太田述正コラム#11213(2020.4.7)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その7)>(2020.6.28公開)
「ちなみに、明治4年(1871)4月17日、明治政府は平民・・・に乗馬を許した<(注8)>・・・。
(注8)「中近世の日本では、馬術は長く武芸の一つとして位置づけがなされており、基本的に武士のみに許されていた。それ以外は馬子など別の者に馬を引かせる場合に限って騎乗が許され、たとえ自分の馬でも自ら手綱を握ることはできなかった。・・・
江戸幕府の軍役規定で、職務で乗馬が許されていたのは200石(30トン)以上の御家人でなければならなかった。また武家の年中行事の一つとして、1月2日に千石以下の騎馬の格の家で「乗馬始めの式」という儀式が行われた。・・・
<但し、>古代では「宗教目的での乗馬」もあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E9%A6%AC
武士を芸能人とする新見解はすでに学界に定着しているが、武士が何をきっかけに、何時どのように発生してきたのかという問題については、あらたに提言する研究者が筆者以外にはおらず、武士=芸能人説はまだ武士の発生論にまでは及ばずにきた。
⇒私自身は、武士=芸能人説、を採らず、なおかつ、全く新たな武士の発生論を提言するに至っている、ということになります。(太田)
芸能人説を承認する研究者でも、多くは漠然と地方農村での発生を想定していたし、平安中期の国守(こくしゅ)を中心に形成された国衙(こくが)(衙は役所、すなわち国司の役所)の軍制を発生母胎とする、と強硬に主張する論者もいる。・・・
<いずれにせよ、>律令社会では、宮都とその周辺で自由に武器を携帯して横行することなど、あってはならない事態だった。・・・
<すなわち、>公の場で武器の携帯を許されていたのは、上流文官貴族を別にすれば、武官だけだった。
⇒高橋はこのくだりの前段に典拠を付していませんが、事実だとすれば、むしろ、武は為政者達の必要条件だったはずだ、とする私の主張を裏づけるものですね。(太田)
武官以外の武器携帯の禁止を、自由兵杖(表情)の禁止という。
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[随身(ずいじん)]
「平安時代以降、貴人の外出の時、警衛のために、勅宣によってつけられた・・・左右近衛府(このえふ)の官人・舎人・・・。・・・9世紀中葉,摂政藤原良房に賜ったのを始めと<する。>・・・
弓矢を持ち剣を帯び、近衛は徒歩、その他は騎馬で、前駆は番長(ばんちょう)がつとめた。「弘安礼節」によればその人数は、上皇には将曹(しょうそう)・府生(ふしょう)・番長各二人、近衛八人で総計一四人、摂政・関白には府生・番長各二人、近衛六人で総計一〇人というように、大臣・大将には八人、納言・参議には六人、中将には四人、少将には二人、諸衛督には四人、佐には二人である。・・・
装束は雛(ひな)人形になごりをとどめている。・・・
摂政関白には,近衛のほか内舎人(うどねり),左右兵衛があわせてつけられることもあり,これも随身と称した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%8F%E8%BA%AB-82972#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
「将曹<は、>・・・ 近衛府(このえふ)の主典(さかん)。正七位下相当。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%86%E6%9B%B9-532358
「律令官制においては,各官司の主要な職員は,長官(かみ),次官(すけ),判官(じょう),主典(さかん)の4等級に分かれて職務を分掌した。これを四等官,四分(部)官という。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E5%85%B8-68605
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実際には武器をともなう自力救済が横行しているから、実効性はお世辞にも十分とはいえない。」(26、36~37)
⇒すぐ下の囲み記事を参照していただきたいが、私見では、自力救済が横行したのは、第一次弥生モードの時代の初期(平安末期から鎌倉幕府成立まで)、であって、それまでの、拡大弥生時代も、第一次縄文モードの時代(平安時代初期~平安時代中期)も、そんなことはありませんでした。
(自力救済に関して南北朝時代や戦国時代をどう見るべきかは、別途、論じたいと思います。)(太田)
(続く)