太田述正コラム#11312(2020.5.26)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その32)>(2020.8.17公開)

 「・・・院政・鎌倉期に新しい形態の仏教が大きなエネルギーをもって進展したことは間違いない。
 その大きなきっかけとなったのは、1180年に平重衡(しげひら)の焼討<(注88)>によって、南都の大寺院がすべて灰燼と帰したことである。

 (注88)南都焼討は、「1181年1月15日・・・に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%84%BC%E8%A8%8E

 そのことが逆にその後の復興の機運を盛り上げることになった。
 翌年には<清盛が急死し、>後白河のもとで藤原行隆が造東大寺長官となり、重源が東大寺大勧進職に任じられて、勧進活動が始まった。<(注89)>

 (注89)「興福寺も・・・過去の再建の例にならって朝廷・藤原氏(氏長者・藤原氏有志)・興福寺の分担による再建が決定し、罹災の約半年後、・・・再建工事が開始された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%84%BC%E8%A8%8E

 その活動は、法皇・将軍から各地の豪族などにまでわたり、地域的にも東北の平泉から九州にまで及んだ。
 いわば官民一体の大運動であり、仏教が日本国中の庶民にまで浸透していくのは、この重源の活動が大きなきっかけとなっている。
 栄西や法然も、重源のネットワークと関わっている。
 それゆえ、従来のように、新仏教と旧仏教が対立していたという理解は必ずしも適切ではなく、仏教界全体を巻き込んだ復興運動が新しい仏教の機運を起こしたと見るべきであろう。・・・
 鎌倉新仏教中心論に代わって黒田俊雄<(注90)>によって提示された顕密体制論<(注91)>は、大寺院が公家や武家とともに大きな所領を持ち、権門<(注92)>の一角をなしていたことを指摘する政治・経済史的視点に立つものであるが、同時に顕教(密教以外の仏教)と密教を併せた顕密仏教の重要性を説く点で、思想史的にも重要な問題を提起した。

 (注90)1926~93年。京大文(史学)卒、神戸大を経て阪大。同大博士。同大教授を経て大谷大学教授。「昭和天皇について、「戦争の責任者であるし、世界の諸国民を含めて人民を苦しめた張本人だということをハッキリさせることが大事なんです。」と昭和天皇の戦争責任論を主張し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E4%BF%8A%E9%9B%84
 (注91)「日本中世において正統と見なされた宗教は、平安時代以来密教を基軸に統合された顕密の仏教であり、旧仏教八宗は併立していたのではなく、密教に見ることが出来る鎮魂呪術的信仰という共通の基盤の上に密教の絶対的・普遍的真実性を前提とした競合的な秩序を形成していたものであるとし、延暦寺などの旧仏教系寺院が、このような秩序を保ちつつ国家権力と密着し、正統な宗教としてのあり方を固めた体制が中世を通じて見られたとするのが顕密体制論である。
 この理論により、戦後見られた鎌倉新仏教を中世仏教の代表と見なす見解に対し、旧仏教が中世仏教の本流であるという認識が生まれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AF%86%E4%BD%93%E5%88%B6
 (注92)「公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業に近い形で権力を行使したのが中世国家であるというのが権門体制論である。国家の様々な機能は各権門の家産制的支配体系に委ねられ、これら三者を統合する形式として、官位など公的な地位を天皇が付与し、三者の調整役ともなる。この意味で天皇は権門の知行体系の頂点に位する封建国家の国王なのだとする。荘園制が事実上崩壊した応仁の乱を契機に権門体制は崩壊し、織豊政権による天下統一までいわゆる国家権力は消滅したというのが黒田の主張である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80%E4%BD%93%E5%88%B6

 黒田はとりわけ密教の重要性を指摘し、新仏教中心論が密教に否定的だった見方を転換した。」((60~62)

⇒日本の封建制/荘園論については、もう少し調べた上で機会を改めて私見を開陳するつもりですが、「注90」から分かるように、同時代史について、あらゆる意味で完全に的外れなことを言っている、黒田のような「歴史」学者が、過去史が分かるはずがありません。
 私は、慈円の史観も虎関師錬の史観も評価しませんが、この2人がそれぞれ、時代の著しい制約の下で史観を展開しなければならなかったことと較べれば、黒田は、比較にならないくらい恵まれた環境に置かれていながらそんなザマなのですから、この2人よりもはるかに出来が悪い、と言わざるをえますまい。
 顕密体制論なるものそのもののナンセンスさについては、このシリーズの中で書くつもりでいます。
 蛇足ながら、黒田が教鞭を執っている大谷大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%A4%A7%E5%AD%A6
ですが、私の知識から完全に欠落していました。(太田)

(続く)