太田述正コラム#11278(2020.5.9)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その15)>(2020.7.31公開)
「日本では、このように明文化した礼の規定がなく、それを補うものが有職故実であった。
それは聖典の文献研究によって知られるものではなく、天皇を軸とする公家集団が継承し、複雑な体系の細部まで通じて実践していたのであり、その機能を武家集団は奪取することができなかった。
細部にまでわたり精密に組み立てられた儀礼のシステムがまさしく国の秩序を作るのであり、それに従うことではじめて覇権を超えた文明の支配が成り立つのである。
朝廷と公家集団の実質的な権力は衰退しても、その役割を抹殺することはできなかった。
その原型が10世紀前半頃形作られるのであり、それ以前の律令の法規定重視の時代と一線を画することになったのである。」(41~42)
⇒武家は権力の担い手たることを目指しこそすれ、権威の担い手である公家の「機能を・・・奪取すること」や公家の「役割を抹殺すること」など全く考えていなかった、と、私は見ています。
「細部にまでわたり精密に組み立てられた儀礼のシステムがまさしく国の秩序を作るのであり、それに従うことではじめて覇権を超えた文明の支配が成り立つのである。」については、当時の「朝廷と公家集団」にその類の意識があったのか、末木の考えなのかをはっきりさせ、どちらにせよ、何らかの典拠を明らかにしてくれなければ困ります。(太田)
—————————————————————————————–
[家元]
◦総論
「家元の存在する分野としては、各種の武術・武道、江戸期の公家家職に由来する有職故実・礼式の類、香道、華道、茶道、書道、盆庭工芸、能楽、邦楽、日本舞踊、東八拳などがある。
囲碁、将棋のようにかつては存在していた家元制度が失われた分野もある。
ただし、・・・江戸時代における大半の武術流派には家元制度はとられてはいなかった。
歌舞伎や義太夫といった舞台芸術・・・について・・・かつては自らを家元と称する人は少なかったが、それが明確化されたのは国家総動員法に基づいた「技芸者之証」発行以降である・・・
なお能などの分野では慣例的に家元を宗家と言習わして、家元の語を用いない場合がある。・・・
家元の起源は古く、実質的には平安時代にすでに「歌仙正統」の御子左家が登場しているし、雅楽に関しては奈良時代に家芸として確立していた例も知られている。こうしたものは宮廷における諸行事の際の役割分担が世襲化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%85%83
⇒家元集合と道習合は重なり合うけれど、イコールではない、という理解で良さそうだ。
また、有職故実は(私見では)諸道の淵源ではあっても、家元制に「移行」したのは江戸時代になってからであったわけだ。(太田)
◦雅楽
「雅楽<については、>・・・奈良時代にはすでに家芸を父子相伝する習慣があったと考えられている。・・・
684年・・・に歌男・歌女・笛吹者は子孫に伝えて歌笛を習わしめよという詔勅があり、下って・・・778年・・・には「家々の伝受の秘説」を集めた(『教訓抄』)という記事があるため、この頃には父子相伝の秘曲が存在していたと思われる。
12世紀ごろにはこうした家芸は独占的なものになり、家芸以外のものは実演できなかったとされる。・・・
律令制では雅楽寮が置かれていたが、しだいに諸家が家芸として独占的に世襲するようになり、律令制度の解体に伴って10世紀に蔵人所におかれた楽所(がくそ)に実質が移ることになる。
ほぼ同時期に南都や天王寺にも楽所が成立し、これらの楽所に属する楽人らも宮廷に召されて雅楽が行われていた。
しかし応仁の乱を端緒とする動乱によって京都の楽人は四散してしまい、宮廷雅楽は南都や天王寺の楽人らによって細々と行われる程度に衰退する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E6%A5%BD%E6%89%80
◦歌
「御子左家(みこひだりけ)は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。・・・ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。・・・
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて著名な歌人である藤原俊成・定家父子が現れてから、歌道の家として確立された。
以後、御子左家は長く歌壇に君臨した。
定家の子為家は蹴鞠の家としても知られ、その流れは御子左流と呼ばれた。
鎌倉時代後期に為家の3人の子が家領の相続をめぐって争い、嫡流の御子左家(二条家ともいう・二条派)、庶流の京極家(京極派)、冷泉家(冷泉派)に分かれた。
二条家と京極家の家系は南北朝時代までに断絶したが、今日では上冷泉家と下冷泉家及びその庶流の入江家のみが残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AD%90%E5%B7%A6%E5%AE%B6
「二条家(御子左家嫡流)断絶後も門人らによって継承された二条派が中世近世を通じて最も影響力を有した。
二条派には勅撰和歌集の理想とされてきた『古今和歌集』所収和歌の解釈に関する秘説が「古今伝授」として師から弟子に秘かに継承されてきた。
古今伝授はその神秘性とともに中世歌壇における最高の秘伝として権威付けられた。
古今伝授の代表的な継承者としては東常縁・宗祇・三条西家歴代当主・細川幽斎・智仁親王らが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E9%81%93
「古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。
このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。・・・
1471年・・・、<東>常縁は・・・連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。
宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授<(こきんでんじゅ)>の系統は三つに分かれることになった。
三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。
堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった。
一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。
しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった。
三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。
ところが・・・1600年・・・、幽斎の居城田辺城は石田三成方・・・に包囲された(田辺城の戦い)。
幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡して、古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は、勅使を派遣し幽斎の身柄を保護して開城させた。
幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い、1625年・・・、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88
⇒雅楽の場合は家元制と言うより(養子縁組も含めた)家族承継制といったところだが、スポンサーが財力を殆ど失うこととなり、かつ、一般需要が殆どなかったにもかかわらず、現在に至るまで承継されたことは、一般需要があった諸「道」(後述)によって、(支那等に比して)日本で昔の様々な芸が生きた形で保存されることとなる範例になった、と言えそうだ。
歌道の場合も事情がほぼ同じであったけれど、芸でもなんでもないものを承継の対象としたという点でそもそも間違っており、だからこそ、承継が途絶えてしまった、といったところか、
で、私は、一般需要に応えるところの、様々な芸に係る、(「型」を重視するところの、)諸「道」、概念の確立と「道」の承継に係る家元制の起源は、雅楽でも歌道でもなく、有職故実である、という仮説を立ててみた次第だが、果してこの仮説、検証に耐え得るものやら・・。(太田)
—————————————————————————————–
(続く)