太田述正コラム#11273(2020.5.7)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その13)>(2020.7.28公開)

—————————————————————————————–
[順徳天皇]

 「復活天智朝の歴代天皇が、政治の実権を武家に委譲していくことを期していた」という私見と、「注31」なかの「『禁秘抄』は・・・本書完成直後に<順徳天皇が>承久の乱を起こしている事でもわかるように、天皇政治復興の情熱がこめられ<ている>」は矛盾している、との指摘が予想されるので、説明をしておきたい。
 順徳天皇については、「父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、・・・1221年・・・4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった<ところ、>・・・角田文衞は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母平教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。」としているが、「土御門天皇の皇太弟とな<ったのは、兄である>穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、<父親の>後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためであ<り、>摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ・・・、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として・・・、上皇の後継者としての地位強化が図られ<、>さらに・・・1208年・・・8月、莫大な八条院領を相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母<にさせることで>、・・・1211年・・・11月の昇子内親王の死後に・・・八条院領を相続<させた上で、>・・・1210年・・・11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で<天皇に>即位する<も、>譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続され<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
という背景の下、これほど自分のために尽くしてくれた父上皇の意向に逆らことなどできるはずがなかっただけのことだ、というのが私の認識だ。
 しかも、この後鳥羽上皇が起こした承久の乱については、「今日において<もなお>、承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵したとする見方が通説とされているが、実はこの見方にはいくつもの問題がある。後鳥羽上皇が義時を討伐するために出された院宣および続いて朝廷から出された官宣旨において示された討伐の対象がいずれも義時個人であること、その討伐理由として次期将軍である九条三寅(後の頼経)を軽んじていることを挙げて院宣には討伐の前に鎌倉幕府内部で義時の幕政「奉行」の停止(政治的引退)を説得させようとしていること(討幕目的であれば三寅またはその後見人である北条政子の追討を命じる文言が含まれるはずである)、そしてそれらの文書が送付された対象の中に鎌倉幕府の機関の末端である守護・地頭が含まれていること、そして京都守護である大江親広や在京御家人らがこの命令を奉じて鎌倉の義時討伐に向かっていることなど、討幕を目的とするのであれば矛盾する内容になっている。そのため、近年の研究者の間では承久の乱は討幕目的ではなく、北条義時を幕府から排除する<ことだけが>目的であったとするのが有力説であるが、通説を塗り替えるには至っていないというのが現状である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところ、私は、この有力説に説得力を覚える。
 だから、「天皇政治復興」する意図など、後鳥羽上皇にはもちろんだが、順徳天皇(乱当時は順徳上皇)にもなかったはずなのだ。
 このあたりの話については、次々回或いはそれ以降のオフ会の時に改めて取り上げることとしたい。
—————————————————————————————–

 「これを中国の場合と較べてみると、日本の特徴が明らかになる。
 中国の場合、儀礼の体系は『周礼』<(注32)>『儀礼』<(注33)>『礼記』<(注34)>にまとめられ、十三経<(注35)>に収められて聖典視されている。・・・

 (注32)しゅらい。「《礼記》《儀礼》とあわせ〈三礼〉ともいう。周公(公旦)の撰と伝え,周代の行政制度を記述。秦の焚書(ふんしょ)にあったが,漢代に5編が発見され,《考工記》を補って6編とした。王莽(おうもう)は同書によって新の制を粉飾しようとし,王安石は同書をもって自己の新法を正当化しようとした。」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%A8%E7%A4%BC-77469
 (注33)ぎらい。「《儀礼》の本文は純粋に儀式の次第のみを記述しようとする。三礼の中でも最も早く成立したものであろう。《儀礼》が記述する儀式は,士冠礼(成人式)・士昏礼(しこんれい)(結婚式)・士葬礼(葬式)など〈士(し)〉階層の人生の通過儀礼,郷飲酒礼・郷射礼など共同体の祭礼,聘礼(へいれい)・覲礼(きんれい)など官僚として他国や天子のもとに出張した際の礼儀作法など,全部で17編からなる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%84%80%E7%A4%BC-53544#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
 (注34)「周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、前漢のころの戴聖が編纂したものである。・・・
 『大学』と『中庸』である。両者はもとは『礼記』のなかの「大学」篇と「中庸」篇であったに過ぎないが、北宋以来重視されるようになり、ついに南宋の朱熹が注釈を施し『大学章句』『中庸章句』を作るに及んで、『論語』『孟子』とならぶ四書の一つとして経書の扱いを受けるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E8%A8%98
 (注35)じゅうさんけい。「従来、儒家の経書に六経があったが、このうち『楽経』は早くに亡んで漢代には五経となった。後漢になるとそれに『論語』と『孝経』を加えて七経とした。五経のうち『礼』に三礼、『春秋』に三伝あるので、分けて九経とすると十一経となる。唐代、それに『爾雅』が加えられ、宋代には『孟子』が加えられて十三経となった。またこれに『大戴礼記』を加えて十四経とすることがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E7%B5%8C

 孔子に始まる儒家は、このような礼<(注36)>こそ社会秩序の根幹を形作るものと考え、礼に則った社会の実現を目指した。

 (注36)「周王朝における礼とは「宗法」を指し、祖先祭祀・嫡長子相続・同姓不婚などから成り、これらの宗法=礼を守ることで社会の安定をもたらすとした礼政一致の封建制度が形成された・・・。その前代の殷では、上帝の意思を一方的に占う祭政一致の神権政治を行っていたが、孔子が理想としたのは周における礼政一致であった・・・
 孔子は礼について「克己復礼(自己に打ち克って礼に復帰する)」することが仁であると説き、仁を表現するうえで礼と仁は不可分のものと考えた。孟子も同様に、仁・義を美的に整え、飾るのが礼であると説いた。
 儒家の礼の基本精神は供犠であり、「正しい」方法を守るという倫理的な支持以外の見返りを期待しない贈与である。・・・
 礼は規範であるが、法規範のように客観的・普遍的なものではなく、感情を様式化した主観的で特殊な規範である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC
 上掲ウィキペディアの記述は、中島隆博に拠っている。
 中島(1964年~)は、東大法卒、同大文修士(中国哲学)、同大博士課程中退、同大文助手、立命館大、東大助教授(准教授)、同大博士、同大教授。「専門は東洋哲学・中国哲学研究及びそれと西洋哲学との比較、西洋哲学(特に大陸哲学系現代思想)の手法を用いた中国哲学の再読、その他哲学史研究、倫理学、現代思想、表象文化論など。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%9A%86%E5%8D%9A

 礼が実現しているかどうかが中華の文明と野蛮な文明とを分ける基準であり、文明の尺度をなしていた。」(41)

(続く)