/article/Weeklyjn_12753/
とまあ、こういう次第なのだが、「当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを<支那>大陸で過ごしている。<支那>における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満州事件以後もその点で一貫していた。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官に就任する。
但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
といったことから大胆に想像すると、実父が一応志士で養父の遺産で大金持ちで対支強硬派であった吉田茂(上掲)を、牧野が値踏みを間違ってしまったということではないか。
ついでに言えば、吉田は、東大法に裏口入学したに等しく(上掲)、よく外務省に入れたと思うような人物だが、牧野の「親英米派」なるものが、自分が島津斉彬コンセンサス信奉者であることを隠蔽するためのポーズに過ぎないことに気付かないまま、この岳父のポーズを真似しているうちに本当の「親英米派」になってしまった、ということではないか、と。
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<その>法華経には「正直捨方便」「不受余経一偈」との文があります。これは、「法華経以前の教えは全て方便である」「法華経以外の経典の一句たりとも信じてはいけない」という意味です。日蓮は、これを根拠に法華経だけ信じることを求め<ま>す。・・・
<さて、その>日蓮は、当初、自らの仏法上の立場について、釈迦の法華経を、釈迦滅後の像法<(注72)>時代に中国で広めた智顗(天台大師)、日本の最澄(伝教大師)に連なる正統な僧と位置付け<るに至り>ました。
(注72)日蓮は<後に(太田)、>「正法」<、「像法」、「末法」、>を時代区分<[三時]>としての名ではなく、<「正法を、>「時機に応じた正当な法」という意味でのとらえ方をし・・・『法華経』を釈迦の本懐の正法ととらえ、法華経の題目を唱えるべきとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8F%E6%B3%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95 ([]内)
「正法」、「像法」、「末法」、を時期と説くのは『大集経』(上掲)で、それは、「中期大乗仏教経典の1つ。・・・釈迦が、十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたもので、空思想に加えて密教的要素が濃厚である。・・・<支那>仏教では、『般若経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大宝積経』と共に、大乗仏教五部経の1つに数えられ<ている。>・・・<その>第15月蔵分には末法思想の根拠とされる、仏滅後を五百年ごとに区切って、正法の衰退を主張する五五百歳の思想が示されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9B%86%E7%B5%8C
具体的には、「「大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」と記述されている。
日本では、「三時の長さのとらえかたには諸説あり、一説には、正法 千年、像法千年、末法 一万年とされ、多くはこの説をとっている」とされ、以下のようなイメージである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95
とある。
「第一の五百歳 解脱堅固…インドにおいて迦葉(マハーカッサパ)・阿難(アーナンダ)等が小乗教を弘めた。
第二の五百歳 禅定堅固…インドにおいて竜樹(ナーガールジュナ)・天親(ヴァスパンドゥ)等が大乗教を弘めた。
第三の五百歳 読誦多聞堅固…仏教が東に流れて中国に渡り経典の翻訳や読誦、講説等が盛んに行われた。天台大師(智顗)が法華経を弘めた。
第四の五百歳 多造塔寺堅固…仏教が東に流れて日本に渡り聖徳太子以来多くの寺塔が建てられた。伝教大師(最澄)が日本の仏教を統一し大乗戒壇を建てた。
第五の五百歳 闘諍堅固・白法隠没…戦乱が激しくなり、釈迦の仏法が滅尽する。末法思想から鎌倉新仏教が起こった。」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95 (「」内)(前掲)
ところが<、彼は、>後には・・・威音王仏→不軽菩薩→釈迦→日蓮の系譜に移<すに至るので>す。・・・
⇒日蓮は末法思想を否定したことになるのではないか。
いずれにせよ、より重要なのは、日蓮が、仏教を、アブラハム系宗教を思い起こさせるところの、預言者教的なものへと読み替え、自らを、イエス、ないし、ムハンマド的な存在へと自己規定するに至ったことだ。
この瞬間、仏教は、(初期仏教、上座部仏教を含む部派仏教、大乗仏教、密教を兼学する大乗仏教、といった)仏教マークI
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
から仏教マークIIへと進化を遂げた、と言ってよかろう。(太田)
<話を戻して、>日蓮は、為政者が称名念仏を止め、唱題による法華経信仰を再興することで、世は安穏になると信じ・・・「立正安国論」<を>為政者に提出し<ます。>・・・
⇒「安国」などということを日蓮が目指していたはずがないのであって、全ては方便であると見なければならないのだ。(太田)
客を幕府の最高権力者に見立て、日蓮が主人となって、客の質問に答えながら、世の乱れを正す方途を主人が授けていきます。ここで驚くのは、主客の立ち位置です。日蓮は、幕政に対する指南者であることを当然として、これを書いています。そして、受け取る幕府側にも、その構図に異議を唱えた形跡は見られません。当時、僧侶が上位の立場から幕政を指南することが、それほど不自然なものではなく、僧侶の立場が現代よりも格段と政治的に上位だったことが伺えます。・・・
⇒「僧侶の立場」と一般化できるものではなく、日本の歴史を通じ、ごくまれに、日蓮のような僧侶が、その識見・人格のおかげで、日本の最高権威や最高権力者に一目置かれた、ということだろう。(太田)
日蓮が広めた唱題は、称名念仏の勢いを押し返していきました。「念仏無間地獄」との激しい攻撃や、「立正安国論」で示した日蓮の予言が蒙古襲来によって的中したことは、念仏僧たちに大きな動揺をもたらし、幕府内には政治的な葛藤も生まれていきます。そうしたなか<、>1271年10月、日蓮は佐渡に流されました。・・・
日蓮は、「立正安国論」を幕府に提出した翌年1261年に伊東へ流されていますから、日蓮は10年で二度の流罪に処されたことになります。二度の流罪というのは、法華経者である日蓮にとって特別な意味がありました。それは、法華経の予言が的中した証だったからです。少し説明しましょう。
法華経には、釈迦滅後の悪世において法華経を流布する者には必ず三種の強敵が現れ、迫害を加えるだろうとの予言が記されています。一つは、仏法に素養のない者たちからの迫害であり、二つ目は、僧侶からの迫害、そして三つ目は、高僧が権力者を扇動して二度以上にわたって逮捕・流罪にするだろう、というものでした。ところが、日蓮以前には二度以上の逮捕・流罪を経験した法華経者はいませんでした。そこで日蓮は、この予言を身で読んだのは<(ミスプリ?(太田))>、史上、日蓮ただ一人である、と述べます。日蓮こそ、法華経を経文通りに実践した真実の法華経の行者である、との宣言でした。・・・
⇒そんな風に、日蓮は、信徒達に対してまことしやかに方便を語った、というだけのことだろう。(太田)
日蓮は、この自覚に立って自身のことを「釈尊より大事な行者」と述べ、日蓮こそ釈迦仏法が滅んだ時代の新たな法華経の再興者、仏である、と覚悟します。・・・
⇒これについては、日蓮自身、そう信じていただろうし、あえて言うならば、客観的にもその通りだと私は思うに至っているわけだ。(太田)
日蓮は、佐渡流罪の以前と以後とで、自分の教えが変わっていることを理解するよう、門下に通達します。・・・
一番、大きな変化は、日蓮が曼荼羅を書きはじめたことにあります。・・・
曼荼羅を書きはじめた当初は、時機をはかったのか、中央には書かなかった自身の署名でしたが、やがて南無妙法蓮華経の真下に日蓮と書き入れ、日蓮こそ南無妙法蓮華経そのものである、と公然と示すようになります。南無妙法蓮華経の七文字は、佐渡以前には、法華経に対する帰命の誓願として唱えられていましたが、佐渡以降は、法華経身読の真実の行者<たる日蓮自身>を表すことにもなったのです。・・・
曼荼羅の表示と並んで、佐渡以降、日蓮に顕著に見られた変化は、密教(真言宗・天台宗)に対する攻撃です。それまでも密教への批判がまったくなかったわけではないのですが、佐渡流罪を境に本格的に準備し、攻撃を開始しました。
そもそも曼荼羅は、密教による世界観を図示したもので、大日如来を本尊とし、祈祷・修法には欠かせないものでした。この本尊を、大日如来から法華経の行者に代えた日蓮の曼荼羅は、それ自体で、密教の否定であり、攻撃だったのです。かつて、称名念仏に対抗して、帰命の対象を阿弥陀仏から妙法蓮華経に改めて法華経信仰の再興を目指した日蓮は、今度は、本尊を大日如来から法華経の行者である日蓮に改めた曼荼羅を示して密教に対抗し、末法における新たな法華経信仰を確立しようとしたのです。・・・
⇒日蓮は、まことにもって、方便づくりにおいても天才であった、と言うべきか。(太田)
叡山で授戒され、阿闍梨号を受けた日蓮は、<支那>の智顗(天台大師)、日本の最澄の流れを汲む正統派の法華経者として、活動を始めます。ところが、日本仏教の総本山とでもいうべき比叡山の天台宗は、すでに9世紀、第三祖の円仁(慈覚大師)が密教を法華経の上位に置き、密教化していたのです。日蓮が浄土宗と争うことは、天台宗も専修念仏の禁止を求めていたので、教義上も日蓮の立場からも難しいことではありませんでしたが、相手が密教となれば話は別です。
日蓮は、幕府に「立正安国論」を提出する際、次のように記しました。「天台沙門日蓮撰」――天台宗の僧である日蓮が著述した、という意味です。密教批判は、天台僧を名乗る日蓮が、総本山の天台宗に弓を引く行為になるわけです。・・・
日蓮が次に勝負すべき相手は、まさに<黒田俊雄氏言うところの>顕密体制<(コラム#11312)>そのものだったということになります。日蓮が密教による祈祷を停止するよう幕府に求め、密教批判を展開したことは、当時の全仏教界を敵に回すだけではなく、国家体制それ自体への挑戦でもあったわけです。・・・
日蓮は、自身を本尊とした新たな法華経信仰が、釈迦の末法において、真実無二の仏法として海外に流布していくことになる、とも述べました。内村鑑三は『代表的日本人』<(前出)>の中で次のように語っています。
「日蓮の大望は、同時代の世界全体を視野に収めていました。仏教は、それまでインドから日本へと東に向かって進んできたが、日蓮以後は改良されて、日本からインドへ、西に向かって進むと日蓮は語っています。これでわかるように、受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でありました」
日蓮の創造性と独立心は、世界を視野に収めた大望を有する点でも発揮されたと内村は言います。そして、結論として次のように述べています。
「闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教者であります」
読者の皆さんは、この内村の意見をどう思われたでしょう。称名念仏、密教への攻撃を通して法華経信仰を再興しようとした日蓮から、闘争を差し引いてしまったら、果たして日蓮の独創性はあったでしょうか。・・・
法華経信仰は密教から、「法華経には三密が欠けている」と強烈に批判されてきました。どういうことか、簡単に説明します。密教の最も大事な法門に「即身成仏」があります。人が、その身、そのままで成仏できる、という教説です。日蓮は、この即身成仏の法門は、密教が法華経から盗み入れたもので、もともと密教に説かれたものではない、と批判します。が、今は、そこには深入りしません。
密教で説く即身成仏には、身・口・意の三密の修行が不可欠である、とされました。具体的には、手で印を結び(身密)、口で真言を唱え(口密)、心に本尊を思い浮かべる(意密)ことを指します。即身成仏に不可欠な三密のうち、法華経にはただ意密だけあって、身密と口密がないというのが密教からの批判です。この批判に、法華経を尊重する顕教からは、有効な反論ができず、天台宗ではむしろ密教に法華経を引き入れて、密教と法華経の同一を説きました。これは法華経を最第一とする日蓮にとって許し難いことだったでしょう。・・・
日蓮によって真言を唱える口密は、唱題に転換され、手印を結ぶ身密は、授戒の儀式に転換されました。・・・
日蓮を日本第一の僧であると朝廷と幕府が公認し、日蓮に授戒の資格を与え・・・日蓮を中心に仏教界が再編されるという・・・夢は叶いませんでした<が・・>。
⇒いや、後宇多天皇<(前出)>(朝廷)は公認した、と言っていいだろう。(太田)
やがて時代が下って戒壇や授戒に馴染みがなくなり、日蓮の法華経信仰が広範な民衆に受け入れられると、信徒が本尊に向かって唱題する場所、身体的作法、仏具、儀式など、その全般を身密の戒壇として理解するようになっていったのでしょう。・・・
日蓮は、1274年3月、幕府に赦されて約2年半ぶりに佐渡から鎌倉に戻ります。そして、内官領として幕政の中枢にいた平頼綱<(注73)>と対面しました。
(注73)1241~1293年。「<北条得宗家の>御内人の筆頭格として時宗の専制体制を補佐した。時宗死後に対立した有力御家人の安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、内管領として時宗の嫡子貞時を擁し幕府内外で絶大な権勢を振るうが、頼綱の恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1
頼綱は威儀を正し、日蓮に蒙古襲来の時期を尋ねます。日蓮は、年内にはやって来るだろうと述べた上で、絶対に密教による祈祷をしてはならない、と強く進言します。
⇒蒙古襲来の時期までの的中は、あてすっぽうではなく、既述したように、北九州等にもいた日蓮の信徒達からの朝鮮半島情勢等の情報を踏まえてのものだったに違いない。(太田)
密教による祈祷をすれば、日本は軍(いくさ)に負ける、とまで断言しました。その際、日蓮が例に出したのが、1221年の承久の乱です。
承久の乱は、日本史上、唯一、武家が天皇家を流罪にした戦いです。幕府軍に朝廷は敗北し、後鳥羽上皇、順徳上皇は隠岐と佐渡に流されます。日蓮は、民である北条義時が、天子である後鳥羽上皇を攻めたのは、子が親を撃ち、家臣が主君に敵対するのと同じで、天照大神も八幡神も味方にはならない。にもかかわらず、公家が負けて武家が勝ったのは、朝廷が密教を信じ、祈祷させたからだ、と非難したのです。・・・
⇒これも、当然ながら、密教批判のための方便だったわけだ。(太田)
<ちなみに、>日蓮が、国という字を書く場合、「くにがまえ」に「玉」や「或」ではなく、「民」と記す場合が見られることから、「鎌倉時代にあって日蓮は、王や統治者ではなく、すでに民衆を中心に国を理解していたからだ」という意見があります・・・
⇒その意見の通りだ、と断定しておこう。(太田)
<また、>日蓮にとって日本の統治者は、もはや朝廷ではなく、北条幕府でした。・・・
日蓮は「立正安国論」で、もし念仏への帰依を停止しなければ、国乱に見舞われ、他国から攻められるだろう、と二つの予言を残しましたが、蒙古からの国書が届き、予言の一つが的中した際、日蓮は幕府に次の4点の処遇を期待しています。
一、国からの褒章、二、存命中の大師号の授与、三、軍議への招聘、四、敵国退治の祈祷の要請です。大師の称号は、智顗は存命中に受けていますが、最澄に贈られたのは死後のことでした。日蓮は、伝教大師を超える厚遇で自分を国師として迎えるべきだ、と主張しているのです。・・・
文永5年、蒙古からの国書が届き、その来襲が眼前に迫ると、日蓮は執権の北条時宗に次のような書状を送りました。・・・
インド・中国・日本の三国における仏法の判定は、王の面前で行われてきた。いわゆるアジャセ王<(注74)>の時代、陳・隋の時代、そして桓武天皇の時である。
(注74)アジャータシャトル(阿闍世。在位:紀元前5世紀初頭頃)「古代インドに栄えたマガダ国(現在のビハール州あたり)の王。父王ビンビサーラを殺害して王位を得た。・・・仏教に帰依し教団を支援するようになったと伝えられている。釈尊が入滅後、王舎城に舎利塔を建立して供養し、四憐を服して中インドの盟主となり、仏滅後の第一仏典結集には、大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AB
⇒日蓮による(具体的に何のことだかの調べはつけていないが)桓武天皇への言及が注目される!(太田)
こう述べるのは日蓮の曲がった私心からではない。ただひとえに大忠を抱いているからである。我が身のためにこれを述べているのではない。神のため、君のため、国のため、一切衆生のために申し上げているのである」
⇒日蓮の本心は、「神のため」と「一切衆生のため」だけだったはずだ。
もとより、「神のため」、も方便だった可能性もあるわけだが、私は、日蓮は神道排斥論者ではないと見ている、と申し上げたところであり、そうは思っていない。(太田)
これほど端的に日蓮の目標、本音が語られた書簡はないように思います。これは、日蓮が佐渡に流される前ですから、日蓮には真実の法華経の行者といえる覚悟はまだありません。それでも、幕府・執権が主宰した討論によって、誰が正しい仏法を説いているか、白黒をハッキリさせるべきだ、と求めます。しかも、日蓮を国師としない祈祷では、国はさらに攻撃されることになる、と述べ、後悔しても知らないぞ、と執権を脅しているのです。・・・」
http://ronso.co.jp/%e3%83%9f%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%aa%e3%81%aa%e3%80%9c%e3%80%80%ef%bc%831/
引き続き、同じ江間浩人による「日蓮と政治」(『法然思想 Vol. 4』(言視舎))からだ。
重複する部分がいくつかあるが、復習も兼ねるということでご理解いただきたい。↓
「高木豊<(注75)>氏は、・・・幼時に乳母が存在した<ところの、>・・・日蓮は荘官層の出であろうと推測し<ている。>・・・
(注75)「昭和3年8月18日静岡県に生まれる。昭和26年3月、東京文理科大学史学科卒業。同27年6月立正大学仏教学部宗学科助手。同42年4月、立正大学講師・助教授を経て教養部教授。同45年3月、東京教育大学より文学博士の学位を授与される。この間、東京教育大学・日本女子大学・東北大学・千葉大学の非常勤講師として出講。平成8年4月、立正大学教養部長・仏教学部教授を歴任し、大学院文学研究科委員長。同11年4月、立正大学名誉教授。同11年5月10日、逝去。」
https://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E8%AB%96%E6%94%B7-%E9%AB%98%E6%9C%A8-%E8%B1%8A/dp/479540223X
日蓮の弟子も由緒正しい血筋のものたちである。・・・
<何と、>日蓮の葬送<の時の>・・・葬列・・・<を>将軍御所の在勤者が・・・飾って<いる。>・・・
さらに、日蓮が赦免されて佐渡から鎌倉に向かう際、善光寺の僧徒らが日蓮の斬首を謀ったが、日蓮の衛兵が越後の守(金沢実時)の衛兵さえも凌駕する規模だったことで、僧徒らは手出しができなかったと日蓮自身が誇ってもいる。・・・
北条義時以来、得宗家にとって主に三つの脅威が存在した。
一つは頼朝の血をひく将軍家であり、不達には頼朝以来の有力御家人であり、三つには同じ北条一門にありながら常に得宗家に対峙し続ける名越家である。
北条得宗家は、日蓮の活動期までに前に<最初の二つ>の排除には成功したが、・・・朝時<に始まる>・・・名越家の脅威は残存していた。・・・
1272年。。。の二月・・・名越家を凋落させ、国内における得宗家の脅威は消滅する。
日蓮の前期(1253~71)は、まさに名越家をめぐる北条一門の熾烈な抗争の渦中にあったのである。・・・
重時<(コラム#11334)>は朝時のすぐ下の弟であったが、常に得宗家から重用され続けた。
執権泰時が朝時を抑えるために重時との連合を謀ったからである。
長男と三男が手を組んで次男を封じ込める。
以後、重時を祖とする極楽寺家は、名越家に対する抑えとして得宗家との二人三脚によって栄華を極めていく。・・・
⇒こういう見方もできることは否定しない。(太田)
日蓮の檀那であったことで知られ、名越朝時の妻との伝承もある「名越の尼」<の存在等から、>・・・日蓮<は>名越家と近しい存在であったと<考えられる。>・・・
<そして、>重時の娘であり、時頼の妻であり、<当時の>執権・時宗の母である後家尼御前・・・の介在が・・・1279年・・・の富士における熱原法難に・・・疑われる。
1271年・・・9月の竜ノ口処刑と、続く佐渡流罪についても・・・後家尼らの意を受けた・・・処断だったという。・・・
<日蓮の竜ノ口処刑の際の>斬首の・・・指令者は、・・・後家尼の意を受けた・・・侍所所司<の>平頼綱である。
この企ては、執権時宗<の>「立て文」によって、かろうじて回避された。・・・
日蓮の後期(1272~82)は、時宗の治世にあたっており、この・・・名越家<が>力を失<った以後の>時期、幕府内では安達泰盛<(注76)>と平頼綱との抗争が進行していた。・・・
(注76)1231~1285年。「安達邸で誕生した時頼の嫡子・時宗の元服の際には烏帽子を持参する役を務める。父の死の前年に産まれた異母妹(覚山尼)を猶子として養育し、弘長元年(1261年)に時宗に嫁がせて北条得宗家との関係を強固なものとした。・・・鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。・・・
<彼は、真言宗の>醍醐寺遍智院の実勝法印から関東において灌頂を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B3%B0%E7%9B%9B
安達氏は、藤原氏魚名流を称する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B0%8F
日蓮の大檀那である比企能本<(注77)>・・・と泰盛はもともと縁戚関係にあり、・・・能本は泰盛の書の師匠でもあったようだ。・・・
(注77)ひきよしもと(1202~1286年)。「1203年・・・鎌倉幕府における比企氏と北条氏の対立による比企能員の変で父能員と一族が滅ぼされるが、能員の妻妾と2歳の男子は助命され、和田義盛に預けられたのちに安房国へ配流となった・・・。
・・・生き残った能本は伯父の伯蓍上人に匿われて出家し、都で順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡島配流に同行した。のちに四代将軍藤原頼経の御台所となった姪の竹御所の計らいによって、鎌倉に戻ったという。1253年・・・能本は日蓮に帰依する。
竹御所死後にその菩提を弔うため、比企ヶ谷に法華堂を創建し、のちの妙本寺の前身となる。1260年・・・北条政村の娘が比企氏の怨霊に取り憑かれるという事件があり、妙本寺の境内にある蛇苦止堂は政村の建立であるという。妙本寺は当初竹御所の法華堂として始まり、文応の事件によって北条氏により比企氏の怨霊供養として法華堂が建てられ、比企一族の菩提寺となったと見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E8%83%BD%E6%9C%AC
比企氏は藤原秀郷の末裔を称する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E6%B0%8F
後期の日蓮教団は、後家尼(得宗家)–頼綱(御内人)–忍性<(前出)>(諸僧)という御内人に連なる勢力と対峙し、泰盛</能本>と頼綱のしのぎを削る対立抗争の内に揺れていたのである。・・・
鎌倉初期には篤く受容されていた法華経信仰を再興しようとした時、南無妙法蓮華経の提題という形態をとったのは偶然ではない。・・・
すでに平安時代に一部で行なわれていた南無妙法蓮華経の唱題を、・・・妙法蓮華経の題目五文字に法華経のすべてが集約されていると論考した「天台の「法華玄義」を根拠に、題目の信受は法華経全体の信受と等価であると主張した。
南無の二字は、神仏に対する帰命、信服を表す言葉で、新興の対象に南無を冠して帰命を誓う形式は一般化しており、阿弥陀信仰も法華経信仰もこの点に変わりはない。・・・
<こうして、>法華経信仰も万人に開かれた宗教性を有することになった。・・・
日蓮は安国論で、念仏への「施を止めよ」と主張する。・・・
1271年・・・忍性による祈雨の祈禱が叶わなかったことから、日蓮の忍性攻撃は激しさを増した。・・・
<これは、忍性の経済基盤に直結する問題であった。・・・
日蓮が佐渡に配流中、その布教によって佐渡の念仏者が相次ぎ日蓮門下となっていく事態に対し、念仏僧たちは「日蓮を殺害しなければ、我らは餓死してしまう」と嘆いている。・・・
重時の帰依によって膨大な特権を受ける忍性を、名越家に近いとされる日蓮が激しく批判し、しかもその非難は<忍性が別当だった>極楽寺の利権にも向けられた。・・・
当時、鎌倉には天変・飢餓によって多数の流人・非人が押し寄せた<が、>・・・忍性は流人・非人を鎌倉境界で押しとどめ、これを組織し、その労働力を使って大規模な建設事業を幕府から請け負って利益を上げていた。
また港湾施設である飯島の維持管理、および関料徴収の特権も認められていた。
さらに由比ヶ浜と材木座海岸一体での殺生禁断の励行、取り締まり権も付与され、ときには港湾に運ばれる木材などを、その品不足に乗じて買い占めて暴利を得たようである。・・・
得宗家と極楽寺家が日蓮を政治的な脅威とみたのは当然であろう。・・・
<次に、>日蓮は<密教そのものの>真言宗<と、>・・・密教を重用している・・・天台宗<、>との対決を周到に準備し<た上で、開始した。>・・・
<どちらも日蓮の弟子の>日朗と比企能本は、佐渡赦免後の日蓮を迎えようと比企が谷に妙本寺を創建していた。
・・・頼朝以来、将軍家ゆかりの地であ<った>・・・<この地に、>しかも比企氏の開基によって寺の造営が認められたことは、幕府が日蓮を公認したに等しい。
後に日蓮は、安達泰盛の働きかけによって、時期からみて異国調伏と思われる祈禱の申し出を受けている。
幕府による調伏祈禱は社寺に対する所領の寄進と不可分の関係にあり、日蓮に対しても当然、所領寄進の申し出があったと考えられる。
名越家に近しい存在として政治的には野党側に位置した教団が、泰盛の理解を得たことで与党側に軸足を移したといえる。
にもかかわらず日蓮<は>鎌倉からの辞去を選択した・・・
<というのも、>日本第一の僧・国師としての祈禱<ではなく、このような、>・・・日蓮を密教僧と同列に扱う処遇は、・・・許容できるものではなかった<からだ。>・・・
以降、日蓮は幕府への一切の諌暁を止め、再度の蒙古襲来については門弟が話題にすることさえ禁じた。・・・
<なお、>日蓮による曼荼羅の授与は、密教僧の占有から祈禱を解放し<、ついには、>・・・祈禱の入り込む余地<をなくした、と言えよう。>・・・」
http://ronso.co.jp/cp-bin/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/e34095f25aa146e8863ea6df02a0a4e6.pdf
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[釈迦牟尼仏(釈迦如来)と日蓮]
「上座部仏教(いわゆる小乗仏教)では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(あらかん)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。
大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。
大乗仏教の中でも、日蓮宗・法華宗では宗派の本尊とする本仏が誰かという論争があり、釈迦本仏論と日蓮本仏論の対立がある。このうち釈迦本仏論の本尊が本仏としての釈迦牟尼仏である。かつて天台宗においても唱えられていたようであるが、今では日蓮宗・法華宗でしきりに論じられる。法華経の如来寿量品第十六に登場する無量長寿の釈迦牟尼世尊がこれに当たる。ユーラシア大陸の古代インドで活躍し肉体を持ったゴータマ・シッダルタ(釈迦)を指すのではなく、インドで肉体を持って生誕した前の悠久の昔から存在し、入寂の後も遥か将来まで存在して行くという信仰上の釈迦牟尼世尊である。無量の諸仏を迹仏とし、本仏釈尊のコピーに過ぎず、言わば、本仏釈尊を月とすれば諸仏は千枚田に映る千の月であるという論である。釈迦本仏論の宗門の信仰の対象である。久遠本仏とも呼び、日蓮宗総本山身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡)の寺名にもなっている。
なお、法華経では、釈迦如来はインドの菩提樹下で初めて覚ったのではなく五百塵点劫の遠い過去に成仏していたと説かれると共に実際には入滅することも無く永遠にこの世に在り続けていることを説き(久遠実成)、涅槃経では入滅後の未来について強く言及するものの、実際には如来は常住不滅であると説かれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%A6%82%E6%9D%A5
⇒本仏を釈迦牟尼仏(釈迦如来)と見るか日蓮と見るかは、本質的な問題ではないと思う。(太田)
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[法華一揆]
「日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれる。
京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていた。・・・1532年・・・、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。
・・・1536年2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破した(松本問答)。
延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まると、面目を潰されたと感じた延暦寺は日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。だが、幕府は建武元年(1334年)に下された後醍醐天皇の勅許<(コラム#11338)>を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。・・・これにより、延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議した。
同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った。日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。要求を拒否された延暦寺は朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・園城寺・東寺などにまで協力を求めた。いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。
延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。他方、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利であったが、次第に劣勢になっていった。そして、27日までに延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。28日には、最後まで抗戦していた本圀寺が陥落している。
さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。
こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。・・・1542年・・・に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、・・・1547年・・・には定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%80%E6%8F%86
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最後に、結構重要な話なのだが、創価学会が神道を排斥しているので誤解している人がいるが、日蓮自身は神道を排斥していたわけではないことを、ここで強調しておきたい。↓
「身延の日蓮のもとには多くの門下が訪れたが、下部温泉の湯治のついでに訪問したという者には真剣な信心が認められないとして面会せず、全て追い返した。老齢の内房(うつぶさ)の尼御前が訪ねてきた時も、尼御前が氏神に参詣したついでに来たと言ったので、日蓮は、仏が主で神は従であるとの道理を尼に分からせるためにあえて面会しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
日蓮は、聖徳太子コンセンサスにおける神仏習合を、仏教が主、神道が従の形での並存、と、捉えていた、ということなのだ。
この並存について、寺と神社の関係が、構内、隣接、近接、非近接、別の次元で言えば、関連付けの有無、の、一体どこまでが許されるのか、までは不明だが・・。
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太田述正コラム#11376(2020.6.27)
<2020.6.27東京オフ会次第(その1)>
→非公開