太田述正コラム#11314(2020.5.27)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その33)>(2020.8.18公開)

 「平安中期には、仏教は国家レベルから個人レベルの信仰や実践に転換するが、その方向をさらに進め、その後の基礎を作ったのが、・・・五輪思想<(注93)を引っ提げた>・・・12世紀前半の密教思想家覚鍐<(注94)>であり、・・・密教の実践では、行者の身・語・意のはたらきが瞑想の中で仏の身・語・意の三密と合致すること(三密加持)によって即身成仏が実現するとされた。

 (注93)「覚鑁著作の『五輪九字明秘密釈』とは、「五輪」つまりア・バ・ラ・カ・キャ(胎蔵界の大日如来の真言)と 「九字」つまりオン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・カ・ラ・ウーン(阿弥陀仏の真言)との 「明」つまり真言についての「秘密釈」つまり密教的解釈という意味である。
 『五輪九字明秘密釈』には胎蔵界曼荼羅の解釈から阿弥陀仏の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は本質的には同じものであり、釈迦や弥勒菩薩、毘廬遮那仏など他の仏やそれぞれの浄土も本質的には同じものであり、往生と即身成仏も本質的には同じものと書かれている。それは五輪塔
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E5%A1%94#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Eisonto-mae.jpg >
が宗派を超えて成仏できる仏塔であることを意味する。
 五輪塔の円形=水輪は胎蔵界の大日如来の印を表し、三角形=火輪は金剛界の大日如来の印を表している。これは五輪塔が五大に加え空海が『即身成仏儀』に書いた識大をも併せ持つ六大の意味を持つということである。識大とは仏と一体になることを意味し、成仏することを意味する。2つの印を結ぶということはまた、五輪塔が金剛界と胎蔵界の2つの曼荼羅を併せ持つ立体曼荼羅であることをも意味する。
 また、五輪塔は成仏するための3つの行い密教の三密を併せ持つ。三密には身密、口密、意密がある
 身密=手に印を結ぶ。五輪塔は胎蔵界と金剛界の大日如来の印を結ぶ。
 口密=口で「真言」「陀羅尼」をとなえる。五輪塔に真言を彫ることにより、死者が真言をとなえる形になる。
 意密=心を集中して「三摩地」の境地に入らせる(座禅をすること)。
 五輪塔は、方形=地輪が人が脚を組む形、円形=水輪、三角形=火輪が印を結び、半月形=風輪が顔、宝珠形=空輪が頭と、人が座禅をする形をとっている。これは『大日経疏秘密曼荼羅品』や『尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀』の記述を図解したものと考えられる(「金剛輪臍已下」「大悲水輪臍中」「智火輪心上」「風輪眉上」「大空輪頂上」)。
 『五輪九字明秘密釈』により宗派を超え、幾重にも成仏の形を持つのが五輪塔の構造や概念と言える・・・。なお、この著がしばしば五輪塔の起源であるかのように引用されるが、・・・この著以前に五輪塔は出現しており、その普及に大いに寄与したと言えても起源とするのは適切でない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E5%A1%94
 (注94)かくばん(1095~1144年)。「(1095年・・・に京都仁和寺の荘園藤津庄・・・現:佐賀県鹿島市納富分2011 新義真言宗大本山誕生院・・・の総追補使伊佐兼元の三男として誕生する。覚鑁は8歳の時に早くも僧侶になる誓願を起こし、10歳の時に父が亡くなると仁和寺との縁を頼って13歳で仁和寺成就院へ入り、寛助のもとで学び、16歳で得度・出家。20歳で東大寺戒壇院で受戒し、名を覚鑁と改める。その後、高野山へ入り、青蓮・明寂のもとで学ぶ。
 35歳で古式な真言宗の伝法の悉くを灌頂し、空海以来の才と称されると、・・・1130年・・・に高野山内に伝法院を建立する。そして鳥羽上皇の病を治すとこれまで以上の帰依を受け、上皇が建てた北向山不動院の開山にもなり、荘園を寄進されるなど手厚く保護された。
 ・・・当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が跋扈する有り様であった。真言宗がすっかり腐敗衰退してしまった現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。
 1132年・・・、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院を建立し、大伝法院座主に就任したのを皮切りに、さらに2年後の・・・1134年・・・には金剛峯寺座主をも兼ねて、事実上同山の主導権を制し、真言宗の建て直しを図る。しかし、当然この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に・・・1140年・・・に高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、やがて根来寺を成立させていく。・・・
 1143年<に>覚鑁<が>入滅<すると、>・・・弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、ついに・・・1288年・・・になって高野山大伝法院の学頭頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を展開し、発展させていく。
 後に根来山は豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅、生き延びた一部の僧たちは奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院(智山)において新義真言宗の教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺)、真言宗豊山派、真言宗智山派の基礎となった。
 江戸時代になり、ようやく新義真言宗は紀州徳川家より復興の許しを得て根来寺と共に復興、覚鑁は生前の功績を評価され興教大師の諡号を贈られた。・・・
 覚鑁は真言宗において、空海以外では唯一の仏教哲学「密厳浄土」思想を打ち立てた僧として高く評価されている。例えば、・・・宮坂宥勝は「鎌倉仏教全てを包摂した」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81

 しかし、それは決して容易なことではない。
 そこで覚鍐は、三密が不可能であれば、一密だけでもよいとしている。
 ここから、一向専修(いっこうせんじゅ)の可能性が生まれる。
 語密だけを徹底するところに念仏が独立し、意密に専念するところに禅が展開すると見ることができる。
 このように見れば、密教がその後の新しい実践仏教の源流になっていると考えられる。」(62~63)

⇒天台宗と相俟って真言宗が、いかに、(非鎮護国家教たる仏教であるところの、私の言う)神仏習合教たる仏教各派の興隆に資したのかが分かろうというものですが、覚鑁の成仏(悟り)方法論が全て誤りであることは、太田コラム読者の多くは先刻ご承知のはずです。
 身密、口密、などやったところでほぼ時間の無駄ですし、意密だって支那や日本に伝わったのはサマタ瞑想だけでヴィッパサナー瞑想を伴っていなかったので、それだけでは人間主義化できないのですからね。
 いや、そもそも、日本人の大部分は、縄文時代の時もそれから後も人間主義者のままであって、既に成仏し(悟っ)ており、それが弥生性を発揮したことで弱化した場合に回復させる方法論しか必要とはしなかったのですからね。(太田) 

(続く)