太田述正コラム#11223(2020.4.12)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その12)>(2020.7.3公開)
「・・・中世前期にいたる武士史の大雑把な時期区分を試みると、
一、平安前期から11世紀後半まで
二、白河院政開始から治承・寿永(源平)内乱開始まで
三、鎌倉幕府成立以後
の三期を設定することができる。
第一・二期の武士は、王(天皇)の安全と首都(都)の平和の護り手であるという点で、基本的に共通している。
⇒果たしてそうでしょうか。
「倭国では首長のことを、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、国と国王(ないし国王家)とがイコールでありえないことは、日本国という国号と天皇という王の呼称が確立(注18)されてからも、ヤマト王権の人々にとっては、引き続き、自明の理であったはずであり、武士もまた、最初から、日本という国と天皇という国王(その住居たる都を含む)の両者の護り手であった、と考えられるからです。
(注18)日本と天皇、という呼称確立の経緯については、同時説と天皇先行説、とがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
(ヤマト王権の「軍制<は、長らく、>国軍とヤマト王権家(天皇家)直轄軍の二本立てから成っていた」(コラム#11164)のでしたよね。)
嵯峨天皇は、律令制下の令外官として、810年に蔵人(くろうど)を置き、「天皇家の家政機関として、書籍や御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱<わせたところ、>・・・親王家や摂関家にも宮中と同様に蔵人所が置かれ<ることとなった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E4%BA%BA
ことからも、家政と国政が区別されていたことが推察されます。(太田)
違いは、第一期の武官系武士が、数の面でも社会勢力の面でも限られた存在であるのにたいし、第二期は、王権の引き立てをえて成長した中央の有力武士が、地方社会も出現した武士や武に堪能な存在を、従者として組織するようになった時代だった。
第三期は武士勢力の拡大という点で第二期をさらに上回り、武士がほぼ在地領主層によって構成されるようになった時代、武士の首長が王権の守護者だという建前は継承されているが、以前に比べ彼の王権からの自立度はずっと大きくなり、王権に脅威を与えるようにもなった時代である。
これにたいし、王権の側からも、武家の首長を自分の側に取りこもうとする試みがなされた。
第一期は、さらに10世紀第3四半期の終わりぐらいを境に前後二つの段階に区分される。
第一段階は、武官の一部と滝口<(注19)>(たきぐち)・・・が、武士と呼ばれた時代である。
(注19)「9世紀、内裏の警護にあたっていたのは近衛府だったが、桓武天皇の子である平城天皇(上皇)と嵯峨天皇兄弟の対立による薬子の変を契機に、新たに設置された蔵人所が、9世紀末、宇多天皇の寛平年中(889年~897年)から管轄するようになる。
その蔵人所の元で、天皇の在所・清涼殿の殿上の間には官位四位・五位の殿上人が交代で宿直する。 一方、庭を警護する兵士は清涼殿東庭北東の「滝口」と呼ばれる御溝水(みかわみず)の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶ様になる。・・・
10世紀の京では兵仗(武器)特に弓箭(弓矢)を帯びることは正規の武官以外には許されていなかったが、・・・977年・・・11月9日に「滝口の武者」が弓箭を帯びて宮中に出入りすることが許されている。これによって「滝口の武者」は朝廷が公式に認める「武士」となり、それを勤めて実績を積み、六位程度の六衛府の武官を目指すのが平安時代後期の武士の姿だった。
滝口の任命は、天皇即位のときに摂関家や公家らが家人(侍)の中から射芸に長じた者を推挙する。平将門も当時左大臣だった藤原忠平の家人として仕え、その推挙により滝口となり、滝口小二郎と名乗っていた。定員は当初の宇多天皇の頃で10名、・・・985年・・・に藤原実資が藤原貞正含めた5人を推挙し在来の10名から5名増員・・・、白河天皇の頃には30名ほどだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%8F%A3%E6%AD%A6%E8%80%85
前者は紀<(注20)>・小野<(注21)>・坂上・文室<(注22)>など特定のウジの出身者たちである。」(42~43)
(注20)「孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とするが、・・・早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%B0%8F
(注21)「近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられて<いる。>・・・遣隋使となった小野妹子<や>・・・漢詩や和歌に優れ、参議にまで昇った小野篁や能書家として知られる小野道風などが有名であるが、・・・武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、小野篁の末裔。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F
(注22)ふんやうじ。「天武天皇の皇子長皇子の後裔氏族」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E6%B0%8F
⇒次回の東京オフ会の時の「講演」原稿で取り上げられるべき話ですが、小野氏以下の諸氏の出身者達(の一部?)が武士と呼ばれたことの典拠が付されていないのは困ったものですし、滝口は武士ならぬ武者と呼ばれたようですし、このくだり(に限りませんが)高橋の主張には説明が不足しています。(太田)
(続く)