太田述正コラム#11306(2020.5.23)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その29)>(2020.8.14公開)
「・・・中世には・・・さまざまな予言が未来記として流布し、また神仏の託宣がしばしば人々を動かす大きな力となった。
『比良山古人霊託(ひらさんこじんれいたく)』は、僧慶政<(注80)>が女性に憑いた比良山の天狗<(注81)>と交した問答を記したもので、予言や人々の来世の運命が述べられている。
(注80)1189~1268年。「藤原道家の兄とされる。幼時に、抱いていた乳母が誤って落としてしまい、背骨の一部が飛び出るほどの障害を負ったという。出家して天台宗寺門派の僧となり、1208年・・・京都西山に隠棲している。1217年・・・宋・・・へ渡って翌1218年・・・に帰国、1226年・・・西山に法華山寺を建立している。高弁(明恵)とも交流があった。著作に「比良山古人霊託」、「法華山寺縁起」、1243年・・・に渡宋の途中で琉球国に漂着した人々の伝聞を記録した「漂到琉球国記」などがあり、「閑居友(かんきょのとも)」の作者とも言われている。「続古今和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%94%BF
「閑居友は、・・・仮名文で書かれた鎌倉初期の仏教説話集。・・・1222年・・・春成立。・・・先行の説話集にない話だけを収める。無名の人や、女性を主人公にとった説話がおおく、その発心の仏道に適うことを称える評論を備えるのを特徴とする。・・・
谷崎潤一郎は本作上巻19話の「あやしの僧の宮づかへのひまに不浄観をこらす事」をモチーフに「少将滋幹の母」を描いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E5%B1%85%E5%8F%8B
(注81)「天狗は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ<る。>・・・
日本の古代に大陸より渡来し、推古朝から鎌倉時代初期まで行われていた仮面音楽劇であった、伎楽で用いられた伎楽面の一部に、高鼻の天狗面と鼻などの形状が顕著に類似したものが見られる。また他の伎楽面には、高鼻天狗面同様、目が金色(白目が金色)になったものがある。これらの事から、伎楽面が高鼻天狗(面)の起源であるとする説が唱えられている。
なお、一般に伎楽面の顔形は、古代西方世界人(白人)の顔形に影響を受けたものが多いといわれる。その白人的特徴が高鼻天狗(面)に受け継がれているとも考えられる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97
このように、当時の観念では、歴史は人間だけでは解決しきれないものとして、神仏や、場合によっては天狗のような異類までもが関わっていると考えられた。
『平家物語』でも、平家の繁栄は厳島や熊野の加護によるもので、神々から見放されて滅亡したとされている。
⇒「『平家物語』が描き出しているのは、滅亡する平家の悲劇的な運命であったが、その叙述の基調となっているのは、序章「祇園精舎」に示されているように「盛者必衰の理」を踏まえての無常の思いで、それがこの物語に深い哀感をしみ込ませ、合戦を主題とする勇壮な軍記でありながら、きわめて陰影に富む「あわれの文学」として独自の趣(おもむき)をつくりだすことになっている。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=4
という通説というか、当然の説に対するに、この末木説は、『平家物語』のテーマを、余りにも貶め、矮小化している、と言わざるをえません。(太田)
死者の怨霊もまた無視できず、とりわけ滅亡した平家の怨霊は畏れられ、慰撫が必要と考えられた。
⇒ここも違和感があります。
下掲に目を通してください。↓
「山田雄司<(注82)は、>「怨霊と怨親平等思想の間」という論文<の中で、>・・・「・・・為政者による敵味方関わりなく供養するあり方は、特に院政期以降顕著になっていく。」として、建久八年十月四日「源親長敬白文」において「保元の乱以来の諸国で亡くなった人々の供養をしようと、頼朝が全国に八万四千基の宝塔造立を計画し、但馬国分として三百基造立することが述べられている」として、その中で「須混勝利於怨親、頒抜済於平等」と、源頼朝の周囲において怨親平等思想が見られることを指摘している。
(注82)1967年~。京大文(史学)卒。亀岡市史編さん室を経て、筑波大院博士、現在三重大教授。「忍者に関する著書が多数ある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%9B%84%E5%8F%B8
<そして、>「怨霊調伏のために八万四千基を造立しようとしているのではなく、死者の追善・追福のためにであり『怨親平等』思想に基づくものと理解した方がよいだろう。なお、怨霊と怨親平等思想の関わりについて山田氏は「怨霊の鎮魂と『怨親平等』思想に基づく供養とはときに密接にからみあっているが、両者は基づく思想が異なっているため、別物として考えた方がよいのではないだろうか。原則として怨霊となるのは個人であるのに対し、後者の場合は多数の死者に対して行われる。」としている。<更に、>・・・「国家にとって『怨霊』が重要な位置を占めていたのは中世までであり、近世以降は民衆の中で恐れられるにとどまった。そして、怨霊が神とされるのは、十世紀以降の菅原道真以降のことである。「『慰霊』は怨親平等思想の拡大とともに鎌倉時代より盛んとなり、室町時代には施餓鬼と結びついて戦乱で亡くなった大量の人の供養が行われた。」
https://kusanomido.com/study/history/japan/heian/20399/2/
この山田説を踏まえれば、『平家物語』は、無常の思いに基づき、怨親平等思想でもって、源氏(源義仲)や平氏、及び、源氏(源頼朝)、の、保元の乱から源平の戦いまでの、広義の戦死者達の供養を行ったもの、と見るべきなのではないでしょうか。
ですから、末木の主張は不適切なのであって、「怨霊は畏れられ、慰撫が必要と<は>考えられ」なくなりつつあったのであり、滅亡した、或いは死亡させられたところの、「平家の怨霊」だって、既に、必ずしも、「畏れられ、慰撫が必要と<は>考えられ」なくなっていた可能性が高いのですからね。(太田)
中世の歴史は、このような「冥」の者たちとの関わりの中で考えられていた。」(58)
(続く)