太田述正コラム#11237(2020.4.19)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その19)>(2020.7.10公開)
「こうした状況下では、群党=俘囚=エミシの等式が成立しやすい。
エミシの制圧にあたるのは鎮守府将軍である。
その将軍が、東国の群党鎮圧に起用される事態もありえないことではない。
もともと東国諸国は、律令国家により、陸奥鎮守府への人的物的資源供給のための戦略的な兵站基地として位置づけられていた、東国の平穏なくして東北の安定はない。
将門の父良持(良将)<(注34)>は、鎮守府将軍の経歴を持ち、実際に陸奥に赴任した形跡がある。
(注34)「武家平氏の実質的な祖の一人とされる。・・・長兄の国香や、上総国に在った次兄の良兼とともに、良将は下総国に在って未墾地を開発し、私営田を経営、また鎮守府将軍を勤めるなどし坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。・・・
兄の平良兼を差し置いて鎮守府将軍に任ぜられている事から考えて、一門の中でも器量のすぐれた人物であったようである。・・・
良将はその手腕を発揮して未墾地を開発し、広大な私営田を経営、勢力を着々と拡張した。こうした良将を<長>兄の国香以下兄弟は良くは思っていなかったと思われ、また兄らは源護の娘を娶り良将は違うことから、これらの事が後の将門と伯父らの確執の原因の一つではないかとも言われている。・・・
良将の子孫である氏族は、子の将門が承平天慶の乱で戦没し、孫の将国が常陸国信田(信太)郡浮島に逃れて、曾孫の文国が称した信田氏のみである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%B0%86
⇒「一門の中でも器量のすぐれた人物」と評価された可能性は高いけれど、それは、良将が、桓武天皇構想に最も忠実に、封建制の担い手たるべく、大農地領主として定着する、というミッションを果たしていたからでしょうね。(太田)
彼の兄弟の国香<(注35)>らも系図上では、鎮守府将軍の肩書を有していた。
(注35)「平高望の長男。常陸平氏(越後平氏)や伊勢平氏の祖。別名(初名か)、平良望(よしもち)。・・・『平家物語』に「・・・鎮守府将軍良望、後には国香とあらたむ」とある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99
以上から、高望流平氏の面々が、父が上総介だった縁で、群党蜂起鎮圧に起用され、その結果として上総・下総・常陸などに彼らの活動の拠点を構築することになった、という仮説が生まれる。
国司が任期終了後任国に「土着」して発展したといわれる事態の背景には、こうしたケースも含まれていたのではないか。
⇒要するに、この種の仮説は、転倒した論理に立脚している、というのが私見であるわけです。(太田)
天慶の乱後、ほどなく秀郷や貞盛も鎮守府将軍に就任、10世紀第3四半期以降になると、鎮守府の将軍に、貞盛流平氏や秀郷流藤原氏が任命される体制が恒常化する。
エミシは武士の敵役であるとともに、その成立・発展をうながす踏台の役割を果たした。」(55~56)
⇒鎮守府の歴史は次の通りです。↓
「奈良時代前半に・・・鎮守府相当の機関が東国のいずれかの地に設置されたものと推測される。・・・
鎮守府には鎮兵と呼ばれる固有の兵力が配備されており、陸奥国および出羽国の軍団の兵士と共に城柵の警備に当たっていた。・・・
鎮兵制の発足は・・・724年・・・頃であるというのが定説となっている。その後、陸奥国および出羽国の軍団兵士の兵力の増減と密接な相関関係を持ちながら増減を繰り返し、ピーク時である・・・810年・・・には3800名を数えたが、その後は次第に削減され、・・・815年・・・に全廃される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3)
鎮守府/鎮守府将軍は、天武朝が導入した律令制と裏表の関係にある軍団制の一環であることから、復活天智朝において、若干の準備期間の後、実態としては9世紀前半に廃止された、と見るのが自然であり、従って、10世紀に入ってから、平氏の良将や国香や藤原氏の秀郷、らが鎮守府将軍に任命されたとしても、高橋とは違って、それらは、実態の伴わない、名前だけのものであった、と、私は考えています。(太田)
(続く)