太田述正コラム#11231(2020.4.16)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その16)>(2020.7.8公開)
「彼らはまず兵衛・衛門府の三等官(尉)につき、検非違使を兼任し、やがて受領(国守の別称)になるのが常道だった。
この武官を経由する経歴から、近衛府の官人や武官系武士の武の伝統を継受する志向が生じたものと思われる。
⇒高橋が鳴り物入りで登場させたところの、源経基、平貞盛、藤原秀郷、の主要な男の子達が、「兵衛・衛門府/検非違使」的な勤務歴を持つかどうかを検証してみました。
まず、源経基の嫡男たる満仲・・多田源氏の祖、摂津源氏、大和源氏、河内源氏の遠祖・・にも
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2
その同母弟の満政も持っていませんし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E6%94%BF
その同じく同母兄弟の満季(みつすえ)も持っておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E5%AD%A3
持っているのはもう一人の異母弟の満快(みつよし)くらいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E5%BF%AB
次に、平貞盛の実子中の長男たる維将・・北条氏の遠祖・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E5%B0%86
と次男か三男であるところの、維敏、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E5%B0%86
は持っているけれど、四男の維衡・・伊勢平氏の祖・・は持っていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E8%A1%A1
最後に、藤原秀郷の長男の千晴(ちとき)は持っておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E6%99%B4
その弟の千常(ちつね)は持っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E5%B8%B8
単に記録が残っていないだけ、というケースもあるでしょうが、以上からすれば、それを持つのが「常道だった」、とまでは言えそうにありません。
ここで脱線ですが、源満仲は末子を延暦寺の僧にしており、藤原実資が日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しているように、自身も晩年出家し、高野山にも墓があること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2 前掲
また、平維衡も晩年出家したとされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E8%A1%A1 前掲
こと、から、武家本流の嫡流として弥生性を発揮して生きることの精神的な辛さが窺えると共に、それを見越して復活天智朝が「整備」した神仏習合教が、その「癒し」の手段として「機能」し始めていたこと、を示すものであり、興味深いものがあります。(太田)
弓矢重視は衛府の伝統であり、流鏑馬など馬場での馬上の射芸も貴族社会に発生源がある。
源平の軍事貴族が使用した弓・鎧・太刀などの武器・武具も、エミシとの戦闘の戦訓を踏まえて都で造られ、近衛の武官や武官系武士が改良に関与したと推量される。・・・
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[八幡神社]
八幡神社については、コラム#10238、11163、11192、11197、等で取り上げてきたところだが、応神天皇が主神的に扱われてきた理由について、馬の導入者とされていたことに加えて、弓矢との縁ももあったことを、ここで、備忘録的に紹介しておく。↓
「応神天皇 – 『古事記』の品陀和氣命(応神天皇)の別名は、大鞆和気命とありその由来は誕生時に腕の肉が鞆のようになっていたことによるという。そのため弓矢神として現在も様々な神社で祀られている。
八幡神 – 八幡大菩薩ともいい、応神天皇のことでもあるが、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡三神とも捉えられている弓矢神。また慣用句として弓矢に限らず、射幸心の伴う事柄で、当ってくれと願う時に「南無八幡」と唱える語の語源となっている。・・・
日本においては弓矢の神ではなく「弓矢神」という一つの単語になっていて、応神天皇(八幡神)のことでもある。応神天皇を祀っている八幡神社の数は、稲荷神社に次いで全国第2位で広く信仰されてきた。また弓矢や運命や確率に関わり幸運を願う時には「八幡」という語が使われてきた歴史があり、八幡は祈願と弓矢の意味が一体となす語として、射幸心という語の語源ともなった事由である。これらのことからも古くから弓矢が信仰の対象となってきたことが窺える。また八幡神は八幡大菩薩としても夙(つと)に知られ、「南無八幡」と言う慣用句からも窺い知ることができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E7%9F%A2
もっとも、この縁、馬との縁の派生、という感、なきにしもあらずだが・・。
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鎧は、近衛府の四等官以上が着用した騎兵用の両当式挂甲<(注29)>(りょうとうしきけいこう)の大改良から生まれた・・・。
武士の武器・武具が貴族社会の産物であるのは、武士が天皇の周辺や貴族社会のなかから生まれたという発生の経緯のせいばかりでなく、武士が天皇や朝廷の権力を「代表的具現」<(注30)>・・・ユルゲン・ハーバーマス・・・していたからだ、と考えられる。・・・」(50)
(注30)「【代表的具現】公衆=人民の「前で」臨御する君主の人身によって、不可視の存在を可視化すること。偉大、高位、尊貴、栄光、威厳、名誉などの評価を帰属する。」
https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Habermas%20Structural%20Transformation.htm
「<西欧の>封建時代<においては、>この舞台装置によって、支配ー被支配関係が可視的に顕現され、支配者としての_体面_が維持された。ここには近代的な意味における公も私もない。・・・
近代という時代は、公権力の領域と私人の領域の空間的な分割・分離とともに発生する。」
https://my-warehouse-eyes.hatenadiary.org/entry/20090512/1242057897
ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas。1929年~)は、「公共圏は、言論や出版の自由を得て自由に討論することにより政治的に参加することができた18世紀の市民社会においては、専制政治を行う国家の権力による「封建化」に対抗して家族や職場等の私生活の領域を解放する仲裁役として理想的に機能したが、19世紀後半に現れた大手企業やメディアが国家を支配する高度資本化による大量消費社会においては、公共圏が「再封建化」されるという構造転換があったと主張する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9
(続く)