太田述正コラム#11280(2020.5.10)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その16)>(2020.8.1公開)
「・・・神祇祭祀の規定が・・・詳細に示されるの<も>『延喜式』においてであった。
その神名帳(じんみょうちょう)において、・・・神社の格付けがなされ、それぞれの祭も正式に定められた。・・・
それをもとにして、貴族も寺院とともに神社にも参詣して祈願することが行われるようになった。・・・
神仏は平安期に緊密に結びつくようになってきたが、基本的に仏教が上位で、その下に神々が位置づけられた。
これは、仏教の強力な祈禱の力とともに、最新の文明によって武装して、神々を圧倒していたからである。
神々は背後の仏の力を借りることでその地位を高めることになった。
それが中世の本地垂迹説につながり、多くの神社は仏寺の支配下に置かれる体制が近世まで引き続くことになった。
⇒それより前からあるのに「「中世の本地垂迹説」とはこれいかに?
「本来は仏教教学上の術語,『法華経』の本迹二門の説などに基づく。『法華経』の構成を本地,垂迹の二門より成るとし前の十四品を迹門<(注38)>の法華,あとの十四品を本門の法華とし説法の主体である仏身そのものに歴史上の人格としての釈迦と,久遠実成の法身の区別をみようとした。
(注38)しゃくもん。「永遠の昔に悟った仏陀の本体・・・を示す側面を本門というのに対し,人々を救済するために手段として身を現して種々の教えを説いた側面を迹門という。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%B9%E9%96%80-75857
この説は早くインドで仏教がインドの諸神を摂取するのに用いられ,<支那>で道教と接したときにもその例にならったといわれる。日本においても,神仏提携はすでに奈良時代に現れていたが,平安時代に入って,菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという本地垂迹説が生れ,神は権現 (ごんげん。すなわち「かりのあらわれ」) と呼ばれるようになった。天台宗から山王一実神道,真言宗から両部神道が生れた。
鎌倉時代になると逆に神祇を本位とし,仏陀を従属的地位におく反本地垂迹説が現れ,室町時代に入って,吉田神道,伊勢神道などは,如来は天皇の垂迹である,あるいは仏教は花実,儒教は枝葉,神道が根本であるとする根葉花実論を発展させた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9%E8%AA%AC-135059
「反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
以上↑を踏まえれば、末木は新説を唱えていることになりかねませんが・・。(太田)
ただし、そのことは単純に神仏が「混淆」してごちゃごちゃになってしまうわけではなかった。
とりわけ宮中の神事や伊勢の神事は意図的に仏教的な要素を排除して、その純粋性を示すことも行われた。
これを神仏隔離と呼ぶ。
神仏隔離は明治の神仏分離と異なり、神仏習合を前提として、その中で神祇の固有性を示すものであった。」(43~45)
⇒このくだりの末木の記述は、「神仏隔離の意識ははやく『日本書紀』の中にも認められており律令神祇制度の形成期から神道の独自性を支える要素であったと推測される。神仏習合が頂点に達した称徳朝に道鏡による宇佐八幡宮託宣事件が王権の危機を招いたことにより神仏隔離は一層進展した。天皇および貴族の存立の宗教的根拠である天皇の祭祀の場において仏教に関する事物を接触させることは、仏教的な国王観の受容を許すことになる。そこに神仏隔離の進展の大きな要因があった。さらに九世紀には『貞観式』において、朝廷祭祀、とりわけ天皇祭祀における隔離の制度化が達成された。この段階では平安仏教の発達によって仏教が宮中深く浸透したことや、対外危機に起因する神国思想が作用したと考えられる。平安時代中期以降は、神仏習合の進展にもかかわらず、神仏隔離はさらにその領域を広げていった。後世の展開を見ると神仏隔離は天皇祭祀の領域に限られるものではなく、貴族社会に広く浸透しさらには一般社会にも規範として定着していき今日の神道を形作る大きな要因となった。」(佐藤眞人(注39)「神仏隔離の要因をめぐる考察」抄録 より)
https://doi.org/10.20716/rsjars.81.2_359
とする、佐藤眞人(注39)説とは微妙に異なりますが、私は、(「基本的に仏教が上位」、という部分を除き、)末木の方により共感を覚えます。
どうしてかは、次回の東京オフ会「講演」原稿で・・。(太田)
(注39)さとうまさと。1980年早大卒(東洋哲学)、國學院大學修士(神道学)、北九州市立大学文学部教授。
https://researchmap.jp/read0187385
(続く)