太田述正コラム#11265(2020.5.3)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その9)>(2020.7.24公開)

 「・・・中国では天の命によって皇帝となるのであり、天皇の正統性が神からの連続性に求められるのは、それと大きく異なっている。

⇒私は必ずしもそうは思わないということを、既に申し上げました。(太田)

 天武朝からその後へかけて、天皇自身を神とする「現神」「明神」(「あきつかみ」あるいは「あらみかみ」)<(注25)>として権威づけることもなされた。

 (注25)「<720年に完成した>日本書紀の景行紀において日本武尊が蝦夷の王に対して、「吾は是、現人神の子なり」とのたまうとあり、<759年から780年頃にかけて成立した>万葉集にも天皇を現つ神として歌い奉る物は数多く存在する。柿本人麻呂は「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも」、「やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす…」と歌い。田辺福麻呂は「現つ神 我が大君の 天の下 八島の内に…」、山部赤人は「やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の…」、石上乙麻呂が土佐国に流罪となった際に家族は「大君の 命畏み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし畏し 住吉の 現人神 船舳に…」と歌っている。・・・
 <なお、>出雲大社の宮司である「出雲国造」を現人神として崇拝する風習も明治期頃までは顕著にみられた。今も新任の出雲国造が天皇に対して奏する出雲国造神賀詞は天皇に関して今も「明つ御神」という表現を用いる。また出雲国造が他界する事をカミサリと言う。
 <また、>諏訪大社の神職である大祝もまた、諏訪明神の子孫であるとされ、現人神として神聖視された。・・・
 <ちなみに、>チベット仏教はダライ・ラマを生き仏(即身成仏ではなく、文字通りの生きた人間が仏陀と認定されている)として拝む。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BA%BA%E7%A5%9E
 「コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教は帝国から公認されるに至った。同帝の死後、教父エウセビオスは『コンスタンティヌス伝』において、「コンスタンティヌスの帝国は、天における神の支配の、地上における模倣である」という表現によって神寵帝<(Kaiser von Gottesgnaden)>理念を提示した。・・・
 <こ>の後神寵帝理念は、神の代理人である教皇が皇帝を任命するという中世西欧社会のキリスト教的ヒエラルキーや、絶対王政期における王権神授説の思想的根拠ともなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AF%B5%E5%B8%9D%E7%90%86%E5%BF%B5

 文武天皇の即位宣命<(注21)>(そくいせんみょう)(『続日本紀』)では、「現(あき)つ御神と大八島知(しら)しめす天皇(すめら)」が、臣下に詔するという形式をとり、その中に、「高天の原に事始めて」今に至るまでの連続性を示し、それを自らの正統性の根拠としている。

 (注21)「宣命とは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。この文体を宣命体(-たい)、その表記法を宣命書(-がき)、また宣命を読み上げる使者を宣命使(-し)、宣命を記す紙を宣命紙(-し)という。宣命体は、漢字仮名交じり文の源泉となった文体で<ある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%91%BD
 「史上初の譲位は645年の大化改新の際の皇極から孝徳への皇位継承のときである。
 ただし、これはクーデターにともなう多分に偶発的はものであった。
 譲位が一般化するのは、697年の持統から文武への皇位継承以降のことといってよい。
 これ以降、譲位は奈良時代を通して急速に定着していく。
 文武天皇から桓武天皇までの9代8人の天皇のうち、7世紀まで通例とされていた没後の継承で即位したのは元明・光仁のわずか2人であり、淳仁の廃帝後に重祚した称徳をのぞいた天武・元正・聖武・孝謙・淳仁・桓武の6人が譲位による皇位継承であった。
 ・・・譲位の一般化という現象は、世界史的にみてもきわめて特異なものであった。・・・
 <さて、>初期の即位宣命においてこそ”神話による正統性の保障”がみられるが、それは・・・譲位の主体となる前天皇にかかわるものに限られて<おり、>譲位宣命の分立後には神話への言及は即位宣命では皆無となり、譲位宣命でも孝謙譲位宣命が最後となる。
 このような事実をふまえれば、神話的要素は即位宣命ではもともと二義的であり、しかもその後急速に重要性が低下していき、奈良時代半ば以降は即位・譲位宣命の構成要素から完全に脱落してしまうととらえるべきである。
 筆者は、むしろこのような即位・譲位宣命にみられる顕著な”脱神話化”の原因の解明こそが、古代王権の歴史的研究の重要な課題であると考える。」(熊谷公男「即位宣命の論理と「不改常典」法」より)
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2010/pdf/bk2010no04_07.pdf
 熊谷公男(きみお。1949年~)は、東北大院(国史)博士課程単位取得退学、宮内庁正倉院事務所技者等を経て、東北学院大教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%85%AC%E7%94%B7

 天皇自身を現神とする思想は、おそらくは一時期に限定されるもので、その後はかなり形式化するが、この宣命の冒頭の言葉はその後もずっと変わらずに用いられた。

⇒「注21」を踏まえれば、そんな「思想」などあったためしがなく、単に、「現人神」的修辞が見られただけのようなのですが、末木は、かかる「思想」があったことを裏づける典拠を、件の即位宣命(や譲位宣命)以外に果たして持ち合わせているのでしょうか。
 また、「この宣命の冒頭の言葉」、すなわち、「現人神」的な言葉が「その後もずっと変わらずに用いられた」というのは、これまた、「注21」を踏まえれば、間違いなのではないのでしょうか。(太田)

 それが近代の中伝統において、「現人神(あらひとがみ)」として新たな意味を持たされて甦るのである。」(25~26)

⇒石原莞爾のような例外中の例外
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E4%BA%BA%E7%A5%9E 前掲
を除けば、戦前において、「現人神」を字義通り信じた日本人など、殆どいなかったのではないでしょうか。(典拠省略)
 なお、本件だけとっても、石原莞爾のファンは頭を冷やすべきだと思いますね。(太田)

(続く)