太田述正コラム#11212006.3.13

<無惨なるかな日本(その3)>

 タクシン首相は、お世辞にもタイの民主主義の成熟化に貢献したとは言えない。

 彼はTVメディアを独占し、議会内の反対者や新聞を脅したり金で籠絡したりした。彼は「麻薬戦争」を宣言し、政府が後押しする処刑隊の手による約2,500人の密売容疑者暗殺をもたらした。彼の(マレーシアとの国境地帯における)イスラム教徒の叛乱者達を鎮圧する作戦は、拘束していた78人の囚人の窒息死を含む多大なる人権蹂躙を生んだ。また、彼は隣国ミャンマーを支配する将軍達とねんごろだ。

 しかし、タクシンは、国民の多数の支持を受けている。

 だから、投票や話し合いではなく、実力行使でタクシンを打倒しようという動きは、独裁者を相手にしているのであればともかく、タイが民主主義国である以上、許されるものではない。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/08/AR2006030802057_pf.html(3月10日アクセス)による。)

 (5)コメント

 上記の三つの英米紙の論説は、最初の二つが署名論説、最後の一つが無署名論説ですが、いずれも社説に準じる論考だと考えて良いでしょう。

 そのどれもが、讀賣の社説とは、正反対の論調になっています。

 讀賣の論説委員達は、日本の文明開化の歴史をもう一度勉強し、猛省して欲しいものです。

 常識に属す話ですが、自由民権運動について、簡単に振り返ってみましょう。

 日本の自由民権運動は、エリート(士族=かつての武士)中権力のお裾分けに預かれなかった不満分子によって、武力闘争と不即不離の反政府運動として1874年に始まるのですが、1877年の西南戦争での敗北によって、武力闘争の放棄に追い込まれます。そして今度は、1880年に国会開設の請願・建白を政府に提出します。その際、地租改正を掲げたことで、自由民権運動は不平エリートのみならず、地租の重圧に苦しむ農村人士にも浸透し、全国民的な運動となり、憲法制定の要求が高まります。政府はたまらず、翌1881年に10年後の国会開設を約束するのです。こうして、1889年には大日本帝国憲法が制定され、翌1990年には第一回総選挙が行われ、国会が開会する運びとなるのです。

 (以上、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95(3月13日アクセス)による。)

 すなわち、日本の政治の近代化は、憲法も国会もなかった中で、不平エリート達が実力行使を諦め、民衆の間に支持を広げる努力を行い、その上で、政府に自分達の要求を飲ませることによってなしとげられたのです。

 このような日本の文明開化の歴史に照らせば、既に憲法も国会もあるタイで、不平エリート達が民衆の間に支持を広げる努力を怠りつつ、実力行使で政府を転覆しようとするなど、もってのほかだと言わざるを得ません。

 恐らく、外務省や経産省や、(この両省と同じく経済至上主義である)日本の経済界の意向を代弁してのことなのでしょうが、讀賣が、かくもだらしないタイの不平エリート達の側に立って、しかもタクシン首相の自発的辞任を促すのであればともかく、タイ国王が同首相に引導を渡すことを期待するなど、お恥ずかしい限りです。

(続く)