太田述正コラム#11241(2020.4.21)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その21)>(2020.7.12公開)
「国家の次元から期待される武士の役割についてはすでに述べたが、彼らも自分の権利(名誉や自尊心も含む)を守るという点にかんしては、自力救済の主体になる。
武芸が、殺傷や傷害をともなう罪深く危険な芸能である以上、その専業者の実力行使は、ほかの身分の人びとより一層苛烈で危険度が大きい。
平高望から数えて四代のちの致経<(注36)>(むねつね)・・・らは職業的殺し屋を飼っていたいた印象すらある。
(注36)「平安時代中期の・・・人。平致頼(むねより)の子。「大箭ノ左衛門尉」と称された武勇の士で,伊勢(いせ)(三重県)や尾張(愛知県)を本拠として平正輔とあらそう。・・・1021<年、>東宮史生安行殺害の罪で官を解かれた。歌にすぐれ,「詞花和歌集」に1首みえる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E8%87%B4%E7%B5%8C-1086818
平致頼(?~1011年)は、「源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%87%B4%E9%A0%BC
⇒江戸時代の剣道師範じゃあるまいし、その発祥期を含め、武士が「武芸」の「専業者」であったことなど、基本的になかったはずです。
「注36」からも分かるように平致経は「歌芸」も達者であったわけですが、この平致経やすぐ後に登場する源頼親、を含む、発祥期の武士の大部分は、(私の言う桓武天皇構想に基づく任務からして)領主でもあった、というか、領主として統治/政治芸に達者であることが、彼らにとっては必要条件だったのですからね。(太田)
また・・・大和源氏源頼親<(注37)>も>・・・従者・・・<に>清少納言の兄弟の清原致信(むねのぶ)<を殺害させている。>・・・
(注37)966~1057年。「源満仲の次男。大和源氏の祖。河内源氏の祖・源頼信とは同母兄弟にあたる。・・・頼親は当初、父・満仲から相続したとも推定される摂津国・・・の所領を地盤として<いたが、>・・・摂津の国司任官を果たせなかった経緯もあり、頼親はその生涯で三度大和守を務め、同国内における勢力の扶植に邁進する。そのため、既に大和に強勢を誇っていた春日大社や興福寺、東大寺などと所領を巡って争うこととなった。そして、三度目の大和守在任時であった・・・1049年・・・、次男・頼房が興福寺との間でついに合戦を起こし多数の死者を出すに至ると、頼親も興福寺の訴えにより責任を問われ土佐国へ配流とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E8%A6%AA
二つの例を挙げただけだが、当時彼らが殺人・暗殺の常習犯だったのは、疑う余地がない。
彼らとその従者は、しばしば大規模な闘乱・傷害事件を引き起こし、ために京たると地方たるとを問わず、社会の治安は大いに悪化した。
・・・土田直鎮(なおしげ)氏は、それを「武士の暴力団的性格」と評した。・・・」(59)
⇒ 土田直鎮は、「特に摂関政治期の政治について、当時の通説であった摂関家の政所が政治の中心であったとする「政所政治」論を否定して、依然として太政官を中心とした政務が行われていたことを立証したことで知られている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%B0%E7%9B%B4%E9%8E%AE
学者ですが、彼、一体、どのような文脈で、そう「評した」のでしょうね。
なお、以下のような一覧表を目にしたところ、(たまたまかもしれませんが、)その中に土田は登場しません。↓
高橋昌明氏・・・武士は暴力的性格の社会集団であった。
村井康彦氏・・・武士はケガレに満ちた存在として蔑視された存在であった。
海津一朗氏・・・東国武士の「武家の習」は西国の農民を恐怖におとしいれた。
保立道久氏・・・武士は常にヤクザそのものである。
戸田芳実氏・・・武士はもともと職業的な殺し屋である。
黒田俊雄氏・・・中世社会の秩序原理は「武勇」ではなく「安穏」である。
http://mutukawa34413.blog.fc2.com/blog-entry-102.html?sp
で、この6名についても、高橋以外は、それぞれの「文脈」について、やはり詳らかにしませんが、以上のような武士評の諸言葉への私の感想をとにかく言ってみろと言われれば、当然じゃないの、それが何か、でしょうね。
だって、第一に、それは、日本列島の主要部が統一されていなかった当時の天皇家のご先祖様達の「性格」でもあったからです。
例えば、神武天皇は、武力を用いた東征の際に「多くの賊たちを偽りの宴会で誅殺した」人物とされています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
し、神功皇后は、武力を用いて、九州を平定し、日本の列島の主要部の統一を果たし、更に、朝鮮半島南部の征伐まで行いますが、その間、叛乱勢力に対し、「偽りの和睦を申し出<て、味方の>兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせ・・・<、敵方>がそれに応じ・・・ると・・・<、味方の>兵に替えの弦と剣を取り出させ・・・<、>予備の兵器など用意していなかった<敵方を>敗走<させたほか、>・・・<侵略を受けて貢納を約束させた新羅がその約束を果たさなかった時、二度にわたって>再征伐<を行っている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
人物です。
シマを暴力と偽計によって拡大し、みかじめ料をせしめ続ける、暴力団的性格の申し子のような2人ですよね。
第二、それは、世界が、種々の国際機関が存在するけれど、統一されていない現在の各国の「性格」でもあるからです。
第二次世界大戦及びその前後の、米国やロシアやドイツや蒋介石政権等の言動を思い出してください。
既にかなり前の話ではないかと言う方がおられるかもしれませんが、核兵器の登場等によって主要諸国が猫をかぶっているだけで、本質が変わっているわけではないことは、トランプの言動を見ているだけでも分かろうというものです。
その上で、申し上げたいのですが、「種々の国際機関」ならぬ「単一の権威」が存在するけれど、統一されていないところの、封建制の日本を創出しようというのが、聖徳太子コンセンサスを踏まえた桓武天皇構想であったわけであり、「暴力団的性格」を持った「武士」達の出現は、期待された通りであった、と、受け止めることができるわけです。
但し、当時はまだ中央政府が「単一の権威」だけではなく、「単一の権力」もなお「概ね」保持していたため、この時点では自力救済的行動をとった「武士」達は中央政府によって処罰された、ということです。(太田)
(続く)