太田述正コラム#11229(2020.4.15)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その15)>(2020.7.6公開)
「・・・源・平両氏、秀郷流藤原氏は、<平将門の>乱鎮圧の功によって経基が従五位下、貞盛が従五位上、秀郷が従四位下の貴族<(注28)>となり、その後も階層的には五位(稀に四位)が中心であるので、彼らを学問的には軍事貴族と呼ぶ。
(注28)「701年・・・に制定された大宝律令のもとで、旧来の豪族は位階に応じて序列化された。三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。これら「貴」、「通貴」、及びその一族を貴族と呼んでいる。「貴」と「通貴」では与えられた特権に差があったため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられている。貴族は経済的特権として国家から多大な収入が与えられていた。五位以上には位田、四・五位には位禄、三位以上には位封、さらに、太政大臣・左右大臣・大納言に任官すると職田・職封が給与された。このほか、位分資人・職分資人なども与えられた。これらの収入は三位以上と四・五位の間に大きな格差が設定されており、さらに大きな格差が五位以上と六位以下の間に設けられていた。また、身分特権として、位階に応じて子孫が位階を得る蔭位制度があった。蔭位により、貴族は子孫へ各種特権を世襲することが容易となっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F
「蔭位(おんい)<は、>・・・子孫が21歳以上になったとき叙位され、蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子である。勲位・贈位も蔭位の適用を受ける。蔭位の制は唐の律令制にあった任子の制に倣った制度だが<支那>の制度よりも資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い。
皇族・諸王
・親王の子 → 従四位下
・諸王の子 → 従五位下
・五世王の嫡子 → 正六位上
(庶子は一階を降す)
諸臣
・一位の嫡子 → 従五位下
以下逓減して
・従五位の嫡子 → 従八位上
(庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%AD%E4%BD%8D
⇒源経基(?~961?年)は貞純(さだずみ)親王(873?~916年)の長男(?)であり、無条件で従四位下に任ぜられるべきところ、格下の従五位下に任ぜられたのは、彼が庶子だったということなのかもしれないところ、いずれにせよ、そんな彼が、以後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司、及び鎮守府将軍、を歴任したのは何ら不思議ではありませんが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B
平貞盛は、高望王の長男で生まれた時点では王だったけれど父親と共に平姓を賜与され臣籍降下した平国香(?~935年。従五位下)の長男(?)であり、仮に嫡子であったならば無条件で従五位下に任ぜられるところを、乱鎮圧の副次的役割を果たしたおかげで、一等上回った処遇をされたというだけのことであり、左馬允、鎮守府将軍、常陸大掾、陸奥守、丹波守、を歴任したのもまた、何ら不思議ではありませんが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
藤原秀郷(891?~958/991年)に関してのみは、臣たる藤原村雄(?~932年。従四位下)の長男(?)でしかなかったことから、無条件では正八位上程度にしか任ぜられなかったはずなのに、乱鎮圧の中心的役割を演じたことから、従四位下へと抜擢をされ、以後、下野守、武蔵守、鎮守府将軍を歴任することとなった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84
と言えそうです。
以上を踏まえれば、この3人が貴族になったことが画期になったかのような、高橋の言いようは、大袈裟であるとのそしりを免れないのではないでしょうか。(太田)
彼らも貴族の一員である点に注意を喚起し、武士と貴族を対立的にとらえる常識に一石を投じることを意図しているからである。
⇒念押しです。
源経基の父親の貞純親王は中務卿の時に軍事も扱っており、また兵部卿の時には朝廷における軍事の長を務め、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E7%B4%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B 前掲
また、平貞盛の父親の平国香は、軍事と無関係の職に就いたことがなさそうで、常陸大掾、鎮守府将軍、の時に隷下の軍権を分掌ないし掌理しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99 前掲
更に、藤原秀郷の父親の藤原村雄は、やはり軍事と無関係の職に就いたことがなさそうで、下野大掾、河内守、下野守、長門守、の時に隷下の軍権を分掌ないし掌理している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%9D%91%E9%9B%84 前掲
ので、いずれも(軍事に無関係の職に就いたことがなさそうであることから)既に「軍事貴族」と形容することも可能であったことからしても、源経基、平貞盛、藤原秀郷、について、同じような意味で「軍事貴族」と形容できたとしても、だからどうした、と言いたくなります。
いずれにせよ、鎌倉時代ならいざ知らず、この時代に関して「武士と貴族を対立的にとらえる常識」が日本の古代史学者の間にかつてあったとは、いくら何でも私には信じられません。(太田)
源平の軍事貴族は「武に堪へたる輩(やから)」と形容され、自由兵仗の禁がしばらく中断する11世紀初頭以降の段階になると、大手をふって闊歩するようになった。」(49)
(続く)