太田述正コラム#11308(2020.5.24)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その30)>(2020.8.15公開)
「・・・日本は宋や高麗との間に国家間の交流はなかったが、民間の交流はきわめて盛んに行われた。
なかでも平清盛は積極的に貿易を推進して、宋や高麗の新しい文化を摂取した。
重源<(注83)>(ちょうげん)・栄西・俊芿<(注84)>(しゅんじょう)らは入宋して新しい仏教をもたらし、禅僧の禅僧の蘭渓道隆<(注85)>(らんけいどうりゅう)も来日して、幕府に重用された。
(注83)1121~1206年。「紀氏の出身で・・・[俗名は刑部左衛門尉重定。]真言宗の醍醐寺に入り、出家<し、>のち、・・・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。・・・南宋・・・を3度訪れた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%BA%90
「入宋中,浄土教の知識を得るほか,阿育王山の舎利殿を建てた建築法を体得したといわれる。近来,重源の入宋を疑う説もある。・・・<12>80・・・年東大寺が兵火に焼かれると,東大寺再建のため造東大寺大勧進職となり,諸国を回って勧進に努めた。・・・この人選には自薦,他薦の諸説があって一定しないが,背後には醍醐寺時代の村上源氏師房一族との人脈や,後白河天皇の乳母子の醍醐寺座主勝賢とのつながりがあったとみられる。・・・宋人の陳和卿を起用して大仏の鋳造を始め,・・・1184・・・年に完成,・・・1185・・・年開眼供養を遂げる。次いで大仏殿の再建に取り組み,翌年に・・・周防国が東大寺造営料国になると,同国司となった。慈善救済にも事績が多く,魚住の泊 (とまり) の改修,清水寺橋,勢多橋,渡辺橋などの架橋がある。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8D%E6%BA%90-97775 ([]内も)
(注84)1166~1227年。「出自については不詳・・・肥後国・・・の出身。・・・1183年・・・18歳の時に出家剃髪し、翌1184年・・・大宰府観世音寺で具足戒を受けた。[当時の僧界が末法到来にかこつけて破戒無戒の状態であることに満足できず]1199年・・・宋・・・に渡った。・・・禅・・・律・・・天台教学を学んで、12年後の1211年・・・日本に帰国して[栄西の請により建仁寺に<一時>住し]北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家[・・北条政子,北条泰時・・]など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。・・・
能書としても知られ、その書名は宋朝においても高かったといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%8A%E8%8A%BF-78621 ([]内)
(注85)1213~1278年。「現在の重慶市・・・の出身。・・・13歳で出家し、・・・1246年・・・渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日し・・・宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、・・・1253年・・・、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。・・・当時の建長寺の住持はほとんどが<支那>人であ<った。>・・・蘭渓道隆の後継として、無学祖元が来日した。・・・
蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E6%B8%93%E9%81%93%E9%9A%86
⇒ここで登場した、重源、栄西、俊芿、蘭渓道隆・・彼らの「留学」ないし渡航経費の出どころを知りたいところですが・・、のうち、重源は、真言宗なのか浄土宗なのか、判然としませんでしたが、栄西と蘭渓道隆は臨済宗で、俊芿における、律・密・禅・浄土、中の禅も臨済宗であること、そして、その臨済宗は、3人それぞれが異なった法嗣の系統の臨済宗であること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97#%E5%BB%BA%E9%95%B7%E5%AF%BA%E6%B4%BE
、には興味深いものがあります。
これは、臨済宗が、悟りを師匠から弟子へと伝達する、という性格のものであることから当然と言えば当然なのですが、悟りそのものは知識ではないので、臨済宗にはその核心部分において教義がなく、従って教団もなければ宗派もない、と言ってもよさそうですね。
ですから、栄西は、教祖でも何でもないわけで、支那と日本の法嗣群中の一結節でしかないわけです。
とはいえ、現在の日本には、臨済宗の宗派が15ある、ということに、一応、なっているようですが・・。(上掲)
なお、臨済宗において、「悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。」(上掲)ともされているようですが、私に言わせれば、仏性というのは「人間主義性」のことですから、決して「言葉による理解を超えた」ものではないのですがね・・。
但し、「いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。」(上掲)は、結果オーライみたいな話であるもののまさにその通りであるのかもしれず、私見では、臨済禅寺院における詩、絵画、建築、室内、庭園等の環境に身を浸すことで、我々は、自身の人間主義性の回復、強化を図ることができるのではないかと思っているのですが・・。
この辺りのことを、もう少し、経験科学も踏まえつつ、論理的に説明、解明ができればいいのですが。(太田)
しかし、宋で主流となった儒教の導入はあくまでも仏教に付随するものとして扱われ、仏教中心の体制が続くことになった。」(59)
(続く)