太田述正コラム#11235(2020.4.18)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その18)>(2020.7.9公開)
「・・・桓武平氏高望流が東国に拠点を置くようになったのはなぜだろうか。
じつは9世紀後半から末にかけて、東国では群党(盗)と呼ばれた諸集団による租税未納、国司への抵抗を中心とする反国衙闘争が頻発し、鎮圧する側の国衙では軍事機構がマヒ状況にあった。
・・・861<年>・・・頃、武蔵国では「悪くてずるいものが仲間をつくり、多くの盗人が山に満ちている」がゆえに、「郡毎に検非違使<(注32)>一人を置」いている(『三大実録』<(注33)>同年11月16日条)。
(注32)「平安時代の・・・816年・・・が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。・・・
・・・895年・・・、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、天暦元年(947年)に効率化、迅速化のために統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。
司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。また、この頃から検非違使庁における事務は別当の自宅で行われるようになった。・・・
<また、>令制国にも<検非違使が>置かれるようになった。・・・
平安時代末期になると院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ、侍所に権限を掌握されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF
(注33)「日本における国家事業としての史書の編纂は飛鳥時代から平安時代前期にかけて行われ、6つの史書・・・日本書記・・・続日本紀・・・日本後記・・・続日本後記・・・日本文徳天皇実録・・・日本三代実録・・・が残されたため、これを六国史と呼んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2
「『日本三代実録』の序文によれば、本書の編纂は宇多天皇が、源能有、藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平に詔して編纂を命じたことにより始まった。具体的な開始年には諸説ある。記された各人の官位からの推測では、・・・893年・・・4月から・・・894年・・・8月となる。・・・897年・・・に源能有が没し、翌898年に宇多天皇が譲位すると、編纂作業は中断した。
次の醍醐天皇の勅を受けて編纂を再開し、・・・901年・・・8月に完成した。途中、菅原道真が失脚して大宰府に左遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の2人であった。・・・
記述の密度は六国史中もっとも高い。詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行を記載するなど、読者たる官人の便宜を図った。節会や祭祀など年中行事の執行を毎年記す。
陽成天皇の退位の事情など、権力者にはばかって筆を抑えたと思われる箇所がある。元慶の乱では、ところどころ記録が欠けていると記して略した箇所がある。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。・・・
その後も修史事業は試みられ「新国史」なるものが存在したと伝聞されるが、若干残った逸文から見ると完成奏上に至らなかったとする見解が主流であり、原因としては律令政治の衰退があげられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AE%9F%E9%8C%B2
⇒一、「記述の密度<が>六国史中もっとも高い」ものにしたのは、重要事項が全て網羅してあると誤認させるためであり、二、「元慶の乱では、ところどころ記録が欠けていると記して略した箇所」を設けたのは、記述が正確であると誤認させるためであり、三、明らかに「筆を抑えたと思われる箇所がある」のは、うがった見方をすれば、ご丁寧なことに、一と二を推認させるためでしょうし、四、これを最後の国史にしたのは、国、より正確には中央政府、の解体がほぼ完了し、封建制度への移行環境が整った、ということを示唆するためでしょう。
とにかく、夢にも、高橋らのように、『三大実録』に書いてあることを額面通り受け取ってはいけないのです。(太田)
同9年には天皇の命によって、上総国にも検非違使が置かれている。
武蔵同様の事態が生じていたのであろう。
群党を構成する要素の一つが、律令国家によって東国に強制移住させられた俘囚(エミシ)である。
上総国では、<870>年、・・・883<年>と相次いで俘囚の反乱が発生した。
支配層は、前者にたいし「かの国の夷俘らが、なお野心を心中に抱き、いまだに教化になじまず、あるいは火をつけて民家を焼き、あるいは武器を持って人の財物を掠(かす)め取る」と述べている。
みずからの生活習慣を守り、自立の誇りを失わない俘囚の果敢な蜂起のさまが想像できるのであるが、それに続けて国家の側は「およそ群盗の徒は、ここから起こる」との認識を述べている(『三大実録』同年12月2日条)。」(54~55)
⇒むしろ、『三大実録』の記述は、基本的に全て逆読みしなければならないのであって、復活天智朝の歴代諸天皇は、国の軍事機構を弱体化してマヒ状況に陥れることと並行して、俘囚を東国へと拉致してきた上で彼らが十分生計が立たない状況に放置してあえて治安問題を発生させてそれに適切な対処ができない状態を現出させ、検非違使の派遣といった、不十分な弥縫策をこれまたあえて採ることで、かねてより、東方に定着させてきたところの、天皇家に連なる諸武家の武士達に仕上げの実戦的訓練の機会を与えることにもなる出番を設けた、ということではないでしょうか。
全ては、復活天智朝の初代によって策定されたところの、桓武天皇構想、の通りに計画的に事が運ばれていった、と、見たい、ということです。(太田)
(続く)
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太田述正コラム#11400(2020.7.9)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その74)>
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