太田述正コラム#11217(2020.4.9)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その9)>(2020.6.30公開)
「しかし、禁止自体はのちまで続いた。
平安中期以降朝廷が発した時々の成文法は、くり返し武官でないものが京中で武器、とりわけ当時の主力兵器であり、刀剣より攻撃力の大きな弓矢を帯びるのを禁止している。
・・・源平の武士は、10世紀の後半より登場してくるが、当初は武官外の武という特殊な存在であった。
一方、自由兵仗の禁止という建前は生きている。
彼らがこの規定に抵触しないためには、衛府の尉(じょう)(三等官)に就任するか、そこから上昇して非武官職に就いた時は、個別の許可を必要とした。
個別許可の例として、しばしばおこなわれた大索<(注12)>(おおあなくり)と呼ばれる京中盗賊の一斉捜索・逮捕の行事に、衛府の官人のほか、源平の武士が加わっていることが挙げられる。
これは内実は白昼におこなわれる大がかりな儀式であるが、参加する源平の武士に弓矢の携帯が命じられ、馬寮から馬が給されている。」(38)
(注12)おおあなぐり。「奈良時代末期より続く中央集権的な統制の緩和による京職の権限縮小と保<・・1/4坊=1保=4町・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D >
への権限移譲は結果としては京内の治安悪化をもたらし、盗賊の頻発に対応するために平安遷都後の弘仁年間には検非違使が設置された。そうした中で承和年間以降、大規模な群盗事件や集団脱獄などの発生時に六衛府(近衛府・衛門府・兵衛府)の官人や軍事力を動員して大規模な捜索と取締を行うようになった。
・・・891年・・・、宇多天皇は六衛府の官を兼ねていた2名の参議(左近衛中将藤原有実・右兵衛督藤原時平)を捜盗使に任じて指揮を取らせる大索を実施した。これは、同年に関白藤原基経死去や天文異変などがあり、社会の動揺の沈静化と政治改革の意思表明を意図したものであったとみられている。滝口武者が大索に加えられたのもこの時のことである。もっとも、当時の社会では、群盗と言えども追捕宣旨や(検非違使)別当宣に対して抵抗する事態は少なく、在京武士の地位も令外官である滝口武者に登用される以外には内舎人や馬允クラスに留まっていたため、彼らの動員は限定的であった。
在京武士の大索における役目が高まるのは、<承平・天慶年間(931~947)に起こった>承平天慶の乱の鎮圧を機に彼らが兵衛府や衛門府に登用されたことと近衛府の儀礼・奏楽機関化の進展(裏を返せば非軍事化)によるところが大きい。やがて、在京武士の中には勲功(勿論、その中には大索による群盗追捕の功績も含む)によって、五位の受領クラスに進む者が現れると六衛府に属しない彼らも召集されるようになる。
大索の実施は勅命により決定され、作戦の漏洩を防ぐために実施前日に勅命を受けた上卿は賑給の実施など別の名目で六衛府の官人や在京武士を召集した(召集段階では、天皇と上卿以外に大索の情報を知るのは摂関と蔵人頭のみである)。・・・
当日は上卿が卯一刻になる前(通常は寅刻)に参議に命じて賑給使などを任ずる先行の差文を捜盗使を任ずる差文に差し替え、外記に命じて参内してきた捜盗使や随兵に馬を提供させた。卯一刻になると外記は陣の前に各班の捜盗使の上首(もっとも官位の高い者)を集め、上卿が彼らを参上順に1人ずつ召し出して口頭によって今回の目的が大索であることを初めて伝えた。捜盗使はこれを受けて担当地域に分かれて一斉捜索を行った。また、必要に応じて蔵人頭が蔵人所の雑色や大索に加わっていない滝口武者を集めて大内裏の内側を一斉に捜索した。両者が行われる場合は通常の大索は「京中大索」、大内裏の大索を「宮中大索」と称した。・・・
だが、10世紀末になると検非違使の充実によって大索の意義が薄れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B4%A2
⇒大索は、初期のものはともかくとして、高橋の言うような「大がかりな儀式」ではなく、実際の「大がかりな捜索・取締」だったこともさることながら、平安京は、それ自体が擬制的には大宮城であって・・だからこそ、現実には壁はなかったけれど羅城門が設けられており(注13)・・、大内裏はその中の現実に壁で取り囲まれていた小宮城であって、どちらにおいても、内部で、自由兵仗が禁止され、弓矢や馬の携行、ひいては騎乗、が認められなかったのは、江戸時代に、江戸城内(殿中)で、脇差以外の武器の携行が原則として認められなかった
https://www.touken-world.jp/tips/32757/
のと同じではないか、という印象を受けます。
(注13)「「羅城門」とは、本来は都城を取り囲む城壁である「羅城(らじょう)」に開かれた門の意味であるが、一般的には平城京・平安京の京域南端中央に正門として設けられた門を指す。・・・平城京・平安京の場合には、京域南端において羅城門の両翼の一部に羅城が築造されるのみであったと推測される。・・・羅城門は都の正面を装飾するための建築であり、外国使臣の入京が途絶した後にはその必要性を失って荒廃することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%9F%8E%E9%96%80#%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC%E7%BE%85%E5%9F%8E%E9%96%80
従って、高橋が自由兵仗の禁止の話を麗々しく持ち出してくることには違和感があります。(太田)
(続く)