太田述正コラム#11255(2020.4.28)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その4)>(2020.7.19公開)

 「・・・大伝統は、王権と神仏という二つの極を持つが、さらにそれぞれがまた重層構造をなすという複雑な構成になっている。

⇒日本で、拡大弥生時代濫觴期(コラム#11164)まで、と、摂関政治の時代から現在まで、は、権威と権力が分離されていた、という意味であれば、私も同意ですが、末木のはかなりニュアンスが違う感じがします。
 また、「二つの極を持」たなかった時代、ないし、「権威と権力が」統合されていた時代の存在、及び、その時代は「大伝統」に値しないとした理由、に末木が触れていないのも残念です。
 とまれ、末木が、私同様、日本社会の「重層構造」に着目した点は大変心強いものがあるのですが、日本で、どうして「重層構造」が形成され、それが維持されてきたのか、どこかで説明してくれるんでしょうね。
 でも、ひょっとしてですが、これも期待はずれに終わるかも・・。(太田)

 神仏に関して言えば、土着の神と外来の仏がどう関係するかは大きな問題である。
 それは、神と仏の関係であるとともに、仏教と神道という体系化された思想の問題でもある。
 後者の点に関して言えば、もともと神道という理論体系はなく、それが自覚的に形成されるようになるのは、仏教の側からの本地垂迹説のような形での包摂に始まり、次第に中世を通じて独自の思想体系を模索するようになる。

⇒「神仏」が「重層構造」をなすとはどういうことかについて、末木は具体的説明を行っていません。
 末木が言及している本地垂迹説は、確かに、「日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
ことから、仏-神、という重層構造が末木の念頭にあるのかもしれませんが、それは、日本で「発生した神仏習合思想の一つ」(上掲)であるに過ぎず、現に、「鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた」(上掲)ところですし、「戦国時代には、さらに天道思想(注7)による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった」(上掲)、すなわち重層構造が否定された、ところでもあり、説明不足の誹りが免れません。(太田)

 (注7)「戦国時代には、「天道思想」として仏教・儒教に日本の神道が結合した統一思想になり、戦国武将に広がり、「天運」「天命」を司るものと認識された。歴史家神田千里は・・・『宗教で読む戦国時代』講談社(講談社選書メチエ)2010年<の中で、>・・・それを進め、戦国時代後半に、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を構成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透したとする。個人の内面と行動が超自然的な天道に観られ運命が左右され、その行いがひどければ滅びるという、一神教的な発想があり、日本人に一般的に広がっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%81%93
 神田千里(かんだちさと。1949年(私より一学年下)~)は、「1976年東京大学文学部卒、・・・同大学院博士課程単位取得退学。・・・東大文学博士。高知大学人文学部助教授、東洋大学文学部教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%8D%83%E9%87%8C

 それが近世末の復古神道<(注8)>において排仏の立場を鮮明にして、明治初期の神仏分離や廃仏毀釈につながることになる。

 (注8)「賀茂真淵や本居宣長らの国学者がまず古道説を唱えて体系づけ、平田篤胤や本田親徳らが、儒教や仏教を強く排斥して日本古来の純粋な信仰を尊ぶ「復古神道」を大成し、発展させていった。復古神道は、都市部の町人のみならず全国の農村の庄屋・地主層を通じて農民にも支持され、幕末の志士たちにも大きな影響を与え、明治維新の尊王攘夷運動のイデオロギーに取り入れられることとなった。・・・
 復古神道の教義は多種多様だが、概ね共通しているのは、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想である。神々の意志をそのまま体現する「惟神(かんながら)の道」が重視された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93

 王権の側もまた重層化する。
 平安期にはまず摂関制度が確立して、次いで院政期には上皇が治天の君として実権を握り、天皇(帝)は次第に形式的、儀礼的存在となる。
 さらに鎌倉期以後になると、幕府が実質的な政治権力を握り、朝廷と二元体制になる・・・。
 近世になって幕府権力が増大しても、天皇の存在は消えるわけではない・・・。
 重要な儀礼上の役割を果たし続け、やがて江戸時代後期には改めて天皇が注目されるようになり、明治維新につながることになる。」(10~11)

(続く)