太田述正コラム#11247(2020.4.24)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その24)>(2020.7.15公開)
「はるか後代の話だが、『徒然草』を書いた吉田兼好<(注47)>は、武は「人倫に遠く、禽獣に近き振る舞い」であり、「好みて益なきこと」と断じている。
(注47)1238?~1283?年。「六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。・・・二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。・・・
鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。・・・室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また晩年は、当時の足利氏の執事で名高い武家歌人でもある高師直に接近した。・・・
小川剛生は、兼好の父とされる卜部兼顕、兄弟とされる卜部兼雄・慈遍らと兼好との血縁関係は同時代史料では全く確認できず(兼顕・兼雄・慈遍もそれぞれ赤の他人である、ともしている)、さらに戦国時代の吉田兼倶が唱える以前に兼好が神道家の卜部氏の出自であることを述べた者はいない、とした上で、卜部氏は神祇官の家柄以外にも地方の武士にも同姓のものがおり、その中には成功によって官職を得た者もいたことを指摘し、今日通説とされる兼好の系譜や経歴は吉田兼倶による捏造であり、実際の兼好は出自も生国も不明、仮に卜部氏であったとしても吉田神社とは無関係である、とする説を主張した。小川は『正徹物語』に兼好が滝口の武士であったと記していること、金沢貞顕とのつながりから、兼好法師は滝口の武士として朝廷に仕えた、または金沢家の被官を務めたりした経験を持つ武士「卜部兼好」の出家後の姿であると結論づけている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%A5%BD
小川剛生(1971年~)。慶大文卒、同修士、同博士。熊本大、国文学研究資料館を経て慶大文教授。角川源義賞、西脇順三郎学術賞、授賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%89%9B%E7%94%9F
「成功(じょうごう)・・・は大きく分けると受領成功と地下成功に分けられる。前者は受領が国司の地位に新任・重任・遷任を目的として行う成功であり大規模な事業・行事の費用を賄うために行われた。・・・後者は地下官人が何らかの官職(四等官の判官・主典級)の地位を得ることを目的として行う成功であり小規模な事業・行事の費用や恒常的な経費の不足を賄うために行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%8A%9F_(%E4%BB%BB%E5%AE%98)
「昇殿を許された者、特に公卿以外の四位以下の者を殿上人と言うのに対し、許されない者を地下といった。
公卿は原則として昇殿が許されたが、政治的・個人的理由で勅許を得られない場合もあり、これを「地下の公卿」・「地下の上達部」と呼んだ。四位・五位の地下人は「地下の諸大夫」と呼ばれた。
中世以後、次第に家格が定まると、殿上人に成り得る堂上家と、地下人のままの地下家に厳格に分けられるようになった。地下家の廷臣は三位に昇っても昇殿は許されないようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E4%BA%BA
「徒然草<は、>・・・執筆後約百年間は注目されなかったようで、同時代の史料に『徒然草』への言及は伝わらない。室町中期に僧・正徹が注目し、自ら書写した写本にこの作品を兼好法師のものとし、兼好の略歴も合わせて記している。これが正徹の弟子の歌人や連歌師たちに波及し、応仁の乱の時代に生きた彼らは、「無常観の文学」という観点から『徒然草』に共感をよせた。・・・
<それでもなお、>写本は江戸時代のものが多く、室町時代のものは非常に少ない。・・・
清水義範は・・・<これは、>毒を吐いて「けしからん」と言<っている書だとしている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89
清水義範(1947年~)は、愛知教育大学教育学部国語学科卒の小説家で、吉川英治文学k新人賞、中日文化賞受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%BE%A9%E7%AF%84
兼好の生きた鎌倉末期の貴族社会には、平安中期にもまして「公卿や殿上人、それより身分の高い人までおしなべて武を好む人が多」い状況が生まれていた。
兼好はそれに反発し、そうした「その家にあら」ざる武への嫌悪感を、率直に記したのである(『徒然草』八0段)。
平安期以来、人びとはまず一身の安穏を求めたのであり、武勇を求めたのではない。
少なくとも安穏を実現・保障するための武勇だから許容したのであり、武勇のための武勇や武勇の独り歩きを嫌った。」(61~62)
⇒既に申し上げたように、11世紀前半に「ツワモノの家」(武家)などなかったわけですが、今度は、兼好の生きた13世紀に「武は「人倫に遠く、禽獣に近き振る舞い」であ<る>」などという観念は殆ど存在しなかったのではないか、と私は考えています。
それを間接的に裏付けているのが、「注47」で紹介したように、『徒然草』が「執筆後約百年間は注目されなかった」事実です。
それは、「武」の話だけでなく、あらゆる面にわたって、『徒然草』で開陳された吉田兼好の物の見方が、彼の同時代の人々のそれとはズレたものであったからだ、と見るのが自然でしょう。
「注47」で紹介した、小川説を踏まえれば、折角、成功で殿上人にはなれたものの、武家の出身だったにもかかわらず、武官(左兵衛佐)として使い物にならず、もともと成功できるような金持ちであったことに加えて歌心や文才もあったので、食い詰めることもあるまい、と、自ら官を辞し、そのうっぷんを、同じく「注47」で紹介した、清水が言うように、『徒然草』の中で、「武」を貶める等、「毒を吐」くことで晴らそうとした、ということで、ぴったり説明ができますよね。
兼好は果報者です。
彼にとっても予想外のことでしょうが、世の中の方が、15世紀になると、応仁の乱(1467~78年)があったりして事実上戦国時代が始まり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
兼好による「武」の貶め等の「毒」説が、ようやく世間に少しはウケるようになったと思ったら、何と江戸時代には古典視されるに至ったのですからね。
とまれ、厳し過ぎるかもしれませんが、高橋もまた、(『小右記』や『徒然草』といった)ノンフィクション史料に書かれていることを鵜呑みにする学者だったようであり、その点で丸山眞男そっくりだ、ということを、ここで、改めて、申し上げておきましょうか。(太田)
(完)