太田述正コラム#11219(2020.4.10)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その10)>(2020.7.1公開)

 「石井進<(注14)>氏によれば、地方国衙において武に堪能なものを武士と認知するのは、<国司>・・・であった。・・・

 (注14)1931~2001年。「東京大学国史学科から大学院を経て東大史料編纂所員・・・1969年12月「史学雑誌」78編12号に発表した『中世成立期軍制研究の一視点-国衙を中心とする軍事力組織化について』・・・において従来の武士=在地領主論に欠けている側面、武士=職能人論とも言える「武士がどのように認知され、国衙機構に組み込まれ、ないしは関係を持っていたか」を、国司軍としての「館の者」「国の兵共」と「地方豪族軍」などの図式化によって示したことで有名。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E9%80%B2_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)

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[石井進の国衙軍制論]

 12世紀中頃から頼朝挙兵の頃までの地方軍制は、有事においては、常陸国の場合、国司直属の軍と(中央の武家の棟梁のうちの誰かの統制下にある)地方大豪族の軍とから成り立っており、前者は、国司直属軍と地方小豪族諸軍とから、後者は、地方大豪族の軍と彼と同盟関係にある地方小豪族の諸軍とから、成り立っていた。
 また、国司直属の軍は、常時は国衙に詰めてはいないが国司の命令で動員できる国侍から成り立っていた。
 平忠常の乱(1028年)
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1 >
の初期、常陸国司(受領=常陸守。但し、実際には常陸介(注15))の源頼信が集めた兵力は2000人だったのに対し、地方大豪族の平維幹・・左衛門大夫で従五位下であり源頼信とほぼ同格・・が集めた兵力は3000騎とされており、騎馬武者1騎に対して従者(戦闘員とは限らない)が1~2名はつくので、後者の兵力がはるかに上回っていたことになる。

 (注15)「常陸国は、上総国・上野国とともに、・・・826年・・・以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E5%8F%B8

 (律令時代の日本は、792年以降、一般公民を徴発する軍団制・兵士制から、軍事層のみに制度的武力を公認し、彼らを国衙など重要拠点に結番させる健児(こんでい)制へ転化したが、その延長線上にこのような軍制が出現したと考えられる。
 なお、健児制についてだが、古代の地方支配は国司の監督のもとで実質的には郡司・郡衙が担っていたので実際には、郡司子弟と一般公民の徴発であったものを、一般公民の徴発を止めて郡司子弟だけで国衙の防衛に従事させたと言うのが実態で、その数は国の大小によって30~200人程度と思われる。
 国衙内の部署(所)として健児所は、軍事・警察機能の主な担い手であり、また国衙には大量の武器が貯蔵されていた、と考えられる。)

 他方、平時においては、武士(兵(つわもの)=武者(むしゃ))が、国司の館への交代護衛勤務、国守主催の狩りへの参加、諸国一宮での流鏑馬など軍事的儀式への奉仕、京上の官米などの押領使(あふりょうし)、などの公事を任務として行っていた。
 国衙には譜第図(ふだいず)ないし胡簗注文(やないちゅうもん)という、武士の登録簿、台帳があって、それに部内武芸之輩(ともがら)等として登録されることが武士としての承認・認知だったのではないかと推定されている。
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35_4.html 
 
⇒以上は、小学館『日本歴史第12巻 中世武士団』(石井進担当) の「武士団とは何か」という章を「賄い岩田」氏
http://www.ktmchi.com/policy.html
が要約的紹介をされたものを、私が部分的に表現を変えつつ更に要約紹介したもの。
 なお、石井進自身が、「中世社会の属性のひとつが軍事専門階級の優越する軍事的社会である点にもとめられているのは、すでに周知の事実である。にもかかわらず、日本中世社会の研究に際して、軍事的側面の検討がこれまで比較的おろそかにされてきたことは大きな問題と言わねばならない。」と指摘していた(上掲)のは、私のかねてよりの指摘に通じるところの指摘であり、敬意を表しておこう。(太田)
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 武士を武士たらしめるのが・・・天皇の地方における正統な代理人・・・なら、その論理的な帰結として、武士は地方農村ではなく、まず王権の周辺や朝廷のお膝元、すなわち都で誕生する<はずだ>。」(38~39)
 
⇒すぐ上の囲み記事で紹介した石井の説は、基本的に特定の地方の特定の時期に係るものであり、どれだけ一般化できるのか、私には分かりませんが、仮に一般化できるのだとして、それが、進化を遂げていく柔軟な軍制のよう・・次第に地方大豪族の地方軍制・・囲み記事中の事例においては地方大豪族も地方軍制の長もどちらも天皇の官僚!・・に占める比重が増大しつつあると推察・・であるとはいえ、軍事の国家的重要性に鑑み、特定の天皇が策定した長期計画に基づいて導入され、進化を遂げて行ったものである、と見るほかないと私は思うのですが、不思議なことに、石井にも高橋にも、そのような発想が全くなさそうですね。
 もちろん、かかる地方新軍制については常陸国の事例が断片的とはいえ史料・・『今昔物語』等(上掲)ですが・・が存在するのに対し、それに対応する中央新軍制については史料が皆無、ということなのでしょうが、むしろ、どうしてそんなに史料が乏しいのか、いや、少なくとも、どうして軍制に係る指示を織り込んだ公的文書が全く見つからないのか、を追究すべきなのです。
 日本の古代/中世史学者達がかくもへっぴり腰、というか、無気力なのは、石井のような人物ですら軍事の国家的重要性の認識がまだまだ不十分であることに加え、石井や高橋等が、当時は天皇が権力を握っていたという事実、就中、軍権を握っていたという事実、に無意識的に目を塞いできた、からではないでしょうか。(太田) 

(続く)