太田述正コラム#11215(2020.4.8)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その8)>(2020.6.29公開)

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[日本古代が自力救済社会?]

〇直前史

 弥生時代といえども、単なる自力救済社会ではなかったことが窺える。↓

 「弥生時代中期の裁判の実態は不明であるが、銅鐸の線刻画(香川県出土・・・)には、喧嘩をする二人を第三者が仲裁する絵が見られ、争いに際し、第三者が解決しようとする芽生えはみられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4
 なお、「弥生時代中期<は、>・・・はじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

〇拡大弥生時代

 ◦連合政権時代

 この時代においても、犯罪は少なく、治安もよく、従って、裁判にまで至ることも少なかったことが窺える。
 いずれにせよ、裁判・・諍訟・・が行われていたのだから、自力救済社会ではなかったことは明白。↓

 「魏志倭人伝は 3世紀の邪馬台国の状況について、
「盗窃せず諍訟少なし。其の法を犯すや軽き者はその妻子を没し重き者は其の門戸及び宗族を滅す。尊卑各々差序有り相臣服するに足る。」
と述べこのときすでに刑法および身分制に相当する法または慣習の存したことを伝えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B3%95%E5%88%B6%E5%8F%B2

 ◦統一国家時代

 「古墳時代当時は、雷や地震、日食や月食などの気象現象が起こった時、人々は、「罪を犯した人に対する神の怒り」として恐れられ、その原因を作った、とされる人物を探し出し、盟神探湯<(注9)>(くがたち – 熱湯に入っている石を素手で取り、皮膚の火傷具合で有罪か無罪を判断する道具)などを使用して罪人を暴いていた。

 (注9)「継体天皇24年9月条には、倭国から任那に派遣された近江臣毛野の下に任那人と倭人の間に子供の帰属を巡る争いが発生した際、裁定が出来なかった毛野が「誓湯」すなわち盟神探湯によって判断を下そうとしたところ、火傷を負って死ぬ者が多かったとされる。この話は近江臣毛野の失政と暴虐ぶりを示す話とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF
 『かちかち山』にみる古代日本の裁判
https://omosiro-column.com/archives/4523

 一例として、『日本書紀』神功皇后元年の記事として、「突然、数日ほど太陽が登らなくなった(日食になった)ため、原因を調査させたところ、一つの墓穴に男が2人入っており、同性愛の罪が原因と判断され、墓穴を別して再葬した」(古神道では同性愛は太陽の再生産の否定につながるため、罪と記される)とあり、気象現象と罪が密接につながっていた(この場合、罪人はすでに死亡している)。「神が犯罪を見つけ、神が裁く」この時代は「神」の存在が絶対であった。このような方法は一部の地域では室町時代まで行われていた。

⇒「注9」の近江臣毛野の事例からは、天変地異の場合を除き、盟神探湯は例外的に行われたこと、そして、盟神探湯を行った(裁定できず盟神探湯を行わざるを得なかった)官僚に対して否定的評価が下されたことが読み取れる。
 つまり、裁判が基本的に機能していたことが推察され、やはり、自力救済社会ではなかったことは明白だ。(太田)

 律令時代以前、諸国領内の裁判を担当したのは国造と考えられており、・・・645年・・・8月に、国司に下された詔に、「国司等、国に在りて、罪を判るを得ざれ」とあるのは、国司に裁判権がなく、国造が行っていたためと考えられている。この時代の性格としては、司法も立法も併せ持ったものとみられ、それと同時に中央の統制を受けていたとみられるため、独立的に支配権を行使できなかったという点で、近世の幕藩体制における大名の支配形態に似ていると指摘される。

⇒本筋を離れるが、封建時代との違いの一つがここにあるわけだ。(太田)

 <但し、>のちの律令制下では、国司も、ある程度、裁判権を有していた。

 ◦天武朝時代

 司法制度が整備されており、かつまたそれが機能していなかったという話が聞こえてこない以上、自力救済社会ではなかったことは、やはり明白。↓

 奈良時代から10世紀にかけて、本格的に大陸の制度である律令制が導入・運用されるが、司法と行政は一体のものであり、行政の一事案として裁判は行われ、全ての官司に裁判権があった。律には、死(斬と絞の2種)・流(遠流・中流・近流)・徒(3 – 1年までの五等の懲役刑)・杖(100 – 60の五等)・笞(50 – 10の五等、杖より細い)の五刑、二十等が規定されている。律令の裁判制度は、この罪の等級に応じて判決を下せる官司のレベルが異なる仕組みであり、事件が起きた所の官司がまず裁判を直轄し、罪刑を推断する。地方ならば、所管郡司は、最低の笞罪を判決して、刑を執行できたが、杖罪以上に当たれば、国司に送り、この国司は徒罪と杖罪までを執行できた。一方、京にある官司は笞罪と杖罪は判決・執行できるが、徒罪以上に当たれば、刑部省に送り、刑部省は徒罪のみは判決・執行できる。国司も刑部省も、流刑以上または除免官当という有位官人に適用される換刑に当たると判断した場合は、太政官に申上しなければならなかった。太政官は覆審(再審査)して刑部省に審議させた上で、その結果を「論奏」という文書様式で天皇に奏上して、天皇の裁許をへて、死刑・流刑などが確定し、執行されるという手続きである。・・・

〇平安初期

 司法制度が天武朝時代のものから改変されたこと自体が、司法制度が機能していたことを示しているが、いずれにせよ、自力救済社会ではなかったことは、この時期に関しても明白だ。↓

 平安時代に至ると、令外官として検非違使が登場し、警察治安に活躍するも、量刑機能を担っていた刑部省の存在が見えなくなる。その刑部省の代わりとして、9世紀に量刑機能を担ったのが、明法博士<(注10)>であり、明法勘文<(注11)>を提出して、罪名を断じて、太政官の裁判を動かすようになる。

 (注10)みょうほうはかせ。「日本の律令制下において大学寮に属した官職の一つ。令外官。定員2名で、当初は正七位下相当。 後に名門出身者で占められるようになった。
 ・・・728年8月30日・・・の格において文章博士とともに設置された。当初の名称は律学博士(りつがくはかせ)であったが、・・・730年4月18日・・・に明法生が設置されてから遠くない時期に明法博士と改称されたとされている。明法博士の下には明法得業生(みょうほうとくぎょうしょう)2名と明法生(みょうほうしょう)10名(後に20名)があった。後には、陣定などの朝議に際して法律的な見解を記した明法勘文を作成・提出することも重要な職務となった。平安時代中期には讃岐氏や惟宗氏の世襲の傾向が見られたが、中世以降には両氏に代わって、名望の坂上氏及び中原氏の世襲となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B3%95%E5%8D%9A%E5%A3%AB
 (注11)みょうぼうかんもん。「明法博士ら明法道の学者(明法家)が、諮問に対する解答として勘申した文書(勘文)。主として朝廷・院庁より個々の事件・問題に対する律令格式などによる法的解釈を諮問された場合の解答として行われるが、天皇や公卿などからの個別の質問や自問答による解答なども含まれる場合がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B3%95%E5%8B%98%E6%96%87

 摂関政治期では、この「太政官の裁判システム」と「検非違使の裁判システム」の2本立てであったとみられる。この両者の管轄・分割は、太政官では五位以上を有する官人層・大寺社の関係者、公家使や侍臣などが対象となり(陣定も参照)、それ以外は検非違使庁で扱われたとみられる。本来、使庁は、強盗・窃盗・私鋳銭を裁判対象としていたが、やがて非官人層へと管轄を拡大した。
 ただし摂関・院政期における太政官については、死刑に関しては、天皇が最後に一等減じて遠流とすることが慣例となり、保元・平治の乱(武者の世)になるまで執行はされなかった)。すなわち平安貴族が実刑を科されたのは流罪だけである(後述書)。これは<支那>において、流や徒は恥辱であったが、死刑は辱めを受けない名誉だったためであり(後述書)、『礼記』にも、「礼は庶民に下らず、刑は丈夫に上がらず」という理念にもあるように、<支那>の制度を継承したものといえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4 前掲

⇒ここでも本筋を離れるが、最後のただし書きについては、唐の歴代皇帝達中、玄宗皇帝に限っては、その治世の最初より死刑を避けた、ということはあったようだ
https://www.fben.jp/bookcolumn/2015/05/post_4316.html
が、その玄宗の在位中に安史の乱(755~763)が起こり、その後、唐は衰亡に向う
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
のを眺めていた日本の朝廷が、玄宗の(しかもそんな)政策を参考にしたとは思えないし、唐では上級官僚には死刑を行わなかった、という話については、本当かどうか疑わしい。
 では、嵯峨天皇はどうして死刑を停止したのだろうか?
 これに関する私見は、次の東京オフ会「講演」で。(太田)
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(続く)