太田述正コラム#11261(2020.5.1)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その7)>(2020.7.22公開)
「それと同時に、王権自体がまた重層構造になっている。
広大な領域を支配する中国と異なり、日本ではそのような一元的な強大な帝王権は不要であり、多様な要素が残存したと考えられる。
⇒改めてきちんと論じたいところですが、「広大な領域を支配する・・・国」では民主主義を機能させることは困難である、という主張同様の、検証されていない、いや、検証不可能な、あてずっぽうです。(太田)
日本が危機的な状況に曝された中伝統において、はじめて強大な一元的支配構造が作られるのである。・・・
⇒拡大弥生時代における統一国家時代(コラム#11164)から、第一次縄文モード時代の摂関政治が始まるまでにかけては、日本も、「一元的な強大な帝王権」時代であったし、その間の7世紀後半には、白村江の戦いの敗戦(とそれに引き続く唐による日本本土の占領、)という「危機的な状況に曝された」どころか、国家消滅の「危機に陥った」ことを考えれば、末木は何寝惚けたことを書いているのだ、と言いたくなります。(太田)
邪馬台国に関しては、王権の思想史の面からは、次のような点が注目される。
第一に、卑弥呼は「鬼道<(注6)>に事え、能く衆を惑わす」と言われるように、シャーマンとしての性格が明らかである。
(注16)「卑弥呼の「鬼道」については幾つかの解釈がある。
・卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞『日本の歴史』〈1〉 中公文庫 2005年等)。
・『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。
・上記の説について慎重さを求める意見もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 吉川弘文館 2000年)。
・卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)。
・道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 徳間書店 1990年)。
・神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 三笠書房
その他、「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の<支那>の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある・・・ことから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%81%93
⇒「注16」を見れば分かるように、「鬼道」については、これだけ諸説があるのですから、末木が「卑弥呼は・・・シャーマンとしての性格が明らかである」と書くのは、彼が「学者」だとすればですが、言語道断です。
簡単でよいので、どうしてシャーマン説を採ったのかを説明することが、最低でも必要でしょう。(太田)
しばしば日本の古来の宗教はアニミズムとされるが、そのような証拠はどこにもない。
⇒「日本の古来の宗教はアニミズムとされるが、そのような証拠はどこにもない。」と断定するためには、「日本の古来の宗教」の中に神道は入るのか入らないのかを末木はまず明らかにすべきでした。
入らないというのであればそれは絶対少数説です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
から、どうしてそう考えるのかを典拠を示しつつ末木は記すべきでしたし、入るというのであれば、神道はアニミズムではない、ないしは、アニミズム的ではない、というのですから、やはりそれは絶対少数説である(上掲)ところ、どうしてそう考えるのかを典拠を示しつつ末木は記すべきでした。(太田)
逆に、神が憑依するシャーマニズムの形態は、民間も含めて今日まで長く継承されている。
天皇もまた、起源的にはシャーマン的な性格を有したと考えられる。
⇒私は、「鬼道」非儒教的価値観政治体制説に共感を覚えつつ、邪馬台国「鬼道」神道説を採りたいと思っていますし、神道を、通説であるところの、「アニミズム的・祖霊崇拝的」「宗教」(上掲)・・私は、それを人間主義「宗教」と捉えているわけです・・であると考えていますので、神道の総巫女とも言うべき天皇は、シャーマン的な性格とは無縁であると見ているところです。(太田)
しかし、同時に邪馬台国の実際の政治は男弟が輔佐したとされ、一種の政教分離体制が採られていたと考えられる。
『日本書紀』によると、崇神天皇六年に、「神の勢いを畏りて」天皇と神との共住をやめ<(注17)>、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に憑依させて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀ったという。
(注17)「即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
「『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E
⇒「注17」の二つの記述は微妙にニュアンスが異なりますが、『日本書紀』に直接あたる労は省くこととしますが、いずれにせよ、これを末木のように、政教を分離した挿話、と捉えるのは牽強付会であるように思われます。
また、「倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した<ので、>神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
というのですから、憑依されたシャーマンたる倭迹迹日百襲姫命、は、物の役に立たなかった、というわけであり、むしろ、この挿話は、大和王権が(改めて?)シャーマニズムを否定した、ということを示唆しているのではないでしょうか。(太田)
このように、政教が分離しながら補充する体制が、その後の政務関係の一つのモデルとなっていく。」(18、20~21)
⇒末木の論述に、私は、到底ついていくことができません。
拡大弥生時代における統一国家時代から、第一次縄文モード時代の摂関政治が始まるまでにかけては、日本は(厩戸皇子の皇太子当時の推古天皇の時代を除いて)権威(宗教)と権力(政治)が分離していなかった、ピリオド、です。(太田)
(続く)