太田述正コラム#11221(2020.4.11)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その11)>(2020.7.2公開)

 「地方国衙にいおける武士認定はその延長であり地方版にほかならない。
 中央と地方が上位–下位の関係にあるため、都の武士は身分的にも威信の面でも地方の武士を圧倒し、彼の武芸の流儀や武装の様式・体系は、地方の武士に権威主義的に波及し、おおむね一様に受容されるだろう。
 社会全体の普遍的利益(公共性)を代表すると目される王権(その化身たる天皇)は、武士を含んだ衛府の武官などに、まずみずからの防護と都の治安維持をゆだねる。
 王権の平和、都の平和は、日本国全体へと押し及ばされねばならないが、列島社会の安全・安泰にとっては、国家領域の外延を画し外部勢力と交わり接する地点が肝心である。
 延喜14年(914)、学者の三善清行<(注16)>(みよしのきよゆき)が「陸奥・出羽の両国を見るに、ともすればエミシの乱があり、大宰府管内の九国には、常に新羅にたいする警戒がある」と述べたように(『意見十二箇条』<(注17)>)、奥羽方面と大宰府・壱岐・対馬方面には、現実もしくは仮想された危険や圧力があった。

 (注16)847~919年。「《三善氏吉(うじよし)の子で、・・・母は佐伯氏の娘。》巨勢文雄に師事。大学寮に入って紀伝道を修め、27歳で文章生、翌年には文章得業生となり、<巨勢文雄<は>・・・弟子の三善清行が<初めて>方略試を受ける際、・・・推薦文を書き「清行の才名、時輩に超越す」と記したが、菅原道真はそれを嘲って、「超越」を「愚魯」に書き換えたという。結局清行は不合格となった<が、> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E6%96%87%E9%9B%84 >
37歳で・・・合格した。・・・後に事あるごとに道真と対立することになる。・・・71歳で参議に昇り、宮内卿を兼ねた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E6%B8%85%E8%A1%8C
 「三善氏<には、>・・・百済系の一族と漢族系の一族の2系統が存在する。・・・<清行の百済系の三善氏は、>百済の速古大王の末裔で錦部首、後に錦部連を名乗った<が、>・・・桓武天皇後宮に、錦部姉継・同弟姉という女官がいた<ところ、>・・・805年・・・頃にその一族が三善宿禰を授けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E6%B0%8F
 (注17)「三善清行が、・・・914年・・・醍醐天皇に提出した政治意見書である。・・・この・・・10世紀前半、日本の土地状況は悲惨なものであった。偽籍が横行したため、女性と偽った口分田所有者が増え租の収入は減少していた。更に浮浪・逃亡により持ち主不在になった土地は寺社や有力貴族の荘園と化し、中央財源減少に拍車をかけていた。そのため、班田収授は・・・902年・・・を最後にして行なわれなくなり、同年に醍醐天皇自身は荘園整理を行なうものの、成果を挙げられなかった。
 ・・・三善清行は、・・・<こ>の意見書・・・の中で・・・上記のような土地問題を、更にはそれらが地方政治を乱していると<、>指摘している。そして、対策として諸国の人口状況もう一度調査して、正確に口分田を与える。余った土地は国司から取り上げ、政府の土地にする。その土地を賃租し、地子(賃租の利益)・・・で、中央財源の不足を補うべきと主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%A6%8B%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%AE%87%E6%9D%A1

⇒10世紀に三善清行が言及した東西の二つの「脅威」・・東は訓練用脅威、西は現実の脅威・・については、既に9世紀における葛原親王や高望王のキャリアパス(コラム#11192)からも窺えるのであって、そういったものに言及がなされない点からも、高橋らが歴代天皇や皇族の事績から目を背けがちな姿勢が私には感じ取れます。
 で、話は変って、「注17」に登場する、清行の意見についてですが、天武朝が構築した律令制のなし崩し的崩壊政策を追求してきたところの、復活天智朝の醍醐天皇としては、空気の読めない清行の意見具申に苦笑しつつも、その漢学の素養や文章力を重宝していた、また、菅原道真追放にも利用した、清行を叱責することなく、そのまま受け取ってあげた、ということではないでしょうか。(太田)

 これよりして、武士は主に都と奥羽・大宰府など国の縁辺に配置され、必要に応じて国内諸国に派遣された。」(39)

⇒そういうことなのではなく、私見では、復活天智朝の歴代諸天皇が、武士を創出すべく、皇族や、臣籍降下した元皇族を、「奥羽・大宰府」関係の職に就けることを繰り返す補職に努め、その結果として武家の棟梁達、ひいては武士達、が創出され、更にその結果として、武士が「主に都と奥羽・大宰府など国の縁辺に配置され、必要に応じて国内諸国に派遣され」るようになった、のです。(太田)

(続く)