太田述正コラム#11284(2020.5.12)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その18)>(2020.8.3公開)

⇒まず、「注43」で一部転載した本覚に関するウィキペディア(上掲)において、「無明と共に輪廻が始まるとする」のが「釈迦の教説」と記述されているのは正しいのでしょうが、「すべての苦は、・・・無常である<ところの、>・・・我というものが存在<(常住)>するという見解(我見)<であるところの、>・・・無明(迷い)<、>を原因とする煩悩<(苦しみ)、>から発生<するが>、智慧によって無明を破ることにより<、苦は>消滅する・・・。・・・この苦・・・を消滅する方法<として>初期経典<が>・・・説<くのは、>・・・四諦、八正道である<ところ、>・・・この四諦、八正道を知らないことも無明である。たとえば、闇(やみ)について、多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。闇がどこか別のところに移動したわけではない。つまり、闇は始めから存在しなかったということである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。精神的な「苦しみ<(煩悩)>」についても、同じようにとらえることができる。智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。実際には無いものを有ると考えるのは無明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E
というのですから、「生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる」とする本覚思想はこれと矛盾することを言っているわけではありません。
 但し、本覚思想は大乗仏教ですから、「苦しみを消滅する方法」として、初期仏教のように「四諦、八正道」にこだわらない、という違いが、初期仏教との間であるだけです。
 次に、末木が、台密(ないし日本の密教)→本覚思想、と主張しているように読めるところ、本覚に関するウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A 前掲
では、支那の天台宗等→本覚思想、と記述されていて、常識的に考えてその通りでしょうから、末木の主張は誤りでしょう。
 以上のような話はさておき、末木の根本的問題は、天台宗や、天台宗と集合論的には重なり合うところの、密教、の、日本への継受は、朝廷、より絞って表現すれば復活天智朝、の政策として推進されたことは明らかであるにもかかわらず、同朝にとっての動機や目的を究明しようとする姿勢が見られない点です。
 私の見解は、天台宗の継受は、強い弥生性を身に着けることを期待しているところの、武家ひいては全武士、の殺人等に伴う苦しみの消滅を図るための、別の角度から言えば、殺人等を行いつつも縄文性(人間主義性=仏性=悟っていること)の維持を図るための、方法論を確立するためであり、密教の継受は、神仏習合教を確立するための理論を模索するためであった、というものです。
 ついでに最後に言えば、本覚思想は、日本のではなく、支那の、天台宗、遡れば大乗仏教、の「哲学」ですし、そもそも、仏性=人間主義、は、全ての人間に潜在的に備わっているのであって、それを顕現化する方法論も含め、「哲学」などではなく、「事実」ないし「科学」、なのですから、「注43」で登場した島地大等(注44)のように、本覚思想を日本独自の「哲学」とするのもおかしいのです。(太田)

 (注44)島地大等(1875~1927年)は、「浄土真宗の僧侶<で、>・・・島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1919年東京帝国大学講師として死去までインド哲学を教えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E5%A4%A7%E7%AD%89

 「摂関期以後の仏教は、国家儀礼的な面よりも貴族の個人的な生活に関わる現世利益的な修法に力を入れるようになった。
 国家規模の御霊の跳梁はもちろんだが、個人の病気や出産の際の生命の危険も死者の霊などのモノノケが原因と考えられ、そこから祈禱<(注45)>により調伏する呪力が高く評価されることになった。

 (注45)「加持祈祷(かじきとう)とは、密教において重視される仏の呪力を願う一種の儀式。「加持」とはadhisthanaの訳で手印・真言呪・観想などの方法で加護を衆生に与えること、「祈祷」とは呪文を唱えて神仏に祈ることを意味する。従って、本来は祈祷は加持を得るための手段の1つに過ぎないが、混同されて用いられることが多い。
 真言密教においては、手に印契を結び鈷を用いて、護摩をたき、真言(マントラ)を口唱して仏の加護を求める。祈祷を行う儀式である修法(しゅうほう)には大きく分けて息災・増益・敬愛・調伏の4つの体系があり、これにより除災招福などの現世利益を期待した。・・・
 平安時代中期には皇室から庶民に至るまで、国家の大事から日常の些事まで全て加持祈祷によって解決しようとする風潮が高まった。・・・
 鎌倉仏教においても、曹洞宗や日蓮宗などで民衆の取り込みのために加持祈祷と救済活動を組み合わせた活動が行われた。また、陰陽道ともども加持祈祷と医療知識が組み合わさって、民間医療的な活動が行われる場合もあった。一方、浄土真宗や日蓮正宗では念仏や題目を重視するので行っていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81%E7%A5%88%E7%A5%B7

 こうした呪力を持った験者は必ずしも貴顕出身の高位の僧とは限らず、出自は問題とされなかった。」(46)

⇒蘇我氏が持ち込み、天武朝で花開いた鎮護国家教たる仏教を、復活天智朝が、人間主義維持を目的とするところの神仏習合教でもって置き換えを図り、それに成功した、というのが私見であるわけですが、その、悪しき副産物、が、加持祈祷の堕落形態とも言うべき、その現世利益的利用の横行であった、と、私は捉えています。(太田)

(続く)