太田述正コラム#11276(2020.5.8)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その14)>(2020.7.30公開)
⇒「宗法」とは、「大家族制を基本とした伝統中国において、大家族を意味する宗族内の規律・規則を指す言葉である。狭義では、宗族の本家である宗家(そうけ)における祖先祭祀の子々孫々への継承に関する規則を定めたものを指す。宗族内には、総本家としての大宗を一族の要とし、小宗と呼ばれる分家が一致団結することが求められる。大宗の相続権は、その嫡子である長子が持ち、嫡出の次男以下および庶子は全て別子と呼ばれ、新たな小宗の祖となることが取り決められていた。大宗に嫡子が生まれなかった場合は、女子には相続権がなく、その場合でも他姓の家に嫁がされた。宗家には、最も血縁的に近い小宗から相続者が迎えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%B3%95
とまあ、こういう、私がかねてから言うところの、一族郎党命主義、的な代物なので、こんなものの遵守を、礼、・・しかも、礼≒仁・・、として、君主達以下に求めたところの儒教が、本来、女性優位気味の男女平等で自由恋愛謳歌社会であった、日本、に受け入れられるはずがないのです。
(江戸時代にどうしてあれほど儒教が日本で流行ったのか、を、改めて追究してみる必要がありそうですね。)
他方、日本の有職故実(ゆうそくこじつ)とは、「古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと<、>また、それらを研究すること<であって、>「有識」とは過去の先例に関する知識を指し、「故実」とは公私の行動の是非に関する説得力のある根拠・規範の類を指す。<そして、>そうした知識に通じた者を有識者(ゆうそくしゃ)と呼んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E6%95%85%E5%AE%9F
というものであり、儒教の「礼」とは、そもそも、何の関係もありません。
面白いのは、「武家」の中からも、自分達の「有職故実」に係るフェチが出現し、やがて武家全てが有職故実にこだわるようになったことですね。↓
「平安時代には、武人の故実(武官故実)は、紀氏と伴氏が伝えていたが、武士の台頭とともに衰えた<が、>鎌倉時代には、源頼朝が故実に通じた武士を重んじ、故実の復元を図っている。以降、京都から断片的に流入した武官故実と関東在来の武士の慣習が合わさって、武家故実が体系化されていった。武家故実の中でも弓馬や軍陣における実践的な故実と幕府や主君の前における儀礼や作法などの故実が存在したが、戦法の変化によって前者は形式的なものになったのに対して、後者は公家故実とも融合して、室町時代に小笠原流や伊勢流が生まれた。<(注37)>」(上掲)
(注37)「室町幕府3代将軍足利義満は、公家には公家の礼法、武家には武家の礼法があるとし、幕府の諸行事における公式の礼法を定めた。 故実書『三議一統大双紙』によれば、その武家礼法を将軍に指南した高家(今の言葉でいう知的アドバイザー)が「伊勢家」「小笠原家」「今川家(後の吉良家)」[・・<当時で言えば、>今川氏頼・伊勢憲忠・小笠原長秀・・]であった。伊勢家は「内の礼法」殿中一切の礼法を任され、小笠原家は「外の礼法」弓馬の礼法を、今川家は書と画を任されたとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B5%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B5%81%E7%A4%BC%E6%B3%95 ([]内)
「小笠原家は初代・小笠原長清に始まる清和源氏の家系」(上掲)であったのに対し、「伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家として礼法に精通して<おり、>・・・江戸幕府<に>・・・旗本として仕えた・・・伊勢貞丈が、中世以来の武家を中心とした制度・礼式に詳しく、有職故実の第一人者として、著書を数多く残し、正しい武家礼法を体系化、世に知らしめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B5%81 前掲
なお、「「今川家(後の吉良家)」という表現は間違いであり、今川家が吉良家の庶流なのだが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E6%B0%8F
今川氏頼については、調べがつかなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F
私は、有職故実なるものは、型を重視する日本の諸道の一つ、というか、日本の諸道の淵源たる道、なのだ、という仮説を立てるに至っています。
とはいっても、まだ、この仮説に具体的な肉付けを行えているわけではありませんが・・。
この仮説措定の手がかりにしたのは、こういった先達たる「無名」の人々の直感です。↓
禅宗の立場から茶道、華道、剣道、柔道に言及しつつ空手道の型について考察しているもの。↓
https://note.com/mamizing/n/ndaa62e371b82
空手道の立場からその型について考察しているもの。↓
http://masudakarate.com/akiramasuda/2018/12/15/%E5%9E%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%EF%BC%9F2018%E5%B9%B412%E6%9C%8815%E6%97%A5%E7%89%88/
空手道に言及しつつ、サインという型について考察しているもの。↓
https://www.syomei.com/blog/?p=1004
果して「識者」たる末木が、これから、何を語るのか、それとも何も語らないのか、を、私としては、注視したいですね。(太田)
(続く)