太田述正コラム#11274(2020.5.8)
<秀吉の再評価>(2020.7.29公開)

1 始めに

 學士會会報の付録として送られてくる小冊子、NU7(National University Seven)、の2020.5 No.29に掲載されていた、平川新の東北大学での講演録、「伊達政宗が生きた時代の日本と世界」が、私がかなり前に紹介したことがある(コラム#省略)ところの、秀吉の朝鮮出兵の真の目的、を「裏づける」内容なので、急遽、ご紹介し、私の「感想」を付すことにしました。
 なお、平川新(1950年~)は、「福岡県に生まれる。受験勉強を嫌って中学卒業後は進学せずにブリヂストンの工場で働いていたが、先輩に誘われて定時制高校に入学。中退や復学を繰り返しながら21歳で卒業する。教師の勧めにより法政大学通信教育課程に入学し、2年次に通学課程に転籍。1976年、法政大学文学部史学科卒業。1980年、東北大学大学院文学研究科修士課程修了。1981年6月、東北大学文学部助手、1983年4月、宮城学院女子大学専任講師、1984年4月、助教授、1985年4月、東北大学教養部助教授、1996年5月、東北大学東北アジア研究センター教授。2005年4月から2007年3月まで同大学同センター長を務める。1995年、「日本近世地域社会の研究」で博士号を取得。2014年4月、・・・宮城学院女子大学学長に就任。『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』にて、2018年度和辻哲郎文化賞を受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E6%96%B0
という、ユニークな経歴の人物です。
 今回ご紹介する講演録は、恐らく、和辻哲郎文科省授賞本のエッセンスを論述したものでしょう。

2 秀吉の再評価

 「・・・1591年、秀吉はスペインのアジア支配の拠点であるマニラの支配者(フィリピン総督)に対し、服属を要求しました。
 1591年は朝鮮出兵の計画段階で、琉球についても島津氏に支配させようと画策中でしたが、秀吉は既に支配下に置いたかのように、「朝鮮と琉球は自分に服属した。次に明を征服すれば、フィリピンは目と鼻の先だ。もし服従が遅れたら、罰を与える。後悔するな」と恫喝しました。

⇒1609年に薩摩藩は琉球侵攻を行い、琉球を事実上併合します
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
が、これは、秀吉の遺志を実現したものだった、とは・・。
 島津斉彬は、当然、そのことを知っていた?(太田)

 フィリピン総督は秀吉の強硬外交に怯え、マニラに戒厳令を敷き、スペイン国王に援軍派遣を要請しました。翌1592年、秀吉はポルトガルのアジア支配の拠点であるゴアの支配者(インド副王)に布教禁止を通告し、大名たちに朝鮮・明・インドの征服を命じました。

⇒「インド」が征服対象に入っていたとまでは、私はこれまで認識していませんでした。
 杉山構想が思い起こされます。(太田)

 文禄の役のただ中の1593年、秀吉はフィリピン総督に書簡を送りました。この時も秀吉は既に朝鮮を征服したかのように、「自分は日本全国と高麗を獲得した。明を征服すればフィリピンはすぐそこだ」と書き、「スペイン国王は遠方にいるからといって、私の言葉を軽んじるな」と恫喝しています。
 当時、スペイン国王はポルトガル国王を兼ね、地球全土の支配権を有していると考えていました。・・・
 慶長の役が起きた1597年、秀吉はフィリピン総督に、怒り心頭の書簡を送っています。「布教は、外国を征服する策略か、欺瞞だと聞いている。フィリピン総督は布教によってフィリピンの古来の君主を追い出し、自ら支配者となった。そして今、フィリピン総督はキリスト教によって日本の仏教や神道を破壊し、日本を占領しようとしている。私は怒り心頭だ」。・・・

⇒日本におけるキリスト教弾圧は、もっぱら安全保障上の考慮から行われた、ということを改めて確認できた思いです。(太田)

 <既に、>信長はポルトガルに強い対抗心を持ち、秀吉に明征服の野望を語っていた・・・。・・・

⇒これも初耳です。
 信長、秀吉(、そして家康、)の安全保障意識の高さは衝撃的ですらあります。
 私は、このような意識は、キリシタン大名らを例外として、当時の日本の武士の過半が共有していた可能性がある、とも考えるに至っています。(太田)

 <この結果、>イベリア勢力は・・・朝鮮出兵前に盛んに唱えられていた「布教と武力による日本征服」を諦め、「布教によるキリスト教化と日本支配の実現」に方針転換しました。
 朝鮮出兵は西洋列強による日本の植民地化の抑止に大きな効果を発揮したのです。」(6~7)

⇒聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、は、それが生み出した武士達を通じて、日本の実存的危機を回避させると共に、将来における、アジアの対欧米反攻の基盤を確立する、という、世界史的成果をもたらしていた、というわけです。(太田)

3 私の「感想」

 ここに登場する秀吉の諸書簡は以前からその存在が知られていたと思われるところ、平川以外の日本史学者達は、一体何をしていたのだ、という怒りすら覚えます。
 で、ふと思い立って、改めて、信長、秀吉のご先祖様を調べてみたのですが、まず、信長については、「織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓は藤原氏(藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代は尾張国の守護代を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F
というわけで、筋目正しい武家の出身とは言えそうにもありません。
 秀吉に至っては、父親さえ経歴が定かではない人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
 (ちなみに、家康だって、「室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官となり、京都に出仕したと記録される」6代前の松平信光までしか遡れないところの、到底筋目正しい武家の出身とは言えそうもない人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F )
 要するに、筋目正しい武家に仕えた者は、しばしば、縄文人離れした高度の安全保障意識を身に着けた、ということでしょうか。
 (秀吉が最初に仕えたのは松下家であるところ、同家は今川氏家臣の飯尾氏の寄子であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E4%B9%8B%E7%B6%B1
飯尾氏は、元々は室町幕府の奉行衆の家柄でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E6%B0%8F )
 以下、蛇足です。
 以上を調べている際に、秀吉の同父母姉の日秀尼(1534~1625年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
の存在を知ったのですが、その子にあの秀次のほか、秀勝等がいた(上掲)のですね。
 彼女は、秀吉によって秀次の一族が根絶やしにされた後、出家するのですが、後陽成天皇が1000石の寺領を彼女に寄進しています。(上掲)
 この天皇、秀吉と違って、縄文モード回帰を推進した人物である(コラム#省略)にもかかわらず、成り上がり者一族に優しかったことに感銘を覚えました。
 で、彼女の孫(秀次の子)が真田幸村の妻で、その娘が大名家に嫁いでいることも知りましたが、もう一人の孫(秀勝の子)が九条家に嫁ぎ、その血が、九条家出身の貞明皇后
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
を通じて、昭和天皇以下の皇室に流れていることを知って驚きました。
 というのは、(それが三番目の結婚相手だった徳川秀忠の妻の)お江(崇源院)の二番目の結婚相手が秀勝で、その子が九条家に嫁いだからです。
 更に驚いたのは、お江の秀忠との間の子もまた九条家に嫁いでおり、更には、お江と秀忠との間のもう一人の子である家光の子孫もまた九条家に嫁いでおり、これらの血もまた、昭和天皇以下の皇室に流れていることです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2#%E7%B3%BB%E8%AD%9C
 ご承知のように、お江は、信長と同父母妹のお市の子です。
 ですから、現在の皇室には、桓武天皇や島津家は言うに及ばず、お江だけをとっても、徳川家の血が濃厚に、織田家の血がかなり、おまけに豊臣家の血までそれなりに、流れている、というわけです。
 残念ながら、厩戸皇子の血は流れていませんが・・。
 (なお、織田家に関しては、お市ならぬ信長自身の子孫の血だって現在の皇室には流れています。
http://agora-web.jp/archives/2044438.html
 ついでに言えば、蘇我馬子や平清盛や明智光秀や前田利家の血も・・(上掲)。
 最後に、蛇足の蛇足ですが、貞明皇后の母親については、十分、調べがつきませんでした。)