太田述正コラム#11300(2020.5.20)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その26)>(2020.8.11公開)

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[足利将軍家]

 「藤原季範<(前出)の>・・・養女となった孫娘(実父は<季範の子の>範忠)は足利義康<(注73)>と結婚して義兼を生み、後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E7%AF%84

 (注73)義康の父の源義国<(義家の四男)>は、「新田・足利両氏の祖にあたる。・・・源頼信-頼義-義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢に合わないと義家に判断されて後継者から外されていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%9B%BD
 「源為義<は、>・・・源義親の四男として生まれる。・・・父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。・・・
 1106年・・・に義家が死去すると義忠が家督を継ぐが・・・暗殺された(源義忠暗殺事件)・・・後に<為義が>河内源氏の棟梁と称す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9 
 「義国は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠としていたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、長子の新田義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を継承し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%B0%8F

⇒新田、足利両家は、棟梁家になり損ねたという思いを抱いていたことだろう。(太田)

 「足利義兼<の>・・・母は熱田大宮司藤原範忠の娘だが、祖父藤原季範の養女となった。藤原季範は頼朝の母由良御前の父でもあるため、義兼は父方でも母方でも頼朝と近い血縁関係にあった。・・・1181年・・・2月に頼朝の正室北条政子の妹・時子<を正室として迎え>、頼朝とさらに近い関係になった・・・
 足利氏の嫡流は正室所生の三男義氏が継ぎ、子孫に足利将軍家の他、吉良氏・今川氏・斯波氏・渋川氏・一色氏などが出た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%85%BC
 「足利義氏<(1189~1255年)は>・・・正室に・・・<北条>泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている。・・・
 和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%B0%8F_(%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AE%B63%E4%BB%A3%E7%9B%AE%E5%BD%93%E4%B8%BB)
 「足利泰氏・・・は、はじめ名越流北条氏の北条朝時の娘を正室に迎え、斯波家氏、渋川義顕を儲けるが、後に得宗家の北条時氏の娘と婚姻することになり、これを正室として足利頼氏を儲けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B3%B0%E6%B0%8F
 「頼氏の死後、足利氏嫡流の家督は側室(家臣・上杉重房の娘)との間に生まれたとされる家時が跡を継いだとされる。それまで足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあったが、家時はその例外として跡を継ぐことができた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E9%A0%BC%E6%B0%8F
 「足利家時<の>・・・正室<は>北条時茂の娘・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AE%B6%E6%99%82
 「<その嫡男>足利貞氏<の>・・・正室<は>北条顕時の娘・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E8%B2%9E%E6%B0%8F
 「<貞氏の嫡男>足利高義<の>・・・正室<は>北条顕時の娘・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E9%AB%98%E7%BE%A9
 「<貞氏の庶子>足利高氏<(尊氏)の>・・・正室<は>赤橋<(北条)>登子・・・
 足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。・・・
 勅撰歌人である武家歌人としても知られ、・・・『続後拾遺和歌集』(正中3年(1326年))から『新続古今和歌集』(永享11年(1439年))まで、6種の勅撰集に計86首の和歌が入撰している。・・・『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。・・・
 連歌については『菟玖波集』に68句が入集しており武家では道誉に次ぎ二番目に多く入集している。・・・
 源頼義父子が名人として知られていた笙を豊原龍秋から学び、後醍醐天皇の前でも笙を披露している・・・。後に後光厳天皇も尊氏に倣って龍秋から笙を学んだ・・・。
 地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており、画才にも優れた人物だった。この他にも扇流しの元祖であるというエピソードもある。・・・
 尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあった夢窓疎石が次の3点から説明している(『梅松論』)。
1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
 「最後の執権赤橋守時の妹登子は足利尊氏の正室として鎌倉幕府滅亡後も生き残り、尊氏との間に産まれた足利義詮および足利基氏以降の足利将軍家・鎌倉公方~古河公方家へと赤橋流北条氏の血は受け継がれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F

⇒一般に余り意識されていないことだが、足利将軍家は、ほぼ北条得宗家そのものであったと言ってもよいことが分かる。
 また、足利幕府を創建した足利尊氏は、鎌倉幕府を創建した源頼朝に勝るとも劣らない、「高度な文化と秩序」を身に備えた人物だったことも・・。
 夢窓疎石の尊氏評から窺えるのは、尊氏が、まさに、厩戸皇子が思い描いたところの、私の言葉で言えば、縄文的弥生人・・人間主義者たる武人・・であった、ということだ。(太田)
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⇒末木はそうおっしゃるけれど、「北条氏<が>・・・桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も出てき<ており、>・・・・・・同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ豊後緒方氏の祖である大和大神氏の一族ではないかと<する推察や、>・・・三嶋大社とも縁があり、伊豆国造とつながりがある日下部氏一族ではないかという推察もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
ところ、桓武平氏の流れであると自称していたことが重要・・なお、大神氏ならともかく、日下部氏だったとしても、広義の天皇家であることに変わりはない・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E6%B0%8F
であって、承久の乱という北条宗家存亡の危機に、源頼朝の実兄弟に近い存在であった足利義兼の嫡男であり、頼朝の系統が絶えた時点で源氏の事実上の棟梁と目されていたとも言えそうな、足利義氏、が、北条宗家側に立ってくれたことで大いに救われた、という経緯がある以上、北条政子や泰時は、私の言う、(武家の間では常識化していたと私が想像しているところの)桓武天皇構想を否定して朝廷から権威の主体としての地位を奪うことなど、況や、朝廷を廃止することなど、夢想だにしなかったはずです。(太田)

(続く)